第192話 その名前について聞こう
カラオケは、まあ、なんというか、僕のことは置いておいて、メルが日本で聞いたことのある楽曲をわりと歌詞まで押さえていて、抑揚もちゃんと取れることが判明した。
けれど未だ自分の声がマイクを通して流れることに慣れてなくて、マイクが返す自分の声にびっくりしちゃうので、ちゃんと歌えるとは言い難かった。
流石にこれは慣れてもらうしかないかなあ。
体の動きとは違って、メルは他人から自分の声がどう聞こえているかまでは把握していない。
「んじゃ、詳細決まったら連絡よろ~」
カラオケの後、今村さんと永井さんは手を振って去って行った。
ファッション系、メイク系、美容系動画の手伝いは条件付きで手伝うとの約束も取り付けることができた。
ギャル系に偏ってしまう気もするが、他の人にも力を借りてそこは幅を広げるしかないか。
僕は空を見上げる。
夏の日はまだ暮れてはいないが、もうすぐ西の空が赤らみ出すだろう。
「なんか怒濤の1日だったなあ。帰ろうか」
「うん」
水琴が頷くけど、僕はメルに言ったんだぞ。
とりあえず自宅に帰り着く頃には夕焼け空になっていて、母さんの車もすでに車庫にあった。
「ただいま」
僕らは家に入る。
少し遅れて、
「ただいま」
メルも戸惑い気味にそう言った。
そうか、宿屋暮らしの長いメルにしてみれば、商売ではない帰宅の挨拶など随分遠い記憶なのかもしれない。
ともすればまたメルを傷つけてしまったのではないかと不安を抱いて振り返ったが、メルの表情には戸惑いこそあれ、陰はない。
「おかえりー」
キッチンの方から母さんの声が応える。
一応、事細かにではないけれど、状況は家族LINEグループで共有してあったので、僕らがクラスメイトの説得のために八木に出向いていたことは母さんも知ってるはずだ。
「おかーさん、晩ご飯なにー?」
水琴が中学生っぽい質問をしにキッチンへ向かう。
中学生か? 小学生じゃない?
「僕らは部屋でアカウント名考えようか」
「そうだね」
とりあえず僕の部屋に腰を落ち着ける。
メルはなんか慣れた感じでベッドに腰掛けちゃうけど、それ僕が落ち着かないから止めて欲しいかも。
いや、メルにしてみれば一晩過ごしたベッドなんで、抵抗感とかがなくなってるんだろうけど。
「あの2人に突っ込まれたことを冷静に考えてみると、現実の僕らに紐付くような情報を入れてはいけないってことなんだよね」
「そしたらどう考えるの?」
「そうだなあ。僕の印象だと顔出し系の人はあだ名っぽい名前かな。考えて見ればそれも本名から考えたあだ名ではないんだろうけど」
「ひーくんみたいな?」
「そうそう」
「それ以外だとどんなのがあるの?」
「イラストを自画像として使ってるタイプだと、設定に沿った名前かな」
Vtuber概念をメルに伝えることを僕は速攻で放棄した。僕自身が詳しいわけじゃないし、うまく説明できる気がしない。
「設定?」
「実際にはそうじゃないんだけど、そういうことにして話を進めますよって感じかな。映画の役者さんは設定に沿って演技をするのと一緒みたいなものだよ」
自分が隣で聞いてたら暴論! ってツッコミを入れてそうだけど、僕が言ってるのだからツッコミは不在だ。
「例えば凄く強い剣士だと言う設定だとすると、名前に剣とか、閃とか入る感じというか」
メルはますます困惑する。
「そういうのって成長してから獲得する技能だよね。名前って生まれたときに付けられるから関連性って無いんじゃ?」
「まあ、そこはもうそういうものだからで納得して。大事なのは分かりやすいってことなんだ。名前を聞いただけで、この人はこういう設定なんだって分かってもらえることのほうが大事」
「襲名みたいなものなのかな?」
「その認識でいいと思う。ただメルは顔出しでやるから、傾向としては前者になるね」
「そうなるとあだ名かあ」
「それか襲名方式でもいいかもね。アーリアで有名な女性冒険者がいれば名前を借りてくるとか」
「だったら、オリヴィアはどうかな?」
「それは?」
聞くとメルは少し言葉に詰まった後、絞り出すように呟いた。
「お母さんの名前なの……」