ベルクとアスル
ハーキン辺境伯領の若き領主、ベルク・ハーキンはこのところ、常々思うことがある。
――欲しいのは、人手ではない。
――手段である。
……このことだ。
派遣された各地から、生きた情報をもたらしてくれる女神官による諜報組織……。
彼女らの報告を精査し、飢饉の兆候を掴んでからおよそ二週間ばかりが経っている。
その間のベルクをひと言で表すならば、これは、
――多忙。
……この二文字に尽きるであろう。
文字通り、寝食の間を惜しんで人と会い、または文を出す……。
それもこれも、辺境伯領内各町村へ派遣した代官らを意のままに動かすためであり、また、自分と友好的な諸侯にも対策を呼びかかけるための行動であった。
しかし、その成果は……思わしくない。
直接に会っている者らに関しては、いい。
しかとその目を見て、話せば、飛ぶ鳥を落とす勢いの若き大貴族が言葉へ耳を傾けぬ者はいなかった。
だが、己の意を、ひとたび文という形に変換してしまえば、これは……。
無論、辺境伯ほどの者が記したそれが、軽んじられるということはない。
ない、が……どうしても熱というものは伝わり切らず、ベルクの意に反し、なんとも中途半端な動きに終始してしまっているようなのである。
ようなのだ、というのは、これらの動きを伝えてくるのもまた書状であるからだ。
皆、文章の上では色よい返事をよこしているが……。
実際のところ、どこまでベルクの意を汲みきたるべき危難に備えているのか――未知数である。
何しろ、情報源があらゆる意味でおおやけにはできぬ諜報組織なのだ。
表立っての名目は、あくまでも若き辺境伯が勘働きであり……。
いかに俊英さで知られるベルクの言葉であろうと、それを鵜呑みにできぬのは当然の人間心理であろう。
まして、直接顔合わせしてないならば何をかいわんやである。
人間の食に関するこだわりは、決してあなどれぬ……。
本当にくるかどうか怪しい冷害へ備えるために、神々からたまわった主食たる小麦の栽培を控え、雑穀や芋を育てろと言われてもそう簡単に首肯できるものではない。
国の礎たる農民たちは一山いくらの存在ではなく、あくまでも一人の人間であり……彼らにはそれぞれの考え、こだわり、暮らしがあるのだ。
なんとも、ままならぬものである。
せめて自領内に関しては、各地を巡り、己の目で見て、微に入り細を穿つ指示が出したい……。
しかし、父祖から受け継ぎし辺境伯領はそれがかなわぬ程度には広大な領地であり、心から信頼できる臣下の数もまた、限られているのだ。
ゆえに、人手ではなく手段が欲しい……。
この身一つで、領内各地の様子を知り、また、そこを治める代官たちへ直接声をかける手段が……。
「そう、思っていた矢先にこれだからな……。
心底驚いたし、貴様がうらやましく思ったぞ」
室内の調度全てが、使い慣れた品で固まっている執務室の中……。
机の上で明らかに異彩を放つそれに話しかけながら、ベルクは苦笑いを浮かべた。
それに関して簡潔な説明をするならば、これは、
――二つ折りの板切れ。
……と、いうことになるだろう。
大きさは、手のひらに収まってしまうほど……。
未知の素材で作られた結果か極めて薄く軽量であり、文鎮ほどの重さもない。
今は直角気味に開いた状態で置いてあるのだが、折り目の下側は数字をあてがわれた鍵盤のごとき作りとなっており、折り目の上側は遠くにいるはずの友――アスルの顔を映し出していた。
しかも、これはただ映し出しているだけではない……。
会話が可能なのだ。
その証拠に、ネズミほどの小さな姿で上半身を映しているアスルは、ベルクの言葉ににやりと笑ってみせたのである。
『そうだろう、そうだろう……。
超古代の文明が遺した品は実に様々だが、こいつは白眉だな。
これを使った悪だくみが、無限に思い浮かぶぞ』
「あえて邪道な使い方をする必要もあるまい……。
これがもし、国中に普及したならば……。
