第295話 大事なものを奪われない
結局僕は頭が混乱しているからとその場を逃げ出して、皆と合流した。
鳴海カノンは手応えを感じているのか、ニッコニコだ。
意外なのが、メルが僕に暴力を振わなかったこと。
なんで? どうして? 死ぬくらいの一発は貰うと思っていたのに。
これ加害者に対して被害者が同調してしまうというストックホルム症候群かな?
違うな。
メルは僕が他の女性に気を払うと小突いてくる。
まあ、小突くなんて可愛いものではないんだけど。
でも今回はその段階は通り越してしまった。
だから小突いてこない?
「えっと、その、なんというか、言い負けて、断れませんでした。ごめんなさい」
「え? 別にいいんじゃない? カノンちゃんが良い子なのは間違いないし、私はうまくやっていけると思うな」
「今すぐ断わってくる」
行こうとする僕の服をメルが掴んで止めた。
「違う違うって。アーリアだと奥さんたくさんいる人もいるんだけど、こっちは普通じゃないの?」
「異世界倫理観!」
いつもの異世界断絶だ!
「そっか、そうなんだ。ふぅん」
「いや、断わるのは断わるよ。ただ混乱しちゃってさ。ちゃんと整理してから、断りを入れようと思う」
断りだけに、理が必要だね!
「そこはひーくんが好きにしたらいいと思うよ。ひーくんはハーレム作っても許されるくらい稼いでるよ」
「僕のお金はともかく、心が持たないよ!」
僕の心はメルでいっぱいだ。他の気持ちが入りこむ余地は無い。
本当だよ。
ただ本当に今回は混乱してしまったんだ。
つまり、僕は初めて女の子から好きだと告白されたんだ。
あれ?
よく考えてみたら好きだとは言われてないな。
告白されてないよね。
一生一緒にいてくれやとは言われたけど。
女の子ってなんなの?
どうして男を惑わせるの?
僕が必死にメルに弁解をしていると、咲良社長が僕の方を向いて、ちょいちょいと手招きをした。
次の店が決まったのかな? と思って、メルに断わって咲良社長のところへ行く。
そうすると、すすいと、物陰に連れていかれる。
「ごめん、ヒロくん。ちょっとスマホ出して」
「え、はい」
僕がスマホをポケットから取り出すと、咲良社長は素早くそれを奪って、画面を僕に向けた。
顔認証でロックが外れる。
咲良社長はぱっとLINEを開いた。
そして叫んだ。
「こいつやってやがるーーーーーーー!!!!!」
顔認証ってやっぱダメだな!
セキュリティとして意味を為してない。
「僕をマネージャーにするの止めときません?」
至極真っ当な提案をする。
そもそも清楚系で男を排除してるステラリアのマネージャーが男っておかしくない?
「ちなみにヒロくんにいいことを教えてあげよう。芸能界でこのネコのスタンプは、了解。その約束は絶対に守ります、というときに使われます」
「ウソでしょ!?」
「ウソニャン」
ネコポーズを決める咲良社長。
年を考えて欲しいけど、ちゃんと可愛いのズルいんだよなあ。
「まあ、前言は撤回しません。何故なら君は安パイだからです」
麻雀用語だとは分かるんだけど、意味はなんとなくしか分からない。
なんか、これは安全、とかそういう意味だよね?
「どうせ君はオリヴィアちゃん以外には見向きもしないでしょ。うちの子たちは基本的に純粋培養だから、男の子に免疫がありません。メイとかヤバいわよ。オリヴィアちゃんがヒロくんを連れてきてからずっと、男が欲しいってぼやいてたから」
まさかとは思うけど、あの敵意って、それが原因なんですかね?
そんな、まさか。
それだけであんなに敵意抱くことある?
「その点、君なら安心。あの子たちから好意を持たれても断わるだろうし、ましてや手を出したりはしないでしょ」
僕は咄嗟に目を逸らす。
反射的に逸らしてしまった。
いや、なにもしてないんだけど、気持ちは疚しかったからさ。
「てめえまさか!」
「なにもしてません! なにもしてませんよ! 本当です。誓って」
「結婚したのか! うちのカノンと!」
「してないですって! そもそも未成年なんでできないです」
「なんでだよ! カノンは可愛いだろうが! 手を出せよ!」
どっちなんだよ!
