第271話 【鳴海カノン】の事情
鳴海カノンは呼び出されてそこにいた。
中野区にある中国人の業者が民泊を経営するために静かに全ての住民を追い出したマンションの一室。
だがそこにいるのは中国人ではない。
れっきとした日本人の男たち。
もし町中で見かけたら、目を逸らしてさっと道を譲るのが正解だと思える風体の男たちだ。
つまりカタギでないように見える連中。
見える、ではない。
彼らはいわゆる反社、反社会的勢力に属する男たちだ。
革張りのソファに深く腰掛けた男たちのボスが、じっと鳴海カノンを睨め付けている。
鳴海カノンは落ち着かない様子で、何かを言おうとしては止めることを繰り返していた。
「つまりカノン、おめぇが言いたいことは、そのオリヴィアって女の連れがこれを落としてったってか?」
「は、はい。普通のコインじゃなかったので、つい、手がかりが、って」
鳴海カノンの声は震えている。
この男たちは鳴海カノンをどうとでもできる。
それは暴力でもそうだし、契約によってでも、だ。
「で?」
「え?」
「だから手がかりってなんのだ!?」
鋭く言われて鳴海カノンは竦み上がる。
「あの、オリヴィアって子について、これで、何か分かるかと」
「……安藤を呼んでこい!」
ボスが言ってすぐに一人の男が現れる。
「なんですか、頭」
「これを鑑定しろ」
ボスはテーブルの上に置かれた硬貨を顎で示す。
安藤と呼ばれた男はその硬貨に目線を向けた。
「オルファリア金貨ってものらしいですね。金が1.7グラムと、銀が0.4グラムです」
「聞いたことは?」
「無いですね。調べます」
安藤はスマホを取り出して検索し始める。
そして息を飲んだ。
「該当は一件だけありますね。クリスティーズで出品されて、落札価格が12万ユーロ!? つい最近の話です!」
安藤は思わず声を上げる。
「12万ユーロだと、それは日本円だといくらなんだ」
「ちょっと待ってください。正確に調べます。今のユーロが135.24円なので1,600万円以上ですね。過去に発見されたことの無い金貨で、希少価値からこの値がついたようです。ダンジョン産ではないかと言われていますね」
それを聞いて思わず鳴海カノンはテーブルの硬貨に手を伸ばしかけた。
コインはまだテーブルの鳴海カノンの傍にある。
「カノン!」
ボスの鋭い声に鳴海カノンは手を引いて、固まった。
「良い子だ。これは情報として持ってきた。そうだよな? 借金の返済用じゃねえ」
「あ、え、でも、だって……」
しどろもどろになるカノンにボスは優しい声で語りかける。
「お前はもうこのテーブルにこの硬貨を差し出したよな。その時点でそれはもうお前のもんじゃない。違うか?」
「え、ウソ……、わたし、その……」
鳴海カノンの表情は絶望に染まっていた。
彼女は台無しにしてしまったのだ。
自由になるチャンスがずっとポケットに入っていたのに。
彼女は気付かずに差し出してしまった。
「カノン、その男は他にもなにか持っていなかったか? なぜこれを落とした? なぜそんなヘマをした? そもそもそいつはどこでこれを手に入れた? 考えろ。その足りねぇ頭を今フル回転させろ」
「……その人はヒロくんって呼ばれてて、オリヴィアちゃんと親しげで、優しそうで、頼りがいがある感じで、オリヴィアちゃんはすごく甘えてて……」
「そういうことじゃねえだろ!」
「だって、なにも、知らないんです」
鳴海カノンは涙声で言った。
本当に知らない。
ヒロくんと呼ばれていた男性は、今日いきなりライブのリハに現れた。
ちょっと前にネットですごく話題になった赤髪の女の子と一緒に。
ちょっと格好いいかも、なんて思ったけど、オリヴィアちゃんとすごく仲良くしてて、そういう関係ではないにせよ、すぐにそうなるなって分かった。
別になんでもない。
ステラリアは恋愛禁止だし、芸能界にはいいなと思う男性はたくさん居たけれど、鳴海カノンとは関係ない。
鳴海カノンの現実はこちら側だ。
芸能界の闇の側だ。
親が鳴海カノンの実印を持ち出して勝手に借りた金でがんじがらめにされ、咲良社長に恨みを持つ芸能界関係者の依頼でスパイとしてステラリアに送り込まれた。
そうでなければ今頃は海外で風呂に沈んでいただろう。
鳴海カノンには選択肢がなかった。
暴力と、契約の、両方で縛られていた。
わずか300万円の借金のはずだった。
気が付けば1,200万円だと言われている。
ヒロくんが落とした硬貨には1,600万円の価値があった。
鳴海カノンは1,600万円を盗んだのだ。
知らない振りをしたのだ。
誤魔化した。
そしてあろうことか差し出した。
その価値も知らずに、目の前のこの男たちに。
「オリヴィアって女をなんとかできりゃあいいと思ってたが、こいつはとんだ金の卵が降ってきたな」
ニヤニヤと笑みを浮かべ、ボスは言う。
「そのヒロって男と、オリヴィアって女を捕まえて洗いざらい吐かせるか。男は魚の餌、女は使えなくなるまでウリで使う」
そして鳴海カノンを見た。
真っ直ぐに、強く、貫くように見た。
「なあ、分かるだろ。カノン。その二人にうまいこと言って誘き出すくらいお前なら簡単だ。仲間を売りたくない。自分も売りたくない。なら、他の誰かを売るしかない。そうだろう?」
イヤだ。
本当はイヤだ。
誰かを売るなんてしたくない。
でも自分が犠牲になるのはイヤだ。
酷い目に遭った女の子をたくさん知っている。
ああなるのはイヤだ。
仲間を売るのはイヤだ。
自分はスパイだけど、他の子たちは本当に良い子たちなんだ。
ちょっと個性豊かだけど、アイドルとしてはそれでいい。
彼女たちが酷い目に遭うなんて絶対にイヤだ。
でも今日出会ったばかりだけど、あの二人が……。
仲睦まじくて、自分にとって理想にも感じる恋愛をしている二人が、こんな汚い大人たちに汚されるのも耐えられない。
鳴海カノンは唇を血が滲むほどに噛みしめる。
ヒロくんには本当に迷惑をかけた。
彼の大事な資産を奪ってしまった。
その上で、彼らの人生を奪うなんてあってはならない。
鳴海カノンは歯を食いしばり、両手を握りしめ、心底震えながら、前を向いた。
「イヤです!」
「ほう、お前はいい商品だからこれまで許してやっていたが、そろそろ一度痛い目を見た方がいいようだな」
「ひっ」
喉が鳴る。
思い出す、暴力を受けた記憶を。
体が芯から冷たくなる。
思い出す、知った顔の末路を。
ガチガチと歯が音を立てた。
思い出す、自分がどうなるかを。
イヤだ。イヤだ。イヤだ。イヤだ。
誰か!
助けて!!
声にならない叫びに応えるように鳴海カノンの背後でドアが強く、強く叩かれた。