いや、普及とは言わずとも、ほんの十台ほども出回ったならば……。
歴史が、変わる」
『なるさ。
国民の誰もが、当たり前のようにこの携帯端末を使うようになる……。
そういった国を作るのが、俺の望みだ』
これなる板――携帯端末に映し出された友は、そう言いながら少しだけ遠い目で未来を見つめた。
この、携帯端末……。
届けられたのは、つい先ほどのことである。
ベルクも懇意にしている高級服店……。
そこで働いている小僧が金を握らされ、使いとして届けてきたのだ。
無論、普段ならば付き合いがある店の人間とはいえ、門前払いである。
しかし、小僧が持ってきた包みには、ベルクとアスルの間でのみ通じる符丁が記されており……。
それを見逃さなかった家令から話を聞いたベルクは、たっぷりの心づけを小僧に渡し、これを受け取ったのであった。
アスルが直接、渡しに来ずこのような手段を用いたのは、いらぬ騒ぎを避けるためであり、また、この携帯端末が持つ力を見せつけるためであるにちがいない……。
余談だが、包みには携帯端末と共に使い方の説明書きが同封されており、『サルでも分かる!』という文句と共に書かれたヘタクソなアスルの自画像には若干、イラッとさせられたものだ。
『とはいえ、まだ先の話だ……。
申し訳ないとは思うが、今のところはお前のために一台渡すことしかできない。
これを数多く出回せられるのは、今回の冷害騒動が落ち着いてからになるだろうな……』
「うむ……」
おそらく、領都ウロネスに存在するどこぞの宿から同じ携帯端末を使っているのだろう……。
そこそこの調度を備えた一室を背後にしながら話す旅人姿の親友へ、少々の残念さと共にうなずいた。
「それもこれも、秘密裏に動かねばならぬ者の悲しさといったところか……」
『ああ、今少しの間は、俺たちが表舞台に出るべきではないだろう……。
それをするのは……』
「いよいよ飢饉の兆候が深まり、民草が混乱し始めてから、か……。
領民を預かる身としては、事前にどうにかしたいんだがな」
『許せ、そこは立場の違いだ。
俺が発見した遺物の存在を効率的に世へ広めるには、それが最良の潮なのだ』
「そして貴様は、救世主のごとく民に受け入れられる、という筋書きか……。
救国の主というよりは、詐欺師のごとき振る舞いだな」
腕を組みながら、少々批判がましい眼差しを端末に向ける。
それは、辺境伯として万事つつがなく飢饉に備えたい身としては、当然の抗議であった。
『自分でもひどい考え方だとは思っているさ。
だが、考えてもみろ?
辺境伯たるお前でさえ、事前の対策にはこれだけ苦労しているんだ……。
これといった後ろ盾のない狂気王子に、何ができる?』
おどけた様子で肩をすくめるアスルを見て、溜め息をつく。
おそらく、だが……。
その気になって強引な手段を使えば、事前対策も不可能ではあるまい。
何しろ、アスルには先日大発生した魔物らを退けられるほどの戦力が存在するのだから……。
だが、例え助けるためであろうと、強引な押し付けをすれば諸侯や民草との間に軋轢を生じる。
それを避けるために、あえて少々傷ついたところを見計らって手を差し伸べようというのだ。
なんの計算もせず、無償の愛を振りまく救世主など、現実には存在し得ぬということであった。
「ふん、まあいい……。
少なくとも、何もせずに民が飢え死にしていくよりはマシだ」
『そう言ってもらえると、助かる』
ぎしり、と……。
音を立てて背もたれに体重を預けながら、ところでと告げる。
「先ほどから気になっていたんだが、隣にいるのが先日話していた嫁か?」
ベルクが指摘したのは、アスルの少し後ろに控えている……わざとらしいほど黒い髪を腰まで伸ばした無表情な少女であった。
『いや、彼女はちが――うおっ!?』
「――うおおっ!?」
そう尋ねると同時、突然、少女の髪がびかびかと七色に輝き出したのには、肝を抜かされたものである。




