第264話 天幕を引く
物事というのはいくつもの事象が平行して同時に進行していくものだ。
ステージで最終確認が行われている一方、ライブハウスの外では開場を待つお客たちの列形成が始まっている。
ステラリアのメンバーは最初の衣装に着替え、ウォームアップを始めた。
チカチカと照明がひとつずつ確認のために光っては消える。
スピーカーがひとつずつ音を鳴らす。
場内ではスタッフたちが駆け回り、客席に残留物が無いか確認し、スムーズな客入れのために動線を確保している。
僕とメルはこの段階になるともうやることが無い。
ステージ袖の客席からは見えない位置で、邪魔にならないように引っ込んでいる。
「入場準備をお願いします!」
スタッフが叫んで、場内の照明が比較的明るく点灯した。
スピーカーが音量低めにステラリアの曲を流し出す。
インストバージョンだ。
ただし低音は強め。ドンドンと低音が空気を揺らして体を叩く。
場内のスタッフたちが一斉に捌けていく。
あれだけいたスタッフが場内からほぼ消えて、場内が伽藍堂になり、音と光だけが存在する不思議な空間になった。
「入場開始します!」
スタッフの声が場内に響いて、しばらくするとガヤガヤと二列を維持してお客たちが入場してくる。
最前の彼らは扉を通り抜けた瞬間に、走っているとはギリギリ言えない足取りでステージの前を確保する。
客席とステージを隔てる柵にしがみつくように、自分の位置を完全に固定し、後から来る波に備えた。
その後ろから続々と客が少しでも前へ、と押し寄せてくる。
一方でちらほらと客席後方に陣取る人たちも現れ始める。
せっかくライブに来たのにあんなに後ろでいいのかな?
同じお金を払ってるんだから、少しでもアイドルに近付きたいと思いそうなもんだけど。
彼らはある程度顔見知りであるらしく、後方客同士で雑談などをして余裕を見せている。
「あれは後方彼氏面よ」
いつの間にか咲良社長が来ていて説明してくれる。
けど、どういうこと?
「呼ばれてきたけど別にファンってわけじゃない風な関係者感を出して楽しんでいるの」
「歪んでる……」
「そうでもないわよ。後方で鑑賞するような立場だと音楽を純粋に楽しめるという側面もあるわ。ライブハウスでの音って独特だから、純粋にこれを楽しみに来てる人もいると思う。もちろん前方で揉みくちゃになりながら、アイドルの近くで周りの熱狂に乗るのもライブだし、楽しんだもの勝ちよ」
じゃあなんで後方彼氏面なんて言葉を使ったァ!
「前列でも後方でもない人の少ない辺りで集まってるあの人たちはなんですか?」
「あれはオタ芸打つのが目的のお客ぽいわね。というかそうだわ。毎回来てくれるから上客と言えるんだけど、スペース食うから今日くらいの入りなら、まあいっか」
「オタ芸?」
「知らない? サイリウムをぶんぶん振って踊るやつ」
僕は首を横に振る。
メルも同じ。
というかあっちの世界にオタ芸って言葉があったらそれはそれで凄い。
「元々はステージ上のアイドルを応援したり認知してもらうのが目的のパフォーマンスだったと思うんだけど、今は客を相手にパフォーマンスするのが目的になってる人も増えてきててね。状況次第ではご退場願うの」
「客が客に、パフォーマンス?」
「そそ、ディスコ行って踊れって思うんだけど、今だとクラブか。アイドルを応援するためにやってるんなら許してあげたいんだけど、マナーのなってないのがいるから、どうするかはハウスルールか入り次第ねえ」
「色々あるんですねえ」
客層について話している間に入場は終わり、扉が閉まる。
音量が徐々に上がっていき、それまで雑談していたお客たちも前方に注意を向け始める。
「んじゃ、送り出してくるから」
そう言って咲良社長は控え室のほうに向かう。
なにも言われなかったけど、僕らここにいていいんかな?
