第4話 「あなたは、誰?」
書斎を出ていくラサル男爵の後ろ姿を、ハンナは呆然と見つめていた。
彼女は殴られることを覚悟していたのだが、扉が叩かれたことで、男爵は自身の行動を中断せざるを得なかった。
そう、あのメイドの一声で、状況が一変したのだ。
― さっきの声… あの子の声だったわ…
床に座り込み、頭を上げなかったハンナは、彼女の姿を直に見ることはなかった。
しかし、その透き通るような声をハンナは確かに記憶していた。
例の少女はまた、自分を救ってくれたのだ。
「…ちょっと君、大丈夫?歩ける?」
ハンナが立ち上がれずにいると、侍従が見かねたように声を掛けた。
些か声色が迷惑そうなのは、主人のいない部屋を閉められずにいたからだろう。
使用人として、他者の業務の邪魔をしてはいけない。
ハンナは、何とか残った力を脚に込めた。
「……申し訳ありません。すぐに、お暇します。」
「うん、そうしてもらえると、助かる。」
ハンナが書斎を出ると、侍従は厳重に鍵を閉め、男爵の後を追って行った。
その様子を見届けた後、彼女も少ない力を振り絞って、仕事へと向かった。
♢ ♢ ♢
「あと、1日……」
使用人寮への帰る途中、ハンナはぽつりと呟いた。
男爵から期限を言い渡されてから、彼女はいつもの倍以上の仕事を前に、目まぐるしく働いた。
それはまるで、彼女に考えさせる時間を与えまいとするようだった。
「どうせ、答えなんて、決まっているのにね…」
言葉と共に、彼女の目から涙が一筋、零れ落ちた。
男爵の言うことは、絶対。
これは、現当主がこの地を治めて以来、暗黙の了解だった。
今までも多くの使用人が、金品を奪われたり、その身で償わされたりしてきた。
それが自分の番になっただけ。
それだけだ。
― 不義理な母親で、ごめんなさい…
再び溢れ出しそうな涙を堪えるように、空を見上げると、そこにはほっそりとした三日月が浮かんでいた。
暗闇を照らす美しい姿に、また彼女は目を潤ませた。
― ただ、幸せに生きたいだけなのに――
♢ ♢ ♢
「…ナさん!ハンナさん!!」
自分の名前を呼ぶ声がする…。
ハンナは意識がはっきりしないまま、恐るおそる目を開いた。
「っ!ハンナさん!良かった!」
目の前には、見覚えのある藍色の大きな瞳が、彼女を見つめていた。
「……どう、し、て…」
「ハンナさん、私の部屋の前で倒れていたんですよ。覚えていませんか?」
「…ごめんなさい。あまり、良く覚えていないの……」
背中に感じる感触は、どうやらベッドのようだ。
ハンナはゆっくり体を起こすと、見慣れた私室を見渡した。
「ここまで運んでくれたの?重かったでしょう?」
「いえいえ!ハンナさん、軽かったですよ?それに私、こう見えて意外と力持ちなんです!」
少女はそう言うと、自身のほっそりとした二の腕を精一杯膨らませる。
その一生懸命さに、ハンナはくすっと笑った。
久しぶりに笑ったせいか、顔の筋肉が強張るのがよく分かった。
「実家から持ってきた、カモミールティーがあるんです。安眠効果もあるし、一緒に飲みませんか?」
洞察力の優れた少女の目には、ハンナの睡眠不足が分かったのだろう。
急いでハーブティーの準備をする彼女を、ハンナは愛おしそうに見ていた。
「ここで働き始めたのは、最近なの?」
「はい。明日の夜会の準備で忙しいから、と、臨時で雇われました。」
「そう…。」
「本当は雑役メイドとしてだったんですけど、この瞳の色が珍しいとかで、奥様のお側でも働かせていただきました。」
「だからあの時、書斎に来ていたのね…。」
先日の出来事を思い出し、ハンナは納得したように頷いた。
書斎などの、場合によっては秘匿が必要となる区域は、一介のメイドが容易に立ち入れる場ではないため、不思議に思っていたのだ。
「…本当に、あなたには助けてもらってばかりね。いつもありがとう。」
「………。」
差し出された紅茶を飲みながら、ハンナがお礼を言うと、少女は言葉が詰まったように黙っていた。
カモミールの優しい香りが、2人を暖かく、包み込む。
「優しい味ね…。」
「…そうですね。」
ハンナは言いながら、少しずつ意識が遠退いていくのを感じていた。
もしかしたら、カモミールの安眠効果が表れてきたのかもしれない。
「……おやすみなさい、ハンナさん。」
薄れゆく意識の中、ハンナは、少女が自分の額に手を乗せ、そう小声で言うのを聞いていた。
♢ ♢ ♢
「……眠ったかな?」
ハンナの持つカップを片手で支えながら、少女は彼女の顔に耳を寄せた。
規則正しい寝息が聞こえるのを確認すると、カップを床に置いて、そっとベッドに寝かせる。
「まさか、別な目的でこれを使うことになんて…」
そう言うと、ティーポットの脇に置いていた粉末の入った袋を複雑そうに見やり、ポケットにしまった。
効き目が早いこの睡眠薬は、即効性の分、持続時間が短い。
朝には、いつも通り目覚めることができるはずだ。
「待っててね、ハンナさん。」
少女は、眠る彼女にそっと声を掛けた。
「必ず、助け出しますから…」
読んでくださり、ありがとうございます!
話の区切りが微妙だったので、少し続きを足しました。
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