男、ついに人間に絶望しガチギレする
この世界でのハルドは、基本的に不死である。
病に冒される心配はない上に、不慮の事故に巻き込まれた際には、身を守るバリアがオートで働く仕組みとなっている。
またこの世界でのハルドは不老でもある。
髪や爪が伸びるなど、それなりの外見的変化はあるのものの、それはあくまでアバターとしての見かけ上の話であり、そう設定されているからに過ぎない。これは裏を返せば設定の変更次第で若返ることも、老化現象自体を止めることも可能ということである。
つまりハルドがその気でいさえすれば、その外見が大幅に劣化するということはあり得ない。
しかし今現在、彼の顔面はこの脱ぎ捨てた服で散らかった部屋のように、見るに堪えないものに成り下がっていた。
「あ^~…………。ちょうちょ。ちょうちょが飛んどる……」
もちろん、掠れた声でそう口にする彼の部屋の何処にも蝶など居ない。
頬はこけ、頭髪はボサボサでフケがたまり、目の下にはクマが定着し、そしてなにより瞳に生気がない。
彼が会社を辞めてから今日ではや十日。ゲーム廃人の壊滅的な私生活がその顔に相として出るまでには、十分過ぎるほどの時間であった。
外の世界では過去最高クラスの熱波が通行人を容赦なく襲っているという。しかし快適な温度に保たれたぬるま湯から決して出ることのないその身には、その地獄のような暑さも分からなかった。
呆けた顔で床に体育座りをし、ハルドはなんとなく天井を見上げていた。
「はぁ~、次のアップデートまでやることない……。つか、動くのめんどくさ」
ブラブラのランクマッチで見事一桁順位に入賞した後に待ち受けていたもの。
絶頂のような歓喜の後に彼を襲ったのは、猛烈な燃え尽き症候群であった。
とは言え、今更どんな自堕落な生活をしていようとも、会社勤めのころのように彼を急かすものはない。強いて言えばエアコンの風の音だけが、唯一そこにある音である。
ふと思い出したように、彼は脇に放り投げてあったスマホを手に取った。
ちょんちょんと画面を少し操作し、そのまま画面とお見合いをし――ハルドはフリーズした。
ハルドの顔は見る見るうちに強張り、やがて大きく口を開けた。
「な、ななななんやこれぇええ?!!!」
彼がSNSから目を離していた、たった数時間の間である。
そのわずかな時間のうちに、“祭り”は始まっていた。
スクロールをすればするほどに、汚いネットスラングが洪水のごとく押し寄せる。
悪意のある書き込みはとめどなく、どこまでも続いていた。
「なんでやねん……。なんでこんなことになってしまったんや……」
短文によるシンプルな中傷から、根も歯もない出鱈目をあたかも真実であるかのように書き連ねたものに至るまで、それはもはや悪口の見本市と言っても過言ではない。
ハルドはそれらに対し、片っ端から返信をした。
だがその行為は、結果的にただ火中に燃料を注いだだけであった。
「はぁぁぁぁ!!? なんやこいつら! 俺が一体なにしたん?」
彼がなにかを書き込むたび、嘲笑うかのように炎上は加速する。
秒単位で画面上を、攻撃的な言葉が埋め尽くす。
いつしかハルドの目は血走り、顔はポストのように赤く染まり、こめかみには青筋が立っていた。
「きぃぃぃーー! 腹立つわぁあああ!!!」
ハルドはスマホを親の仇のように握りしめ、ついに先日会社を辞めた時以上の怒声を上げた。
「あー! どいつもこいつも! 要は俺がランクマ一桁になった腹いせやろ! しょーもな! ああいいぜ、ほんなら徹底抗戦や!! おらァ、シミュレーションマスター様の偉大さを思い知れや!!」
かくして不毛なレスバトルの火蓋は切って落とされたのだった。
意地になったハルドは粘りに粘り、戦局は泥沼化の様相を呈したが、所詮は多勢に無勢。
どちらが有利かは言うまでもなかった。
静かで孤独な部屋の中にて、一人の男はやがて追い詰められ――そしてとうとう狂い笑いが止まらなくなっていた。
* * * *
ある日突然、とあるマンションの上空に出現した黒い雲。
いつまでも高度二百メートルの同じ地点に止まり続けるそれは、誕生の時点で気象学の常識を打ち破る超常現象と話題になった。
ある高名な占い師はそれを見て、不吉の前兆とも予見した。
しかしそれは世間の目からすればあくまでも根拠に乏しいオカルト話に過ぎず、これまでのニュースでの扱いは、専ら少し珍しいく黒雲が出現した程度に止まっていた。
