男、ついに会社を辞める?
株式会社チップエンジン。
この会社は、一言で言えば中堅のIT企業である。
キンキンに冷房の利いたそのオフィスは一見心地が良さそうではあるが、直接風の当たる位置に座るハルドにとってはひざ掛けなしでは居られない過酷さがあった。
株式会社チップエンジン。
笑顔の絶えないアットホームなこの職場には、一癖ある人材たちが集まっていた。
「飯田、ちょっと来て」
体育会系特有の、よく通る男性の声である。
言われた通りにハルドが席を立つと、隣の太った社員がクスリと笑った。
ハルドは知っていた。
狂犬と謳われるこの上司の口調がこのように早口になるときは、虫の居所が悪いときと相場が決まっている。
無論、誰しもが怒られたくはないとは言え、部下にその拒否権はない。
上司の男のデスクの上にはプラ製のケースが置かれており、ペットのトカゲが飼い主そっくりのギラついた目でハルドを見上げていた。
男は彼が先日一生懸命にまとめ上げた書類を、人差し指でわざとらしく弾いた。
「これ。全部やり直し。ここの計算入ってない」
「いや、だってそこは抜いてやれって桜田さんが」
「桜田ー、それマジか?」
「私そんなこと言ってませんよ。飯田の聞き間違えでーす」
脇から飛んだのは、いい加減そうな女子社員の白々しい声である。
「修正早く頼むよー。今度は間違えのないように、今日中にね」
「はい分かりました。今日中にやって終わらせますよ」
書類を受け取るなりハルドはすぐさま踵を返し、自分の席へと戻りかけた。ややもするとその所作は確かに、ごく僅かながら粗暴であったと言えなくもないものであった。
「おい、なんだその態度は」
すぐに高圧的な声が、オフィスの隅々まで響く。
ハルドは足を止め、面倒くさそうに振り返った。
「はい? まだなにか」
「なにか、じゃねーよ。自分がミスしておいて、なんだその嫌々やりますって態度は。舐めてんの?」
「そういう風に、見えたなら申し訳なかったです」
即座にハルドは頭を下げた。
そこに思考を挟む余地などないと言わんばかりの、完全なる条件反射的挙動である。
「おい、もっとちゃんと謝れよ。社会人何年目だこら」
「……ちゃんと、ですか?」
「おうよ、謝るときはどうするんだっけ?」
上司の男はニタニタとした薄笑いを浮かべている。
このようなやり取りはなにも今に始まったことではない。
ハルドはさらに深く、今度は海老のように腰を曲げてみせた。
「すみません……でした」
「聞こえねェなァ。もう一回」
「………………」
「あ? なんか言ったか」
「……ふ」
「ふ? なんつったオイ」
「ふ・ざ・け・ん・なああああああ!!!」
入社四年と三か月。
ハルドが大声を上げたのは、これが初めてだった。
「人が下手に出とったらいい気になりおって、どつき回すぞこのクソガキがァアアア!!!」
「い、飯田……?」
あまりに突然な男の豹変に社内は異様な空気に包まれている。
上司の男はきょとんとした表情を浮かべていたが、間もなく言葉を返した。
「く、クソガキ……? 誰がクソガキだよ」
「お前や! こちとら今まで何百年この世界でシミュレーションやってきたと思っとんのや!! 俺から言わせりゃな、あんたも社長も等しくガキなんやぞ!!」
ハルドは一人、気を吐いた。
その勢いたるやまるで決壊したダムのようである。
「いっつも偉そうにふんぞり返っとるけどな、お前が怒っとんのは単なる腹いせやないかっ!! どうせ昨日贔屓の球団が負けたからイライラしとったとかそんな理由やろ! それと桜田小春! 毎度毎度息を吸うかのごとく適当な嘘ばっかこいて俺に責任押し付けやがって、バレバレやぞ! 狼少年かっちゅう話や! ……お前らなあ、俺が大人しいからいうて舐めとんのか知らんけど、人のこと誰やとおもってんねん! エスカリボーグ界のエリート中のエリート、シミュレーションマスター・ハルド様やぞ! 俺が普段会社員の姿をしてるのは仮初の姿なんやぞ!!」
怒涛の早口。デスクを震わす大音量。
まるで見てはいけない物でも見るかのように目玉を大きく開けたまま、彼以外誰も口を開かない。
