世界の終りの日
無限に広がる闇空間には、もはや王たるハルドの座る机と椅子以外なにもない。
膨大な面積を占有していた機械たちはつい先日、取っ払われた。
「いよいよ明日ですね。ハルド」
「ああ。ハルド団が例の装置とともに国会議事堂を丸ごと占拠。そこから全世界に向けて勝利宣言を出す。ついに計画完遂の時や」
イレーヌはフワフワと宙を漂い、気持ち良さそうに伸びをしている。
「思えばあっという間でしたね。聖刃ユウキの登場にてんやわんやしていたあの頃が嘘みたいですよ」
「いやあ、あのときは焦ったなあ。でもそれももう、過去の話や。奴との魂を揺さぶる戦いが恋しいくらいにな」
さながら居酒屋での思い出話のごとく口にするハルドの顔には、余裕の二文字が漲っていた。
「なあ、イレーヌ。ここから状況がひっくり返されるってことがあると思うか?」
「もう彼女一人でどうにもできないくらいに世界はこちら側に傾いていますし、失敗する要素はないでしょうね」
「うむ」
ハルドは紅茶を口に含んだ。
やたらと時間を掛けて飲み込むその様は、まるで最後に至極の一杯を味わっているかのようである。
「あのハルド。だからこそ今一度聞きたいのですが」
「なんや」
「本当に、これでいいのでしょうか?」
ハルドはあくまで真顔で、イレーヌの豊満な胸元を見ながら答えた。
「俺の考えはお前を呼び出したあの日から、なんも変わらへん。後悔なんてあらへんよ」
「本当にそうでしょうか。この世界に未練はありませんか」
「ないな。美味いもんもたらふく食ったし、ブラブラも飽きるまでプレイした」
「それでしたら一人の女性を愛したりだとか」
「ふん、それをやったところで相手は先立ってしまうしなあ。まあ、最後にお前と戯れられて良かったで」
「そんな私とも、もうじきお別れですね」
「強いて言えばそれだけが心残りやな。お前だけエクスカリボーグに連れて帰れたらええねんけど」
「あちらの世界の生活とやらはつまらなさそうですし、こちらから願い下げですよ」
イレーヌはきっぱりと言い切った。
その声には湿っぽさの欠片もなかった。
ハルドは遠い目をし、しみじみと呟いた。
「せやな。せやから楽しいことないかと新天地を求めて、ここに来たつもりやったんけど。理想と現実は違っとったなあ」
「遠い目をして。故郷のことでも思い浮かべていましたか?」
「ああ、はるか遠い記憶のな」
そしてついに、そのときはやってきた。
* * * *
冬。吐く息凍る、寒空の下。
外灯に群がる虫のごとく、設置された装置の周りに集まる人々は皆、幸せそうに倒れていた。
ある者はよだれを垂らして蹲り、またある者は傍に転がる死体を避ける様子すらなく、仰向けで寝転がる。
ハルドは自らの足で、その死屍累々とした通りを歩いていた。
かつてハルドは同志たちを前にして、得意げに言った。
「人間という生き物はある程度の苦痛には耐えられても、快楽には驚くほどに弱い」
その事実の証明は、実に簡単なものだった。
アンテナ状の装置は、街中至る所に設置されていた。
そこから無尽蔵に発せられる電波は、周辺半径一キロメートル圏内を“楽園”に作り変える。
ハルド団がこの装置を発表した当初、倫理に反する悪魔の兵器と非難する声も上がった。
しかし世界が団結して排除の動きをみせる以前に、装置は世界中に広まった。
半永久的に提供される幸福感を前に、技師たちはハルドの主張を傀儡のように受け入れ、自らの手で機械を量産した。
また危険性を主張し、破壊に動こうとした者も、装置に近づくやその甘い電波の虜となり、攻撃の意志を失った。
世界の機能が停止するのに、時間は掛からなかった。
「これは奴らが自分で選んだ結末や。俺はほんの手伝いをしただけに過ぎん……」
ハルドは一人、ほくそ笑む。
冷気が肌を切り裂く痛みすらも感じず、心地良さそうに呆ける人々。
彼らの間には、差異がない。
富ある者も、貧しき者も、生ある者も、息を引き取った者も、皆等しく平等に幸福な滅びの前に跪いていた。
ハルドはふと、うつ伏せで倒れたまま動かない一人の女性に視線を送る。
かつて洗練された覇気を放っていたその肉体は、今や見る影もなくただ重力に屈服させられていた。
「聖刃ユウキ。特別なヤツかと思ったが、お前も所詮人間やったか。ざまあないな」
ハルドはしゃがみ込み、ユウキであった者の顔を覗き込む。
瞳は焦点すら合っていなかった。
白く、弱々しい息だけが、微かにハルドの鼻に降りかかった。
「ふん……。興醒めやな」
ハルドはわざと無防備な背を見せ付けるかのように、露骨に狭い歩幅でその場を離れた。
しかし幾度となく彼を苦しめた正義の勇者は、ついぞ立ち上がらなかった。
同様の景色は、どこまでも続く。
イレーヌはすでに、この世界にはいなかった。
ハルド団は完全勝利宣言をもって、とうの昔に解散していた。
次回予告されていたブラブラの更新も、実行されることなく時間ばかりが過ぎていた。
ハルドの足取りは、次第に速まった。
「そうや、俺は正しいことをしたはずや。こいつらはプログラム、それも血塗られた争いの連鎖を繰り返す、しょーもないプログラムだってことは、俺が一番ようわかっとる筈や」
まるで自らの正しさを確認するかのように、ハルドは自問自答を繰り返す。
しかしその足や目は、装置の支配の及ばない場所を探しているようだった。
時が止まったかのような、灰色の景色は終わらない。
ハルドは空間転移にて、国を変え、地域を変え、あらゆる場所を回った。
そのたびに、息のある人間を見る機会は減っていった。
ふと、彼はある寂れた山村に辿り着いた。
鳥のさえずりが久し振りの生きた音として、ハルドの鼓膜を震わせた。
周辺に装置は見当たらず、雪化粧をした路面にはまだ新しい人間の足跡が残されていた。
ハルドは駆け出した。
血眼になって足跡を追い、辿り、そして――出会った。
茅葺き屋根の家の前で、老婆と年端もいかない少年はまだ目に力を宿していた。
彼らはハルドの顔を見るなり、互いに寄り添うように、強く抱きあった。
「間違っとった。間違っとった……!! こんなハズや、こんなはハズやなかったんやっ!!!」
ハルドは叫んだ。
突然、空全体が真っ暗な闇で塗り潰され――
そしてハルドは、カプセルの中で目を覚ました。




