第275話 人間のカタログを見る
鳴海カノンに案内されるがまま、僕らは新宿に戻ってきていた。
駅から降りて東側、そして北へと歩を向ける。
たちまち街の雰囲気が変わる。
ギラギラと無節操なネオンと看板、行き交う無数の人々。
独特な臭いが鼻を突く。
酒と香水、吐瀉物の混じった臭いは独特で、もしどこか別の場所で同じ臭いを嗅いだらここのことを思い出すに違いない。
変装した女の子二人を連れて、アタッシュケース二つにリュックサックを背負った僕は一体何に見えているんだろうか。
幸いにしてそこら中にいるキャッチは僕らに目もくれない。
トー横に向かうキッズだと思われているんだと思う。
トー横の場所を僕は知らないので、いま付いていく鳴海カノンが向かっている地点がトー横に近いのかどうかすら想像が付かない。
幸い鳴海カノンはすぐに歌舞伎町を通り抜けた。
商店街に入る。
道路に面した一階部分に店舗が入っていて、上はオフィスだったり、住居だったり、雑然としている。
でも高い建物はほとんど無いな。
大体は五階までだと思う。
建築基準法では高さ31メートルを超える建物にはエレベーターの設置が義務づけられる。
これは大体、七階以上なんだけど、現実的な運用として五階を超える建物にはエレベーターが設置されているのが一般的だ。
つまり六階から。
この辺は一階に店舗が入っているのもあって、六階でもう31メートル超えちゃうのかもしれないけれども。
まあ、それはどうでもいいことだ。
僕が言いたいのはそう言った低層の建物がずらっと並んでいるということ。
そしてどこに入るにせよエレベーターは無いんだろうなってことだ。
「ここです」
鳴海カノンは足を止める。
見上げると一階にコンビニの入った雑居ビルで、二階の窓には司法書士事務所の名前が貼り付けられている。
「こんなところで?」
新宿駅、歌舞伎町から歩いてこられるこんな都会の真ん中で戸籍の売買が行われているのか。
いや、それ自体はあり得そうなんだけど、もっとアンダーグラウンドなところでこっそり行われているものだと思っていた。
それこそさっきのマンションなんかは僕の想像にぴったり合致する。
そんな僕の想像からするとここは綺麗過ぎる。
悪い意味ではない。
要はちゃんとしている、ということだ。
戸籍の売買のような違法行為が行われているにしては、普通なのが意外なんだ。
なんかこう暗い路地裏で、浮浪者みたいなおっさんが、ダンボールに座りながらやってるのを想像していた。
完全に想像なんだけど。
つまり想像は想像に過ぎず、実際にはこういう何気ない、町に溶け込んだ場所で、人の存在証明が取引されている、ということだ。
それは僕の想像よりも遙かに不気味で、恐ろしいことのように感じられた。
「二階です」
そう言って鳴海カノンは建物に入っていく。
二階って司法書士事務所って書いてあって、電気も落ちてるように見えるけど?
でも鳴海カノンが進むので僕らは追いかける。
階段で二階に上がった鳴海カノンは司法書士事務所の扉ではなく、その隣にあった何の看板も出ていない扉を叩く。
こんこん、ここん。
きっとそのリズムが符号になっているんだろう。
少しだけ待って、扉が僅かに開く。
チェーンロックはかけられたままだ。
「どうかしましたか?」
想像とは違う丁寧な口調で用件を聞かれる。
「ふだの取引がしたくて」
ドアが閉まり、ガチャガチャとチェーンの外される音がする。
「どうぞ」
扉が開き、鳴海カノンが入っていく。
僕らからは奥に戻っていくスーツを着た男性の背中しか見えなかった。
雰囲気は普通の男性だ。
特別尖った感じはしない。
鳴海カノンについて部屋に入っていく。
オフィス用途の部屋で、靴を脱ぐ必要は無い。
カーペットの上を進むと、最初の開けた空間がもう応接間のようになっていた。
ちょっと雑然としてはいるけど、僕らがイメージする探偵事務所って感じかもしれない。
頭脳が高校生の小学生が活躍する作品に登場する探偵事務所に似ている。
「三人もまとめて人が来るのは珍しいな」
部屋の奥で何かをしている男性はまだ後ろ姿しか見えない。
「申し訳ないけど、今は営業時間外でね。時間外費用がかかるけど、君たちは大丈夫かい?」
「その時間外費用とはどれほどですか?」
「三十分につき一万円。もう時計の針は進んでいるからそのつもりでいてほしいな」
「まあ、それくらいなら」
「なるほど。どうぞ好きなところに座って」
鳴海カノンが固辞しようとしたけど、メルと並んで二人がけのソファに座らせる。
僕は近くに立てかけてあったパイプ椅子を勝手に開いて、二人の隣に腰を下ろす。
ジジジという機械的な音がして、それからこぽこぽと液体の音がする。
しばらくして男性はマグカップに淹れたコーヒーを三つお盆に置いて持ってきた。
「えーと、ミルクとか砂糖がいる人は?」
ようやく正面から見えた男性はなんというか優男という印象だった。
優しそうで、線が細くて、一見では弱そうに見える。
目尻が下がっていて、そこには笑い皺が少しだけ刻まれていた。
こんな人が戸籍の売買を?