「というのは冗談で、まあ、私としてはいっそのこと全員君に恋して失恋してくれてもいいかなって」
「人間の言うことかよぉ」
あと社長の言うことかよ。
血も涙も無さ過ぎる。
「ウチって清楚系で、[会いに行けないアイドル]を売りにしてるし、あんまりにも男と接する機会がないのよね。だからちょっと男の子が近くにいるだけで、コロッといっちゃうかもしれないのよ。なのでちょうど良い感じに安パイが転がってるし、男慣れくらいはしてもらおうかなと」
「今度は僕に対して血も涙もない扱いだ、これ」
僕が天を仰ぐと、咲良社長は急に真面目なトーンになった。
「ヒロくんはもう分かってると思うけれど、芸能界にはあまりにも誘惑が多い。そのほとんど、ううん、全部が美しいものを汚そうとする欲望からの呼び声なの。あの子たちはそういうものとは関わらせたくなかった。でも、そう思い込んでいたせいで私はカノンが最初から巻き込まれていたことに気付けなかったわ」
僕は思い出す。
摩天楼での咲良社長と、男の会話。
美しいものを汚そうとする連中が、芸能界には潜んでいる。
咲良社長があまりにも明るく振る舞っているから忘れていた。
忘れたかったから、考えないようにしていた。
僕は体の内側から沸き起こる怒りの熱を思い出す。
きっと勝手に発火点を超えて、炎になって噴き出すだろう。
そしてそれは僕の全てを焼き尽くすだろう。
「あの男、咲良社長が望むなら消してきますけど」
咲良社長は、一瞬、その身を硬くした。
僕がなにを言っているのか、瞬時に理解したのだ。
「ダメよ。そんなことしないで」
「テレビの仕事が必要だからですか? 資金が必要だからですか? そのためにあんなヤツをのさばらせておくんですか? オリヴィアが犠牲になるところで、貴方はすでに犠牲者で――」
僕は両の手を握りしめる。
僕は僕の力が異世界と行き来できるだけであることが悔しい。
「過去に行くことができたら、僕は貴女を守ることができるのに」
「そうしたら私はここにいなくて、君と出会うこともなくなるわね」
「それも嫌です」
クスクスと咲良社長は笑う。
過去の苦しさをすべて覆い隠して笑みを浮かべている。
僕と貴女は同じだから、僕には分かる。
僕が味わった苦しさは、貴女とは比べものにならないけれど、だけどその性質は分かるのだ。
「ヒロくんは根本的に勘違いしてるわ」
「どういうことですか?」
「そりゃお仕事は必要だし、お金も必要だけど、そのためにあれを殺すなって言ってるんじゃないわよ」
さりげなく[あれ]呼ばわりしているところに咲良社長の気持ちが入っている。
「ヒロくんはまだ人を殺したことは無いでしょ。覚悟はあるんでしょうけど、未経験よね」
「なんで分かるんですか?」
「覚悟を決めているからよ。経験者はもう覚悟なんか決めなくてもやれちゃうからね」
ケラケラと咲良社長は笑う。
闇の気配を漂わせて笑う。
「ね、ヒロくん。君は芸能界の汚泥を見た。私はその存在を否定しないし、子どもたちにもその存在を知らせるべきだと思う。そうしないといざというときに逃げられないからね。でもね――」
咲良社長は僕を指差した。
「自分から触れに行ってはいけない」
「僕には覚悟があります」
「うん。知ってる。でもね、これはとても大切なこと。私にとっては絶対に越えてはいけない一線。私の矜持で、誇りで、意地なの」
そう言って、僕を指差した手をそっと開いて、僕に向かって伸ばしかけて、そして止めた。
まるで触れてはいけないものに、手を伸ばしかけたときみたいに。
「忘れないで。君はまだ子どもなの。守られるべき存在なのよ。私が守るべき子どもたちには君も含まれているの」
子ども扱い、とは少し違うと思った。
咲良社長は僕に力があることを知っている。
僕には高いレベルがあり、お金がある。
さっきのライブでの件を見ても、咲良社長は僕の思惑に沿って行動してくれている。
僕のことを対等に扱ってくれている。
だからこれは絶対に子ども扱いではない。
これは本当に純粋にただ[年齢が足りていない]ということなのだ。
法律的に未成年だ、ということなのだ。
能力がどうとか、性質がどうとか、大人びているだとか、子どもっぽいだとか、そういうありとあらゆることは関係なく、咲良社長の中に引かれた一本の線が、未成年者は守られなければならないという、絶対的な規則なのだ。
だから僕はどうあってもそれを越えることはできないのだ。
どんなに力があっても。
どんなにお金があっても。
この人にとって僕は守られるべき存在なのだろう。
この人は僕らを守ってこれからも傷ついていくんだ。
そう思った瞬間、我慢がならなくなった。
「それは貴女の都合です!」
僕は咲良社長が引こうとした手を掴んだ。
その手を取った。
「ヒロくん、私の手も汚れているの。私自身が芸能界の汚泥なの。だから触れてはいけない」
「そんなの関係ない!」
僕はその手を引いた。
貴女が汚泥の中にいるというのなら!
「貴女だって、芸能界で輝いていたんだろ!」
「もう汚れちゃったわ。泥だらけで、真っ黒なのよ」
僕の腕の中で、咲良社長は僕の胸をその手で押す。
だけど僕は放さない。
貴女の手を掴むためなら僕は汚泥の中にだって躊躇はしない。
「汚れたのなら洗えばいい。磨き直せばいい。貴女は汚されてしまった誰かに出会ったときに、君は汚れちゃったからもういらないなんて言うんですか?」
「それはっ! 言わないけど……」
「だったら自分にもそう言ってあげてください。貴女だって輝き直していいんです。いいえ、もう十分に貴女は眩しく、僕らの道を照らしてくれているじゃないですか!」
「……」
咲良社長は僕の言葉に、黙り込んでしまう。
そして僕の胸に顔を押し当てて、少しの間、肩を震わせた。
それからぼそりと呟いた。
「ヒロくんって、なんていうか、ホント、アレよね。このまま二人で夜の闇に消えちゃおうか? お姉さんが女の夜の扱い方を教えてあげる」
僕は黙ってスマホを取り出すと、Discordでニャロさんへの通話ボタンを押した。
「あー、もしもし、突然すみません。酔っ払った痴女がいるので引き取っていただけますか?」