もうこうなると移動するほうが迷惑をかけそうで、動くに動けないけど。
照明が落ち、音楽が止まる。
暗闇の静寂。
お客の身じろぎする衣擦れの音さえ聞こえる。
扉を閉じるとこんなに静かになるのか。
誰かが咳払いする音がする。
ツバを飲み込む音さえ聞こえそうで、嚥下ができない。
僕らはリハを完全に通しでは見ていないから最初の演出を知らない。
この静寂を破るのは、なんだろう?
と思うと、暗幕を持った黒い服のスタッフが、それを掲げて舞台袖に現れた。
その影に隠れるようにステラリアのメンバー。
あー、なるほど。
まったく分からない、ということはないだろうけど、演出としては面白い。
ドドドドと低音で音が鳴り始め、スタッフが暗幕に自分自身も隠すようにしながら前進を開始する。
この暗闇の中だと、客席からは何かが動いていることくらいは分かるだろうけど、視覚的な刺激はほとんど無いはずだ。
曲というよりは四つ打ちのリズムが場内を満たす中、暗幕の影に隠れてステラリアのメンバーはステージの中央でポーズを取った。
音の大きさが上がっていき、メルが耳を塞いだくらいで、破裂音。
ちょうど良かった。
僕ですらちょっと辛い音量だった。
本当に買っておこう。音響手榴弾。
同時にスタッフが左右に別れて暗幕を引く。
スポットライトが強くステージ中央を照らした。
一瞬の沈黙の後、客席の歓声と同時に曲が始まる。
一曲目は劇的に始まった。
「うんうん」
リハの時とは違い、舞台袖から見ているからその完成度はよく分からないけど、メルが頷いているから上手く行っているのだろう。
実際、客席も前方は物凄く沸いている。
アップテンポな曲は、盛り上げに最適だ。
心配していた九重ユラもギリギリ合格圏内のやる気は見せているみたいだ。
全体のバランスもなんとかセーフ。
橘メイはちゃんと実力を周りに合わせて減速させたらしい。
一曲目が終わり、そのまま二曲目、三曲目と続く。
三曲目が終わったところで、橘メイがステージの中央で客席に手を振った。
「みっんなー、こんばんはー!」
「「「こんばんはー!」」」
礼儀正しい挨拶だな。
アイドルの挨拶ってなんかもっと個性的だと思ってた。
橘メイが中心になって最初のMC、ちゃんと他のメンバーにも出番を振って、上手く行っている。
台本に無いことも喋っているけど、彼女のアドリブ力は咲良社長のお墨付きだ。
ちゃんと遊び心があって、すぐに軌道修正して元の流れに合流する。
なるほど。
彼女の実力は飛び抜けている。
他のメンバーを立てているようで、実際にはこのMCは橘メイの独壇場だ。
「じゃあ、次はしっとりとした曲だから、みんな息を整えてね! あー、しんど」
「聞こえてるよー!」
客席から野次が飛んで、橘メイは客席に向けてあっかんべーをする。
これは心を掴まれるヤツだ。
そこから橘メイの宣言通りにBPM低めの曲が二曲続く。
再度MC。
僕はアイドルライブを初めて見てるんだけど、曲だけじゃなくて、こういうMCや、コールアンドレスポンスが客を惹き付けて止まないものなのかもしれない。
「ここでサプラーイズ! 今日はなんとなんとななんと、特別ゲストが来ていまーす!」
また台本に無いアドリブかと思ったら、舞台袖のスタッフがざわついていた。
「え?」
「なに?」
「ゲスト?」
「そんなのあったか?」
橘メイの目線が客席からキュッと横を向いた。
こちらを、見た。
途端に僕の危機感知が盛大なアラートを鳴らす。
敵意だ!
それも強烈なやつ。
激烈な敵意を向けられている。
メルに!
「オリヴィアちゃん。みんな知ってると思うよ~。名前は知らないかもだけどぉ」
橘メイはこちらから、メルから目線を外さない。
逃がさない、と、そう、目が、言っている。
やられた!
止められない!




