第329話 決して手を放さない
ガチャリと鍵の開く音がして、咲良社長が帰宅してきて、僕らをみてぎょっとした。
「ただいま~、ってずっと抱っこしてたの!?」
「おかえりなさい、咲良社長」
咲良社長は鞄を壁の出っ張りに引っかけながら首を傾げる。
「どうしたの? いつもより深刻そうな顔をして。訳分かんない金額の取引してたときのほうが気楽そうだったわよ」
そりゃそうだよ。
金なんてどうでもいいもん。
「この子の、ユラちゃんのことはどこまで把握されてるんですか?」
「ん、とりあえずこっちに。ユラの部屋はこっちだから」
咲良社長の先導についていって、個室に入る。
ふわふわゆらゆらした感じの九重ユラの部屋だから、きっと女の子らしいふわふわもこもこをイメージしていたけれど、その部屋は、――驚くほど何も無かった。
ベッド。
それだけ。
僕は気付く。
気付かずにはいられない。
これが彼女の心象なのだ。
彼女の中には何も無いのだ。
咲良社長に拾われたからただ生きているだけ。
言われたからアイドルをやってるだけ。
だからあんなに、どう見られても気にしないでいられるんだ。
だって、九重ユラには何も無いから。
「なにも欲しがらないのよ。食べ物も好むのはお菓子くらいで、それ以外はほとんど口にしない」
ゾッとする。
いま腕の中にいる存在の儚さを、僕は恐れる。
すぐに消えてしまうのではないかと、確かに重みが、温もりがあるのに!
僕はひどく冷たく感じる指先で、九重ユラを起こしてしまうのではないかと思いながら、彼女をそっとベッドに横たえた。
「大丈夫。ユラは寝たらしばらく起きないから」
咲良社長に促されて部屋を出る。
本当は目を離すのも怖い。まるでそこに居たのが嘘だったように消えてしまうのではないかと思ってしまう。
リビングに戻ってくると、咲良社長はなにも言わずに冷蔵庫を開け、ロング缶のビールをドンとテーブルに置くと、片手でプルタブを開けた。
そしてそのまま呷る。
「着替えて気が抜ける前にこの話はしておきましょう」
「お願いします」
「あの子は私がトー横で拾った、とは言ったわよね」
「はい」
「その辺のディティールはどうでもいい。あの子は今にも悪そうな男たちに連れて行かれそうだった。いつもならそんなことはしない。いくら私でも自らあんな場所に足を運んだ子を助けたりはしない。でもね、あの子は違った。男たちになんの反応も示していなかった。だから逆に男たちは逆上してあの子に暴力を振るうところだった。私は――、いいのをもらっちゃったわね」
咲良社長は苦笑する。
分かってはいたけれど、この人は暴力の前に身を晒すことに躊躇が無い。
僕とは違ってレベルの恩恵は無いはずだ。
「ユラは私のことを見て『ママ?』って言ったの。それを聞いて男たちは慌てて逃げていった。関係ない第三者だと分かったらさらに暴力に出ていたかもしれない。不思議よね。保護者が守る子には、あんな奴らでも一歩引く。ユラには救われたわね」
救ったのは貴女でしょうに!
「それから警察に行ったけれど、捜索願は出ていなくて、ユラも自分の住所が分かるものも持っていなかったし、言えないしで、警察からは預かっておいてくれって言われて、正直面倒なことになっちゃったな、って思ったわ。事務所の立ち上げで忙しいときだったし、あの頃はまだワンルームだったし。ねえ、あの子何歳だと思った?」
「……実年齢は12か13くらいかと。体の成長が早くて、心は遅れているのかなって思っていますね」
「あの子はまだ10歳よ」
「じゅ――!?」
だとしたら随分と肉体の成長が早い子だということになる。
「私はまずあの子が誰なのかを突き止めなければいけなかった。誰も手伝ってはくれなかった。ふざけんなよって話よね。私は未成年が危ないところに手を差し伸べた第三者よ。その私がどうしてこんなに責任を負わなきゃいけないの? 私には戦わなければならない相手がいて、守らなければいけない子どもたちがいるのに。こんな子にかかずらっている場合じゃないのに」
「咲良社長……」
「偶然、そこに鏡があって自分の顔が見えた。私がされたことを知りながら、素知らぬ振りをしていた大人がそこにいた。私は――ッ! 私がッ、私自身がそうなることには耐えられないッ!」
歯が割れそうなほどに食いしばり、咲良社長は両手を強く握りしめた。
ああ、この彼女も僕は救えない。
もう終わってしまったことだから。
「それでも私にはやらなければいけないことがあった。どうして引けない人生の目的があった。線引きが必要だったのよ。だから私はあの子に聞いたわ。ねえ、アイドルにならない? って」
それは九重ユラを花伝咲良の庇護対象にするための契約。
この契約が結ばれたが最後、花伝咲良は絶対に九重ユラを守るという誓約。
「きっとあの子はよく分かっていなかった。あの子はね、私をママと呼ぶのよ。だからきっとママに言われたからって感じだったと思う。それでもあの子は了承した。だから私はあの子のためにならなんでもやるわ」
「社会的な手続きはどうされたんですか?」
「手当たり次第に小学校に当たって、不登校の児童から該当者を見つけて、身元を特定した。その時には両親はMIDで死亡認定済みだった。あの子は行方不明扱いで、何もかもが処分された後だった。ほんの一月くらい違えば全然違っていたのに。私は間に合わなかった!」
そしてビールの残りを一気に流し込んだ。
カァンとテーブルに叩きつけられた空のビール缶が音を立てる。
「ありとあらゆる手を尽くして、本来は無理な監護権を取ったわ。ごめんね。ヒロくん。私はバツイチなの」
いや、別に謝るところではないけれど、それはつまり、九重ユラの監護権を手に入れるために書類上だけでも結婚したことがあるということか。
つまり児童福祉施設に入ったことにして、そこから里親として九重ユラを引き取った、ということなのだろう。
その辺のあれこれは金やその他で黙らせたのだと思う。
僕はその他については深く考えないようにした。
「だからあの子は私の娘ではないけれど、私にはあの子の面倒を見る義務があるってこと。バツイチのこぶ付きって敬遠されちゃうのよね」
ちょくちょく挟み込んでくるのなに?
いい話だよ! 普通にいい話だよ!
何の関わりもなかった行きずりの少女一人のためにここまでしてしまえるのは、僕から見るとちょっと異常だけど、それは行きすぎているという意味で、方向性は歓迎する。
「私はあの子に親としての愛情を注いでいるとは言えない。実際に親ではないし、子どもを産んだこともないしね。だから仕方がないのだけど、あの子は誰かに甘えることはしても、ただ甘えるだけなの。自分たちがいなくなったらそうしなさいと本当の親に言われたからそうしているだけで、本人が甘えたくて、そうしているわけじゃない。あの子はいなくなった両親からの愛情を探して彷徨い続けているのよ」
「そんなことって……」
僕は言葉を失う。
誰かに甘えることすら、もうすでにいない両親を求めての行為だというのか。
それは、つまり、あの子はまだ何一つ乗り越えられていない、ってことじゃないか!




