第287話 人を信じるということ
聞き耳スキルというのはとても優秀なスキルで、なんでもかんでも音を増幅するわけではない。
聞きたい音だけを増幅してくれるため、BGMが流れている店内でも離れた小声のやりとりを聞き取ることができる。
実は爆音の鳴り響く中で、相手の声を聞き取るのにも使えるのでライブ中も地味に便利だったんだ。
逆に打ち消すことはできないから、やっぱり音響手榴弾は強いってなる。
普通の会話みたいに記すけど、これ聞き耳スキルで聞き取ってます。
「――じゃないか。今更いい人ぶってなんの意味があるんだい?」
年配の男性が言って咲良社長が肩を竦めるのが見える。
「勘違いですよ。私は当然いい人なんかではないですし、ぶるつもりもないです」
「じゃあ別に構わないじゃないか。君のところの所属タレントではないんだろ」
「だからこそじゃないですか。私に口止めを頼まれても困るんですけど」
「気にするな。口止めなんて、『いつもの』やつさ。それに今回は冷たいのも使おうと思っててね」
「壊したがる癖、治ってないんですねえ。私みたいに頑丈なの、そうそういないって分かってます?」
「ははは、よく分かったさ。ずいぶんと時間がかかったがね。最初のほうで君に当たったのが私の不運だ」
そう言って男性は咲良社長に向かって手を伸ばすけれど、咲良社長はすっとその手を優しく払った。
「ずいぶんと可愛がってもらいましたもんね」
なんだ?
なんの話をしているんだ?
「おかげで生き残れた。そうだろう?」
「しがみついた、って程度ですけど」
「ははは、栄光を勝ち取れるのは一握り、君みたいに生き残れただけで僥倖、その君の足下に何人が倒れてるか、もちろんよーく知っているだろう?」
咲良社長が知られたくない過去に関することか?
知らないでいることを選択したせいで、いま僕は話についていけてないのか?
「もちろん分かっていますよ。この世界で輝くためには何かを支払わなくてはいけない。当然じゃないですか」
「そのとおり! やはり君は頭が良い。昔からそうだった。今でも十分美しいが、昔の君は本当に宝石のようだった。光り輝いていた。それでも届かないんだから難儀な世界だ」
「そうですねえ。どんなに頑張っても、才能があってさえ、振り落とされる。時の運って言うんですか。残酷ですよね。まあ、結局のところトップオブトップってのは時の運さえ味方につけた人のことなんでしょうけれど」
「その点であの子には運がある」
「そうですね。確かに運があります。とても。まずバズるという現象が制御できるものではないですし……。見た目も抜群にいい」
「日本語が堪能だというのもいいね。白人少女は何人も潰してみたが、言葉があまり通じないのが難点でね」
カチリ、と何かが嵌まった。
違う、この音は、導火線に火を付ける、ライターの着火音だ。
「ライブの直後というのが一番美味い。輝きの残滓を残した少女を、まさに撮影したばかりのステージ映像を流しながら、というのが一番好きでね」
「知ってます。知ってます。言わなくたって知ってますって。つまり――」
はぁ~、と咲良社長は肩を落としてため息を吐いた。
バーテンダーがドリンクを持って僕の席に近付いて来ようとして、振り返ってカウンターに戻っていった。
「ライブの後にオリヴィアちゃんが貴方の部屋に行くように誘導してほしいということですね?」
ぼくは、こわれてしまうかもしれない。
「そのとおり。君のところのステ――、あー、あのグループには出演枠を確保しよう。ひな壇だが、1クール、いや、一年で契約する。それだけの価値があの子にはある。もちろん君がもっと投資してくれるというのなら、枠の増大や、延長もありうる」
「分かりました」
僕は立ち上がろうとした。
何もかもをめちゃくちゃにしてやろうと思った。
だけど――、
「貴方が何一つ昔と変わらないクズだということがよく分かりました」
「おいおい、そりゃ事実だがね。言い方ってもんがあるだろう」
