過ぎ去りし日の、遠い記憶
その街の構造物はすべて光の粒子で出来ていた。
立ち並ぶ建物たちは余すところなく同じ形状をしており、同じ向きで、同じ間隔でどこまでも広がっていた。
草木はなく、鳥も蝶もない。動くものと言えばまばらに行き交う住人のみである。
区画整理の極みとも言えるそんな街並みの中でただ一点、巨大な塔だけが威風堂々と佇んでいた。
グオングオンと音を立て、天井に設置されたファンが回る。
鏡面のような床の上に、空中浮遊したテーブルが並ぶこの大部屋は、食堂であるらしい。
窓際の席からは、あまり面白味のない街並みを、これでもかというほどに見下ろすことが出来た。
「空から隕石でも降るんじゃない。あのケチなハルドが私たちにランチを奢るなんてね」
白地に赤い線の入った詰襟の制服を着た男女三人が、その窓際の席に着いた。
彼らが手に持つプレートには、クリーム色をした蒸した穀物らしきものに立方体の人工肉が載せられている。
「まったくだ、しかも特Sクラスのランチとは。ご馳走になるぜ」
「はっはっは。ナラドゥ、エキドーラ。心して食うといい。今日がお前らとの最後の飯だからな」
「大袈裟なんだから。どうせすぐやらかして戻ってくるんでしょ」
眼鏡を掛けた女の発言の直後、燃えるような赤髪を逆立てた男は鼻息を荒くした。
「ふん、俺を誰だと思ってるんだよ。エクスカリボーグ中央庁期待の新星、エリート中のエリート、ハルド様だぞ」
「そういうところだぞ、ハルド」
短髪黒髪の男がナイフで肉を切り分けながら、冷めた口調で言った。
しかしハルドは大真面目な顔をして、すぐさま返した。
「いやいや、実際俺って優秀じゃん? こうしてお役所勤めやりながら、一年でシミュレーションマスターの資格試験突破したんだから」
「あーはいはい、優秀優秀。ハルドさんは優秀だねえ」
「エキドーラ、お前なんだその心の籠ってない同意は」
「まあまあ。でもどうしてまたシミュレーションマスターをやりたいだなんて言い出したの?」
よくぞ聞いてくれたと言わんばかりに、ハルドは軽やかに口を開いた。
「今だから言うけどさ。俺、この世界少し嫌になっちゃってたんだよね。なんでも規則が厳しくって、抑圧的で詰まらないじゃん?」
「まあ少しは分かる気もするが。だからシミュレーション世界の観察者になろうってか」
「まあそんなところだ」
「えーっ、でもそれってただの現実逃避じゃないの?」
「なにを言う。夢があるだろ? 仮想現実の中で、まだ文明が芽吹いてないとこから世界を初めて、俺がこの手で理想の環境を築き上げていく。それはここで退屈で虚無な社会生活を送るよりも、ずっと有意義で遣り甲斐があるはずだ」
まさしく夢を語る若者といったトーンで、ハルドは語った。
握りしめたその拳には、確固たる力強さがあった。
スプーンで一口目を掬いつつ、女が尋ねる。
「理想の世界ねえ。それで、ハルドは具体的にそこをどんな世界にしたいの」
「そうだなあ。それはもちろん……」
他の二人がせわしくランチを口に運ぶなか、ハルドは手を止め、しばしの間思索に耽った。
その目は爛々と、宝石のように輝いている。
彼を呼ぶ場内アナウンスが流れたのはそんなときだった。
『ハルド・ゴレイザスさん、至急21番シミュレータールームまで来てください。ハルドさん、至急21番実験室まで来てください』
「お、どうやらお呼びが掛かったようだな。って、そんな一気に料理を胃袋に流し込んだら吐くぞ。あれ、マシン起動時にかなり揺れるんだろ?」
「ふぉごぉごぉごごご」
「ちゃんと飲み込んでから喋れ!」
「大丈夫でしょこいつの胃袋なら」
「行ってくる! ナラドゥ、エキドーラ、それじゃあな!」
ハルドはナプキンで口を拭き、意気揚々とした顔で立ち上がった。
* * * *
「ハルドさん。こちらです」
「うおお。こ、これか」
ハルドは早速、息を呑んだ。
彼の眼前には大きな棺桶のような機械が、四隅を赤とグリーンの光で点灯させながら存在感を放っている。
「シミュレーションID278809、地球。これが俺のフィールドというわけだな」
「いいですかハルドさん。くれぐれもこのシミュレーションの目的、及びシミュレーションマスターの役目はお忘れにならないように」
「言われなくても分かってるって。100億年文明を続かせればいいんだろ?」
「ええ、その通りです」
青い繋ぎを着た技術者が、宙に浮いた電子パネルを操作した。
途端、プシューッと、棺桶の蓋が開く。
「おお、これが……」
「100億年というと長く感じるかもしれませんが、あちらの世界はこちらの世界と違う時間の流れをしていますので。ハルドさんの任意で早送りさせることも可能です」
「それも分かってる。適度に干渉しつつ時には見守り、世界を良い方向へと末永く存続させろ。だろ?」
「流石はエリートの中のエリートであられるハルドさん。仰せの通りです。ではこちらを。こちらもご存知かとは思いますが、シミュレーション内でのハルドさんの権限、およびどこまで世界に干渉できるかが詳細に記載された仕様書です」
技術者が再びなにかを入力すると、天井に吊るされた球状の装置から光の球が発射された。
球はやがてハルドの体とぶつかり、一つになって消え失せた。
「ありがとう助かる。さて、いくか……。俺を待つ、光溢れる仮想現実へな」
ハルドは首を鳴らし、肩を回し、少しいい声で言ってみせた。
間髪入れずに棺桶に乗り込み、颯爽と固定用のベルトを締める。
そして間もなくして、装置から白い煙が沸き立った。
「ではこれよりシミュレーションマシンを起動します。多少揺れますのでご注意を」
「大丈夫だ。訓練で慣れっこだから、昼飯を食ったばかりでもなんら問題ないさ」
「では、グッドラック」
「うおおおお!?」
起動音とともに、ハルドの肉体が高速で振動を始めた。
棺桶全体が光に包まれ、そして次の瞬間、彼の意識は完全に途切れた。
「ふぁ……。ふぁあ~っ」
ベッドから上体を起こし、ハルドは寝癖のついた黒髪を掻きむしる。
鳴り止んだばかりの時計の針は、午前6時22分を指していた。
「最近、ようあの夢見るなあ。ホームシックにでもなったかなあ」
そのまま少しの間、彼は動かずにぼーっとしていた。
そして小さく笑って言った。
「まっさかな。あの虚無な世界に戻るよりかはまだましやろ」
ハルドは勢いよくベッドから飛び降りた。
大きく伸びをし、カラスの行水のようなシャワーを浴びた。そして素早くおにぎりとゼリー飲料を口にし、少し皺の寄ったワイシャツに袖を通した。
その間わずか十分弱。
実に、手慣れたものである。
「あぁ仕事だるぅ。だるいけど行かなならんか」
ガチャ。
彼の関西弁はこの瞬間までである。
仕事モードの飯田恭三は、今日も鞄を片手に玄関を出た。