悪魔将姫の戯れ
イレーヌの尻尾は、ふりふりと振れていた。
「イレーヌ!? ほんまにお前、イレーヌなんか?」
「なんです? 幽霊でも見たような顔をして。ハルドが再びここに迷い込んで来たことを考えれば、私がいてもおかしくはないでしょう?」
「そうかも知れへんが、信じ難い光景やな」
「信じ難くても現実です。そして今の私は、ユウキさんの秘書なんです。彼女からは侵入者にここを通さないよう、言われているんです」
無邪気な笑みが挑戦的な笑みへと変貌った途端、黒い塊がイレーヌのジャケットを突き破り、翼として形を成した。
ハルドは息を呑み、身構えた。
「お前がこの世界に復活しとることも不思議やが、なんでお前がユウキ側についとるんや」
「んー。長いものには巻かれよ精神、でしょうか。この世界はもうほとんど彼女のものなので」
「……そういやお前はそういう奴だったな。昔から拘りがないいうか」
「よく分かっているじゃないですか。さすがは元ご主人様です」
「けど俺らも譲れへんのや。ユウキの奴に一言言わな気が済まん。そういう強い決意のもと、俺らは今ここに立っとる」
「あら?果たしてそうでしょうか」
イレーヌはちらりと、目線を流した。
その先には鼻の下を伸ばし、案山子のように直立不動でいる男がいた。
「なっ、おいナラドゥ」
「はっ!」
「緊迫した場面やってのに、なに腑抜けた顔で突っ立っとるんや」
「ああ、あの人があまりにも美しいものだからつい見惚れてしまってな」
「お前なあ」
「正直な方は嫌いではないですよ。私は淫魔としての力も持ち合わせていますからね。私の魅力に骨抜きにされても仕方のないことなのです」
イレーヌが両腕で胸を寄せる。
首元のはだけたシャツの合間から、プルンと谷間が露見した。
「おほぅ。あの色艶、あるいは張り……まるで荒野に咲く一凛の花だ」
ナラドゥの鼻からは赤い線が伸びていた。
「騙されるなナラドゥ、ハニトラやぞ。そうやって釣っといて油断を誘う気や」
「嫌ですね、人を詐欺師みたいに。ナラドゥさん、私に勝てたらなんでもしてあげますよ。あなた方が行けなかった、いやらしいお店の代わりのサービスでもなんでもね」
「本当ですか!?」
「お前、どうしてそんな情報を」
「ふふっ。お喋りはここまでです。一度ハルドとは戦ってみたかったんですよ。行きますよ!」
イレーヌは羽ばたき、猛スピードでハルドに向かって突進をかけた。
「あら、どうして逃げないんです? もしかしてバリアがあるから大丈夫だと思いました?」
「なんやと?」
「言い忘れていましたが、ユウキさんにパワーアップして貰ったんですよ」
棒立ちしていたハルドのバリアを、鋭く尖った爪が突き破る。
イレーヌはそのままハルドを抱きしめると、素早く頬に接吻をした。
「っ……!」
ハルドの瞳孔が大きく開く。
イレーヌはにっこりと笑い、すぐにその場から飛び去った。
ハルドの背から鮮血が噴き出したのはその一拍後である。
「このぉ、思い切り背中引っ掻きやがって」
「ふふふ。ハルドの動揺と戸惑い、そして苦痛に歪む顔。実にいいですね」
イレーヌは指の腹で唇をなぞり、爪に付着した血をペロリと舐めた。
「おいハルドだけズルいぞ。イレーヌさん、俺にもチューしてください!」
「ごめんなさい。こういうのは奇襲じゃないと面白くないので。やって欲しければ私を倒してからリクエストしてくださいね」
イレーヌは標的変更と言わんばかりに、爪の先端をナラドゥの首に向けて言った。
「気を付けろナラドゥ、こいつサイコやからガチで殺しに来るで」
「死ぬ? ……なあハルド、ここで死んだら俺らどうなるんだ」
「元も世界に戻るだけやと思う。けど多分、無茶苦茶痛いで」
「そ、それは嫌だな」
「はは、そういう必死な顔が見たかったんですよ。さあ二人とも、逃げて逃げて逃げまくってください」
鈍く光る爪をチラつかせながら、右へ左へ、イレーヌは隼のように滑空した。
それからは男二人がひたすら逃げ惑う、一方的な追いかけっことなった。
「ほらほら、どうしました? 反撃をしてもいいんですよ?」
「そんな暇あるかいな。ていうか、随分楽しそうやなイレーヌ」
「楽しいですよ。めちゃくちゃ楽しいです。でもそんなにモタモタ逃げていると、勢い余って殺してしまうかも知れませんよ」
「くっ、ユウキのやつに一言言うまでは、死んでも死に切れんっちゅうのに」
「ならどうします? このままじゃお二人とも私にやられて終了ですよ」
「くそ、かくなる上は」
「おお、なにか策でも?」
「降参やっ!!!」
迅速かつ無駄のない所作にてハルドの両手が合わさり、頭が下がる。
イレーヌは急停止し、大きな目を瞬きさせた。
「ユウキに文句言いにここまで来たが、死ぬような思いをするほどのもんでもない! ここは大人しく引き下がるで。だから見逃してくれや」
「ハルド。あなたって人は……」
イレーヌは大きくため息を吐き、そしてゆっくりと降下した。




