どこにでもいるありふれた社畜
死んだ魚のような目とは言わないまでも、濁ったレンズのような瞳をし、男は満員電車のつり革に掴まっていた。
脇でスマホ弄りに夢中になっている、大学生くらいの若い女。
ワイシャツにネクタイ姿の男はまるで自分は痴漢ではないと言わんばかりに、あくまでも自然にその女との距離を取っていた。
それもいつの間にか、彼がこの生活をするうちに自然と身についたスキルであった。
「次は 明大前です。井の頭線は お乗り換えです。 出口は 左側です。明大前の次は 調布に 停まります」
鉄の扉が開くと同時に、幾人かと共に彼はホームへ降り立った。
外見はまだ若いが、その背中は十分にくたびれている。
会社の同僚は彼のことを苗字で、シンプルに「飯田」と呼んだ。
駅を出るなり、飯田はすぐに最寄りのコンビニエンスストアに立ち入った。
つい先程までとは打って変わり、その瞳には活力が戻っている。
弁当コーナーへ直行するや、彼の目はまるで獲物を前にした獣のようにギラリと光った。
「肉や。肉が食いたいんや……」
オフモード特有の関西弁を口走りながら嬉々として手に取ったは、特製・牛タン弁当。
言うまでもなくこの日の夕食はこれである。
彼の遅めのディナーは彼の家、つまりは殺風景なマンションの一室にて、こじんまりと催された。
独身であるがゆえ、参加者は一人のみ。されど淡々と白米と牛肉の切り身を口に運ぶその表情に、哀愁の二文字はなかった。
なぜなら彼にとって、これから一日における最も至福の時が訪れるからである。
「ふぃー、食った食った。食ってすぐ横になったら牛さんなるでぇ」
言っていることとは真逆に、彼はまっすぐにベッドへダイブした。
ぐるりと仰向けに寝転がると、さっそく懐から取り出したスマホの液晶画面をつつく。
「ようこそ! ブラック×ブラックワールドへ」
スマホのスピーカーから流れ出る、元気一杯の可愛らしいアニメ声。
人差し指を軽快に踊らせながら、彼はさらにつんつんと画面を弾いた。
「さあてお待ちかね。一日一回、無料ガチャの時間やでぇ。ポチッとな」
途端、スマホがなにやら神妙なBGMを奏で始める。
チュインチュインチュインチュイン……チュイィィン!
テレレレーッ!!!
「フラワー・アローッ! 花の香りに世界は救われん」
その瞬間、彼の口元がにやけ、少年のような笑顔がこぼれ出た。
「え、ちょっと待ってや! マジで? マジで来たん? うはっ、なんちゅー豪運や! アフロ女神ボンバーフラワー、幻の超レアSSRカード! まさか来るとは……」
そのにやけぶりたるや、七福神に混ざっていても違和感のないレベルである。
その後彼は日課のクエスト等、少しばかりの間ゲームをプレイした。
そしてすぐにSNSにて、ボンバーフラワーを引いた喜びの感想を多少表現を盛りつつ書き綴る。
「ネットの発達は人類を悪い方向に導いとるが、こういう喜びを共有できるのはいい点やな」
飯田恭三。
彼の戸籍上に書かれた日本人としての本名は確かにそうなっている。
しかし、それは彼の本当の名ではない。
ブブーッ。ブブーッ。
そんな男の束の間の愉悦を引き裂いたのは、一本の電子メールに他ならなかった。
「伊藤さん? なんやこんな時間に」
彼の表情が、みるみるうちににやけ顔から真顔へと変化していく。
どうやら上司から新たな仕事を押し付けられたらしい。
「……ったく。この時代はほんま息苦しい世の中やな」
呟くと、彼は今年でサービス開始三周年を迎える大人気育成アドベンチャーゲーム、ブラック×ブラックワールドの画面を閉じ、代わりにパソコンの電源を入れた。
* * * *
「ほう。気付く奴が現れたんやな……」
牛タン弁当と同時に購入した無糖のブラックコーヒーを手に、彼はうなった。
瞳の見据える先、プラスチック製の安物の机の上に置かれたパソコンの画面には、とあるオカルト系まとめサイトのページが開かれている。
翌日の会議で使用する資料を作成していたつもりが、いつの間にか関係のないページを開いていた、などということはこの男にとってはままあることである。
「この時代になると流石に感覚的に気付く奴が出てくるんやな。ま、見た感じまだ本格的な立証は出来ひんみたいやけど。ふーむ、こりゃレポートにまとめて報告せなあかんか」
中学二年生が言いそうなそのセリフを、彼はあくまでも大真面目に言い切った。
ページのタイトルにはこう記されている。
『シミュレーション仮説 ~我々は仮想世界の住人なのか~』
ページをスクロールさせ、彼は記事を読み耽る。
部屋の内装は一見、何の変哲もない一人暮らしの男の部屋である。しかしテレビやエアコンなど、どこにでもあるような家具に混じり、石器で作られたアクセサリーやら黄金の王冠、豪華な装飾が施された刀剣など、少々風変りな品もそれなりに置かれていた。
「ふむふむ。世界が光速を超えた速度を生み出すことが出来ないのは、それはこの世界の処理速度の限界だからであり、二重スリット実験の矛盾はプレイヤーの視点によって物体が出現するゲームの世界の様である……か。はぁ~、当たっとるでぇ。誰が考えたんやこれ」
心の底から感心したように、彼は目を細めた。
「コメント欄は誰も本気で信じてへんみたいやけど……、よっしゃ少し揶揄ったるか。これマジですよってな」
指先で小気味よくキーボードを弾く彼の口元は、まるで悪戯をする子供のように歪んでいた。
続いて彼は普段社内でヘコヘコお辞儀をしている姿からはおおよそ想像もつかない、自尊心に満ちた顔で“呪文”を唱えた。
「pr@@@39t@3tt3*……“ハルド”」
ハルド――。
はっきりとそう発音された最後の三文字。
それこそが彼、冴えない会社員、飯田恭三の真なる名である。
刹那、無数の小さな光の文字群が、彼の周りを取り囲むようにして浮かび上がる。
これらの文字たちは、地球上のどの辞書にも記載されていない文字であった。
「nod44$$ep2;s"s1s2……」
ハルドがさらに呟くと、眼前におおよそ30センチ四方の、中央が空白となった四角い光の枠が現れた。
人差し指を操作しながら、あるいは口を動かしながら、彼はその枠内に光の文字を淡々と書き込んでいく。
それはこなれた様子で、まるでリズムゲームをプレイしているかのようにテンポがいい。
が、数分も経たないうちにその手は止まった。
「あーだるぅ。やめややめ。この手の報告書類ってぇのは気ぃ使うからなあ。今日のお勤めで疲れた頭で、土台無理な話や。これは休みの日にゆっくりやるとして、今俺がやるべきなんは寝ることや」
足を棒のように伸ばし、ハルドは再びベッドにごろんと寝転がった。
「寝る前にもう少しだけブラブラ触るか。最後に可愛い娘を眺めて目の保養をせな、今日の一日が終わった気がせえへん」
元気一杯の可愛らしいアニメ声が先程と全く同じセリフを発する。
こうして寝床に入ったままダラダラと1時間ほど過ごすのが、いつもの彼のパターンであった。