第255話 時間の意味ある使い方を
30分後、僕らは船上の人となった。
水上バスは混み合っていたが、空き席はある。
だけど僕らは席に着くことはせずに、窓際から見える景色を眺めていた。
「水がちかーい。船ってこんな感じなんだ」
窓にへばりつくようにして外の様子に興味津々のメル。
「馬車の揺れとも違って面白ーい」
確かに船の揺れって、日常で経験できない類いのものだ。
船酔いする人にとっては、経験とかそういうものではないだろうけど、幸い僕とメルは船酔いするタイプではなかった。
「ねね、帆もオールも無いのに、どうやって進んでるの?」
メルはキョロキョロと船上を見回して言う。
「車に近いかな。エンジンが入っていて、タイヤじゃなくてスクリューっていう回転するオールで前に進んでるんだよ」
「つまり?」
「機械が見えないところでオールを動かして進んでるんだ」
「なるほど!」
メルの脳内では船倉で無数の人間型ロボットがオールを動かしている気がするけど、本人が納得してくれたならいいか。
船は隅田川を下っていく。
「わ、また塔だ!」
メルが赤い尖塔を指差して言う。
「東京タワーだね。さっき登ったスカイツリーの半分くらいの高さだよ」
「高い見張り塔だねー」
「そうだね」
僕は説明を諦めた。
電波塔を電波も分からない子に説明するの無理じゃない?
「この辺はもう汽水かな」
「汽水?」
この感じはアーリアには言語がちゃんとあるけど、メルが知らないんだな。
「川から流れてきたしょっぱくない水と、海のしょっぱい水が混じり合ってるってこと」
「じゃあもうしょっぱいの?」
「それは試したこと無いから分からないけど、ちょっとだけしょっぱいんじゃないかな?」
汽水の味を訊かれるとは思ってなかった。
まあ、要は塩分濃度が海水ほど濃くない塩水ってことだろうから、しょっぱいのはしょっぱいんだと思う。
「もう半分海なんだね!」
すでに高かったメルのテンションがさらに上がる。
「というか、もうほとんど海か、海でいいかも」
「ここから海って決まりはないの?」
「どうなんだろ?」
世の中のお父さんは子どもからの無邪気な質問にどう対応してるんですか!?
「決まりはあるかもしれないけれど、僕は知らないや」
「じゃあ海でいい?」
「いいよ」
「海だー!」
ぴょんぴょん跳ねるメル。
水上バスは大きいからそれくらいで揺れたりしないけど、水上を進んでいる揺れはあるから足を痛めたりしないかちょっと心配になる。
いや、レベル補正で怪我ないな。
やっぱりレベルが上がるってチートみたいなもんだ。
パワーレベリングという手段はまさしくチートだけど。
やがて水上バスはお台場海浜公園の発着場へとゆっくりゆっくり横付けした。
船を係留する一連の手続きがあって、橋が渡された。
乗客がぞろぞろと船を下り始める。
僕らも列に並んで、水上バスから降りる。
「ふわぁ、変な匂い」
「潮の香りだね。海からの匂いが風に乗ってくるんだ」
多分ね。
「空気の感じもなにか違うね」
「潮風は塩分を含んでいるから、そのせいかな? あっちに人工の砂浜があるみたいだ。泳ぐことはできないけど、ちょっと足を浸けるくらいならできるかも」
「行きたい!」
僕らはおだいばビーチに向けて歩き出す。
「いい天気で良かったね!」
「そうだね。僕らは運がいい」
雲ひとつない、というほどでもないけど、快晴。
暑いには暑いんだけど、ここは海から吹く風があるからちょっとマシだ。
日差しの暑さと、海風のほんの少し爽やかさが混じり合っている。
おだいばビーチでは撤収を始めている人もいるけれど、まだ結構な人が水着でそれぞれに砂浜を楽しんでいる。
「あー! 水着持ってきてない!」
「今から着替えたりしてたら日が沈んじゃうよ」
「そっか。じゃあちょっとだけ。あちち」
メルは靴を脱いで、それを両手に持つと、砂浜を素足で踏んだ。
そして波打ち際まで走って行って、そこで急停止。
波打ち際に、そろりと足を進める。
「ふわわわ、変な感じ」
足を波に洗われて、メルは僕に向かってぶんぶんと手を振る。
「ひーくんもおいでよ!」
「しょうがないなあ」
とは言っても海にテンションが上がっているのも僕も同じ。
なんせ奈良県《海無し》出身なので、海を見るだけで無条件にテンションが上がるのだ。
僕も靴と靴下を脱いで、それを手に波打ち際へ。
砂って歩きにくいよね。
なんでメルは全然平気だったんだろう。
地術か!
足下を波が攫うと、足下の砂が波に持って行かれるのか、独特の感触が足下を抜けていく。
「あはは、確かに変な感じだ」
「だよねー!」
バシャバシャと打ち寄せる波を蹴ったりして遊ぶメル。
海が割れてないから本気じゃないな、ヨシ!
「あはははは、本当にしょっぱーい!」
自ら飲んだのか、何かの拍子に海水が口に入ったのかは分からないけど、メルはケラケラ笑いだす。
強い夏の陽光を反射してキラキラ輝く海面と、その上で素足を晒し、キャッキャと騒ぐメルは、なんというか夏の妖精のようだ。
絵になる、というか、なりすぎる。
つまり僕らは海にテンションが上がりすぎていて、つい油断してしまっていた。