僕は空気に気付く。
いや最初から気付いていたじゃないか。
咲良社長は強い、とても強い敵意を滲ませていた。
本来、相手にだけ向けられるはずのそれが全周に漏れてしまうほどに強く。
僕は席に座り直す。
両手を握りしめるように組んだ。
「あー、ええと、プロデューサー、覚えていらっしゃいますかね?」
「なにをだ?」
「まあ、貴方は撮影するのが大好きですから、今更過去撮ったとあるものをひとつひとつ覚えていないのは当然なんですが」
「……?」
「その前にひとつ、私が芸能界でとても敵が多いことはご存じですよね?」
「君は一度爆発したからな。近寄りたくないというヤツも多いだろうね。かく言う私も、できれば関わりたくなかったよ。ははは。それほどまでにあの子が魅力的だ、ということでもあるんだが」
「その私が芸能界で、事務所を立ち上げ、曲がりなりにも、成功者の部類に入っている。不思議だと思われませんでした?」
「そりゃ、君はあれが得意だからな。今でも咥え込んでいるんだろう?」
「あはは、そう思われてますよねぇ。だろうと思いました。だから貴方は安易に私に近付いて来た。逆に言えば今まで警戒していたのに、あの子に釣られて姿を見せた。まるで蛾のようじゃありませんか。知ってます? 誘蛾灯に誘われた蛾がどうなるのか?」
僕は思い出す。
知っている。
咲良社長が纏う、その空気を。
あれは、僕だ。
鳴海カノンの事情を知って、反社の事務所に乗り込んだ時の僕だ。
「さて、過去の映像に戻りましょう。貴方は昔、使ってる女に懇願されて、とあるシチュエーションを撮った。つまり嫌がる少女を無理矢理手込めにする、というものです。もちろん演技でした、それは、ね。大変楽しく撮影が行われまして、女も大喜びでダビングが欲しいとお願いし、貴方は快くダビングを指示した。覚えていらっしゃいます? その映像、いま、どこにあると思います?」
咲良社長の表情は、僕からは陰になっていて見えない。
だけどきっと笑っている。笑顔を貼り付けている。その裏にある感情を隠して、笑顔を貼り付けているに違いない。
「ちなみにその映像にはデッドマンズスイッチがかかっています。ご存じです? デッドマンズスイッチ。私からの定期連絡が途絶えると、自動ですべてがネットに公表されるんですよ。貴方のも、他の人のも、全部、全部ね。私がどれだけの映像を集めたか知ってます? 当然知らないですよね。知ったらきっとびっくりしますよ。お陰で私はお金を集めるのに苦労しないんです。ああ、もちろん投資のお願いですよ。ちゃんと配当金も支払っています。ちゃんと利益は分配しますとも。だから貴方も私に投資して、利益が出るようにしてくださいますよね?」
男は息を呑んだ。
青ざめた顔で腰を浮かせかける。
「まさか、ハッタリだ」
「なお協力者が死んでも同じです。さて協力者は何人いるんでしょうね? 誰か一人でも事故ればアウト。貴方たちは頑張って私たちの安全を確保しなければならない。利益が上がるようにし続けなければならない。良かったですね。私が善良で。ちゃんと貴方も利益を得られますよ。だからくださいますよね。おしごと」
僕は痛いほどに手を握りしめていた。
歯が割れるくらい噛みしめていた。
震えそうになる体を抑えなければならなかった。
「ちなみに、知ってる人たちは私が関わる全てのタレントに近付こうともしませんよ。どうなるか知っていますから。お陰でこうやって得る以外の仕事がなかなか無いんですけど。はぁ、参った参った。そろそろテレビの仕事が欲しいですねえ。ああ、そう言えば貴方の好みはビッチとかギャルでしたっけ。ウチは清楚系で売ってますから、それでこれまで連絡が無かったんですね。不運でしたね。あの子が魅力的すぎましたね。ようやく食いついたか、このナマズ野郎。汚泥の中で潜んでいればいいものを、ようこそ日の当たる場所へ。戻りたかったらお金とお仕事、分かりますよね」
この人が抱える闇は、僕には理解が及ばないほど、深い。