「あー、言われなくても辞めたるわこんな会社! そもそも最初から一社会人として現代人の生活がどんなもんか、ちょっと体験してみたかっただけなんやからな! 退職金も要らんわ! シミュレーションマスターの権限あれば生活に困ることもないねん!」
ハルドは荒々しく鞄に荷物を詰め込むと、競歩のごとき早足でオフィスを後にした。
そんな彼を引き留めようとする者は、アットホームな職場の中にはいなかった。
澄み渡った空を見上げ、ハルドは呟く。
「あーあ、やっちまったな。まあでも、せいせいしたわー」
シミュレーションマスターハルドが人間に対して怒りを露わにしたことは過去幾度かあったが、ここまで爆発してみせたのは紛れもなくこれが初めてのことである。
ハルドはその後悠々と書店に立ち寄り、いつもよりもすいた電車を満喫して帰宅した。
言うまでもなく翌日以降、飯田恭三という男が株式会社チップエンジンに顔を出すことはなくなった。
* * * *
ベッドに横になったまま、ハルドは寝ぼけ眼で着信履歴を確認した。
「あれからマジで電話の1本も掛かって来んへんやんけ。ハッ、俺が急に辞めても痛くないってか。まあええねんけど」
雀は囀ずり、窓からは柔らかな日差しが射し込んでいる。
あの日以来時計の目覚まし機能をオフにしたとはいえ、染み付いた体内時計というものはそう簡単には崩れないものである。
「晴れて俺もニートか。まあええねんけど」
朝食も取らず、顔も洗わず、彼の指はブラブラのアイコンをタップしていた。
いつもと変わらないアニメ声が、相変わらずのあざとさで朝の挨拶をしてみせた。
「さてこれからどうすっかなあ。まあわざわざ人間社会のルールに則って仕事しなくてもええねんやけどなあ。けどこの時代は一人の人間として生きるって決めたしなあ。……転職? なにする?」
独り言を吐きながらも、ハルドの指は動き続ける。
BGMは次々と変わり、やがてスマホはユーザーの射幸心を煽るために作られたかのような、アップテンポな音楽を奏でていた。
「後で考えるか。つーかもう、色々とどーでもよくなってきたわ」
画面内ではビキニアーマーを装備した、美麗な悪魔っ娘キャラクターが煽情的なポーズを取っている。
それはまるで私を獲ってみろと、ユーザーに挑発をしているかのようである。
「今まで廃課金だけはせえへんと自制しとったけど……。よくよく考えれば、なんで貯金なんかしとったんや俺」
悪魔っ子のキャラクター名は「イレーヌ・コバルト」。
彼女はこのゲームをプレイする者にとってはもはや説明不要の、まさにブラブラの顔と言っても過言ではない超人気キャラクターである。
フフッとにやけ、ハルドは気前よく言った。
「よっしゃ! 天井なし! 石油王ガチャの時間や~!!! 無敵の人の財力、見せたるわァ!!!」
チュインチュインチュインチュイン……。
チュインチュインチュインチュイン……。
煌びやかなイラストで描かれたキャラたちが、まるで炭酸の泡のように次々と現れては弾けて消えていく。
ときに頷き、ときに歓喜の声を上げ、ときに渋い顔をしながらも、彼は狂気に取りつかれたかのごとく10連ガチャのボタンを押し続けた。
これまでの数年間、彼が汗水垂らして稼いだ貯金を糧に、ガチャは回る。
そして数十分後、ブラブラのラスボスである冥界神ハルゲルばりの不敵な笑みとともに、ハルドは言った。
「ハハハハハハ! 今まで苦戦しとった敵がゴミのようや!」
必然のごとく、彼の軍勢の戦力値は跳ね上がっていた。
イレーヌを筆頭に組まれたハルド軍団は、彼がかつて踏み込んだことのない最難関ステージを易々と突破し、高らかにクリアの文字を見せつける。
ハルドは完全に強大な力に魅入られた独裁者のような顔になり、スマホを高々と天に掲げた。
「ざまないなあ! こりゃ次の対人戦ランクマッチが楽しみやぁー!!」
ほんの少し前まで雑兵だった男は、すぐさまかつてないほどにイキり散らかした様子で、SNS上のコミュニティに自慢を書き込んだ。
二年前より使用している、彼のネット上でのハンドルネームは、「†魔王ハルド†」。
そこでの人格はシミュレーションマスターとしての彼の肥大化した自尊心を投影させたかのごとく、不遜で、やや上から目線だった。