第304話 子どもは親の秘密会議を知っている
僕は全ての感情を覆い隠し、ニッコリと笑って手を差し出した。
僕にはそれができる。
できてしまう。
「では契約は成立したということで」
父親が手を伸ばしてきたところで、僕はひゅっと手を上に上げる。
なにが起きたのか分からず、白河ユイの父親はきょとんという顔をする。
でもさ!
人として譲れないことがあるだろ!
「ああ、そうだ。ひとつ忘れていました。娘さんは確か17歳でしたよね」
「そうだが、それがなにか問題でも?」
白河ユイは18歳まで間も無い。
つまり僕らが未成年者後見人になっても、それはすぐに外れる。
父親は明確に焦りをその顔に浮かべた。
その事実に今更ながらに気付いたのだろう。
僕もそのことに気付き、僅かな期間に二億は高すぎると交渉を改めると思ったのか?
僕は最大級の軽蔑を込めて、心の中で吐き捨てる。
バカめ!
お前らが売ったのは時間じゃない。
期間じゃない。
娘との関係だ!
未来だ!
未来永劫だ!
だけど――、
「いえ、確か15歳以上の子どもが対象の場合、親権放棄と、未成年者後見人の選任には当人の意思が大事だったことを思い出しまして」
僕は挙げた手で二階を示す。
「娘さんの意思確認が必要です」
くそっ、僕は甘い。
どうしようもないほど甘い。
この両親に支配されている白河ユイであれば、両親の親権放棄に反対する可能性は高い。
支配とは両者の関係性が深いから成り立つものだ。
どんなに歪で、穢れて見えても、両者には愛があった。
それだけは間違いない。
それだけは――、頼むから、そうであってくれ。
「もし娘さんがこの話を断わるようであれば、契約は破棄としましょう。いやはや、僕もまだまだだな。流石に人を買うのは初めてなもので、期待させてしまって大変申し訳ない」
そう言うと、白河ユイの父親は腰を浮かせかけ、それがあまりにも浮かれている仕草だと気付いたのだろう。
育ちが出たな。
そしてその醜さが顔を覗かせたな。
白河ユイの同意が必要なら、それを容易に取れると思ったな。
お前、そう思ったな!
「分かりました。すぐに娘に聞いてみましょう。いや、この場に呼んだほうがいいな。おい」
「はい、あなた」
ああ、なんて茶番劇だ。
お前たちは気付いていないのか。
娘が動物に話しかけることの意味を。
娘が得たスキルを。
いま部屋のすぐ外を離れた小さな気配を。
すべてを聞いていたなにかを。
お前たちは何も知らないのか。
子どもってのは、親が深夜にしている秘密の会話を知っているんだよ!
母親が立ち上がるのと、ととと、と、階段を降りてくる音が聞こえてくるのは同時だった。
「愛菜、ちょっと」
母親の呼びかける声。
ふすまの向こう側で、気配が足を止める。
僕はいま初めて君の名を知ったよ。
僕は僕自身の罪深さに震えそうになる。
水之江愛菜。
僕が買おうとしている女の子の名前だ。
僕は本名も知らない子の人生を買おうとしていた。
「話があるから入ってきなさい」
「なんでしょうか?」
ふすまの向こう側で水之江愛菜は言葉を返してくる。
「話があるの。大事な話よ。あなたの今後について」
「分かりました」
穏やかな声で、何の動揺も感じさせず、水之江愛菜はふすまを開ける。
その表情はいつもと変わりない。
真剣に親と向き合っている。
彼女はすでに全てを知っている。
なにかがここの会話を盗み聞きしていた。
それは間違いない。
そしてその内容を彼女は知り得るのだ。
調教のスキルによって。
畳の縁を踏まないように、自然と彼女は部屋に入ってきて、そして僕の隣に座った。
言葉は必要なかった。
それは何よりも雄弁に彼女の意思を示していた。
「愛菜!」
父親の発する叱責の声。
しかし彼女は身じろぎひとつしない。
僕は理解した。
理解してしまった。
彼女は正しく契約を理解したのだ。
彼女の所有権は、――僕に移った。