「そろそろやな……。さて、どんな産声を上げるやら」
ハルドが語り掛けた物体は現時点ではまだ、生物の形をしていない。
短い周期で振動を繰り返すその外殻は、地球上に存在するあらゆる種の卵のものと比較してもあまりにも大き過ぎた。
床も壁も天井も、全てが黒い煙で覆い尽くされた、究極なる暗黒空間。
そこにポツンと存在をなす白い球のコントラストは異様なほどに目を引くものである。
ミシミシと音を立て、殻の表面に亀裂が走る。
誕生の瞬間は、一瞬だった。
「お目覚め、イレーヌ」
外殻すべてが木端微塵に吹き飛ぶ豪快なお目見得で、彼女はこの世に降り立った。
睫毛の長い瞼が上がり、ゆっくりと目が開く。
彼女の側頭部には二本の小さな角が備わっており、また臀部からは黒く先端の尖った尻尾が生えていた。
「ここは……」
尻尾を小さく左右に振り、彼女は立ち上がった。
屈めた腰に両手を当て、さながらグラビアアイドルばりのセクシーポーズの状態で周囲を見回す。
その流れのなかで、自身の一糸纏わぬ肢体を食い入るように見つめる男と目が合った。
「キャー! エッチー!」
「あ、いや違う! 違うんや!」
ハルドは慌てた様子で彼女から背を向けた。
「すまんな。俺も紳士やから、なにも辱しめて愉しむためにお前を作り出した訳やないんやで。せやけどまさか裸で生まれると思わんかったのと、お前の全裸決めポーズがあまりに芸術的過ぎて見惚れてもうたわ」
「言い訳はいいです。はやく服を」
「せやな、服やな。おし、任せろ」
ハルドの口から魔法の呪文のごとく言語らしきなにかが詠唱され、瞬時に衣装が生成された。
とは言ってもそれは裸より幾分かマシな程度の、極めて露出度の高いビキニアーマーであったた。
「正確に言えば俺はこの世界の神やない。神がいたとしたら、それはこの世界を作った装置や。せやけどこの亜空間、名付けてハルド空間内ではシミュレーションマスターたる俺はその権限を最大限に発揮することができる。つまり今の俺にはコマンドの詠唱ひとつでこれくらいの物を無から生み出すくらい簡単なんや」
「誰に対してしているのかよく分からない説明はいいですから。早く服を」
彼女は手渡された服、もといビキニアーマーを、なんの躊躇いもなく身に着けた。
その出で立ちはまさに、ゲームの中の「悪魔将姫イレーヌ」本人そのものである。
「うん。やはり、というのは生まれてすぐに使う言葉として不自然ですが、やはりこの衣装はしっくり来ますね」
イレーヌは両足を交差させ、両手を頭の後ろで組みながら、またもや息を吐くようにセクシーポーズを披露した。
ハルドは実に満足そうに口を開く。
「おお、どこからどう見てもモノホンのイレーヌや。再現度完璧すぎて感動するな」
「あなたが私の創造主だということはなんとなく理解しています」
「そうかそうか。そりゃ話が早くて助かるな」
「それで、あなたはなんのために私をこの世界に呼び出したのですか」
特徴的なジト目が、ハルドを真っ直ぐに見据えていた。
「ふっふっふ、聞くがよい我が下僕イレーヌよ。お前の存在意義は他でもない。我が崇高なる目的の遂行のため、その力をもって全力でサポートすることや」
「なるほど。それで、その目的とは?」
「にっくき人類の奴らを滅ぼすことや!」
二度三度瞬きをし、イレーヌは眉をひそめた。
「なんやその微妙な反応は!」
「いえ、見た目に合わず大それたことを言うなあと」
「やかましわ。人を見た目で判断すな」
「一理ありますが、残念ながら見た目は大事ですよ」
「ふん、あくまでこの姿はこの世界の人間として生きるための仮の姿であってだな、本物の俺はもっとこう、ワイルドなんやぞ」
「知りませんよ。それで、どうしてあなたは人類を滅ぼすんですか」
「せやな。理由も聞かされないでやれとだけ言われてモヤモヤする気持ちはよう分かるで。俺もチップエンジンで散々味わったからな」
「チップ……? なんです?」
「まあそこは触れんといてええわ。それよりええか。よーく聞くんやで。俺はな、とうとう人類に絶望したんや。いや奴らの本質的な悪の部分は前々から知っとった、知っとったけど大目に見とった。けどもうキレたわ。言っとくが本当にやるからな。泣いて謝ったって許してやらへんぞ、クソ人類ども」
「……なるほど、どうやら相当根深い怨恨みたいですね」
「今から詳しい事情話すからまあそこに座れや」
ハルドはイレーヌの嫌そうな顔などお構いなしに目の前に座らせ、途轍もなく長い話を始めた。