メルとカノンがミルクも砂糖も希望し、男性は準備のためにまた背を向けた。
「あー、ふだの取引だったね。君らが座っている後ろの棚。青いファイルがいくつかあるだろ。それを自由に見てもらって」
男性がそう言ったので、一番立ち上がりやすい僕が後ろの棚に並んだ青いファイルをひとつ取り出して、ソファに座った二人に渡す。
それからもう一冊、自分で見てみる用に取り出す。
パイプ椅子に座ってからファイルを開いた。
履歴書、とはちょっと違うけれど、人についてが色々書かれている。
写真があるものもあれば、無いものもあって、年齢、性別、出生地、住所、バラバラだ。
紙の右下にQRコードが印字されているのが現代っぽい。
「ここで売ってるものもあるし、紹介できるものも混じってる」
「なぜ買い、だと?」
分かってはいるけど、どういう理屈なのかは一応聞いてみる。
「深夜料金のことを聞いても焦ってる様子が無いからね」
ミルクポーションとスティック砂糖をメルたちの前に無造作に置いて、男性はもう一度奥へと行った。
「ふだを売りたいくらい切羽詰まってる人なら出直すか、急いで話をしようとする。君たちはのんびりしたものだ。よって買いに来た。どうかな。探偵になれそう?」
「分かっていて余裕の態度を見せていましたけど、ご明察です」
「それじゃ犯人の思惑に乗せられた駄目な警察みたいじゃないか」
ノートパソコンを手に男性は戻ってきて、メルたちの向かいに座り、ノートパソコンを開いた。
「駄目かどうかはともかく、元警察官の方ですよね。どういう因果でこの商売に?」
「探偵は君のほうか。どうして私が元警察官だと?」
「まず貴方は細く見えますが、筋肉質です。相当鍛えていらっしゃる。壁に柔道と剣道の段位証、柔道が三段、剣道が二段。片方ならともかく両方持っていらっしゃるのって、まあ警察官でも珍しいんじゃないですかね。詳しくはないですが。引退されてから長い?」
「そうだね。もう七年くらいになるか」
「認めていただきましたけど、一応追加の論拠を、この時間にも関わらずスーツにはぴっちりしています。皺が無いとまでは行きませんが、来客が帰る度にスチーマーかなにかで伸ばしていらっしゃるのでは? こういう習慣が付くのは警察か自衛隊だと思っています。キャリア組で出世コースを競っていらっしゃった?」
「その通りだ。大学生くらいに見えるけれど、バイトで探偵助手でもやっているのか?」
「最後に僕らに背中を向けていらっしゃる時間が長かったですけど、ずっとそこら中に置いてある鏡で僕らを観察されていましたよね? 別に警察官って根拠ではないんですけど、注意深く僕らを観察されているな、と。普通の人はそんなことしないですし」
「オーケー、この話はここで止めておこう。何もかも暴かれてしまいそうだ」
「最後にレベルがかなり高いとお見受けしました」
そうなのだ。
雰囲気からの判断だけど、15を超えているくらいだろうか。
週末探索者でなれるレベルではない。
多分、警察官としてレベルを上げる必要があった。
「マル暴ですか? それがどうしてこちら側に?」
「分かった分かった。深夜料金の話は無しだ。それで詮索を止めてくれ」
いや、そういう交渉がしたかったわけではない。
戸籍の売買と言いつつ、囮捜査の可能性を恐れただけだ。
「気になるものはあったかい?」
僕は手元に目線を移し、パラパラとめくる。
当然だけど、年齢は高いものが多い。
日付を見ると、そこからさらに何歳か足さないといけないだろう。
「オリヴィア?」
「んー、ピンと来るのはないかな」
「一応、条件を聞いてみよう」
「白人女性、年齢は15から20、18歳以上だと助かります。外見がどうとでもなるもの。つまり記録が残っていないものが望ましいです」
「その子に?」
「さあ、どうでしょう」
男性の目が僕を見た。
鋭く観察されている。
油断はできない。




