第3話 傷心のハンナ
「酷い顔…。」
鏡に映った自分の顔を見て、ハンナは大きく溜め息を吐いた。
目の下にできた青黒い隈は、疲労を滲ませた表情を一層暗く見せていた。
最近、あまり良く眠れていないとは思っていたが、自分の想定以上に疲れは抜けていないらしい。
― このままでは仕事に出られないわ
彼女は、気だるげに腕を化粧箱まで伸ばし、醜い隈と格闘し始めた。
― 結局、あれからあの子とは会わないわね…
化粧をしながら思い出したのは、2日前の昼に裏庭で話をした少女のことだった。
彼女とは、屋敷内で会うどころか、すれ違うことすらなかった。
担当業務が違うのだろうが、それにしても不自然すぎる。
― 幻覚…じゃ、ないわよね…?
自分は、本当に少女を見たのだろうか。
もしかしたら、自らの願望が見せた幻なのかもしれない。
あの時は、誰でも良いから、自分に気付いて欲しかった。
助けが、欲しかったのだから……。
はっきりしない頭では、途方もないことを思うらしい。
ハンナは自嘲めいた笑いを零しながら、立ち上がった。
そろそろ、朝礼へ向かわなくてはいけないはずだ。
力の入らない手で自室の扉を押し開けると、ハンナは重い足取りで屋敷に向かった。
♢ ♢ ♢
『旦那様が書斎でお待ちです。本日の業務を確認後、すぐに向かいなさい。』
朝礼後、ハンナを待ち構えていたのは、メイド長だった。
彼女はそれだけをハンナに伝えると、さっさと見回りに出ていった。
嵩んだ仕事を押し付ける、ちょうどいい駒でも見つけに行ったのだろう。
ハンナはメイド長の姿が見えなくなるのを確認すると、急いで書斎へと向かった。
目的の場所に着き、侍従に取り次いでもらうと、ハンナは1人部屋の中に通された。
ラサル男爵は退屈そうに、書斎の椅子に腰かけていた。
「ようやく、来たか。待ちくたびれたぞ。」
「遅くなり、申し訳ありません。」
ハンナは頭を下げると、ちらりと部屋の中を見渡した。
部屋中のありとあらゆるものが光り輝き、目が眩みそうな程だった。
目の前の絨毯だけでも、売ったら10年、いや20年は食べていけそうだ。
「なぜ、ここに呼ばれたか、お前は分かっているだろうな?」
「……旦那様がご不快に思われるようなことがありましたら、大変申し訳なく思っております。」
ハンナは先程以上に、深々と頭を下げた。
その様子を、男爵は満足そうに眺めていた。
「ここに呼んだのは、お前の夫についてだ。」
男爵の発言に、ハンナは、はっと息を呑んだ。
先日、鉱山へ仕事に向かった夫のマシューは、まだ自宅に帰った様子はなく、連絡も一切なかった。
「先日、鉱山の方で、落石事故が発生した。お前の夫は、運悪く脚に怪我をした。当分、歩くことはできないだろう。」
「そんな…!?」
思わず声を上げたハンナは、素早く手で口を覆ったが、男爵には聞こえていたようだった。
彼女の方をぎろっと睨みつけると、男爵はそのまま話を続けた。
「私は困っておるのだ。お前の夫が働けない以上、得られる鉱石の量は少なくなる。その分、予定していた収入も激減するだろう…」
「!私が夫の分も働かせていただきます!」
「それでは、屋敷の方で働く者が少なくなるだけだ。根本的な解決には至らないだろう。」
必死に訴えかけるハンナを後目に、男爵は手元の書類を興味深げに見ていた。
「1つ、方法がある。」
「方法…?」
「そうだ。」
男爵は書類から目を上げ、不安げなハンナをじっと見ると、にんまりとした。
まるで、獲物を見つけた時の、獣の様だった。
「お前の家には、大層立派な”宝”があるそうじゃないか。」
「…?いえ、自宅に、そのようなものは……」
「…もうすぐ、3歳になるそうだな?」
「…!?」
男爵はそう言うと、持っていた紙をハンナの方に投げ付けた。
床に落ちた紙を手繰り寄せると、そこには彼女の息子の名前が書いてあった。
「物好きな私の友人が、お前の子どもに興味を持ったそうだ。庶民の子のどこが良いのか、私にはさっぱり分からんがな。」
「………」
「奴は、言い値で買うと言っていたぞ?十分”使える宝”じゃあないか!」
男爵は一気に言い放って高笑いをあげたが、放心状態のハンナには聞こえていないようだった。
彼女は、男爵の方に向かって座りなおすと、肩を震わせながら頭を床に擦り付けた。
「…旦那様、無礼を承知で申し上げますが、…どうか、どうか息子だけは、見逃していただけませんでしょうか?私がその分、精一杯働きますので……」
「……聞き分けのない女だな…」
男爵は、ハンナを冷ややかに見下ろすと、静かに立ち上がった。
その手に、鞭を握って。
「聞き分けのないメイドを躾けるのは、主人である私の役目だ…、そうだろう…?」
そう言いながら、男爵は無情に鞭を振り上げた。
―― そのとき ――
「御取込み中のところ、申し訳ありません、旦那様!」
書斎の扉を割れんばかりに叩く音が、室内に響いた。
お楽しみの時間を遮られたことに憤慨しながら、男爵は鞭を隠すと、入口へと向かった。
「私に向かって、大声で騒ぐな!無礼だぞ!」
「申し訳ありません!ですが、奥様がどうしても急いで確認していただきたいことがあると、おっしゃっておいでです!」
男爵の怒鳴り声が廊下中に響いたが、扉を叩いた女性はそれ以上に声を張り上げた。
普段は見られないような異常な光景に、男爵の侍従は、おろおろするばかりだった。
「なぜ、こいつを止めなかった!」
「申し訳ございません!この者が、奥様からの伝言があると、急に現れまして…」
「ですから、奥様は夜会のために用意する装飾品の最終確認を、旦那様にしていただきたいと、おっしゃっているのです!応接室に宝石商を待たせておりますので、お急ぎくださいませ!」
侍従の言葉に重ねて、メイドは高らかに言うと、応接室の方を手で指し示した。
男爵は、一瞬眉を吊り上げたが、考えを宝飾品の方に向けたのだろう。
それ以上は、何も言わなかった。
「3日だけ猶予をやる。それまで、考えを改めておけ。」
室内に向かって吐き捨てると、男爵は駆け付けたメイドと共に、応接室へと向かった。
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男爵は、くそ野郎です。