ゾン・クリム作『気高き女神官の屈服』
ハーキン辺境伯領、領都ウロネス……。
この地を治めし辺境伯家の屋敷で、当代の当主ベルク・ハーキンは深く重い溜め息を吐いていた。
「ふう……」
ぎしり、と……。
歴代当主の背中を受け止め続けてきた背もたれに体重を預けながら、天井を見上げる。
王国でも屈指の色男として名高いベルクであり、こうして物憂げにしている様はさながら一枚の絵画がごときであった。
もしも、この執務室に婦女子らがいたならば、彼に負けず劣らず大きな溜め息をついていたことだろう。
だが、悩んでいる当の本人からすればたまったものではない。
「困ったものだ、な……」
彼をして悩ませている案件……。
それは、執務机に置かれた数枚の羊皮紙に記されし内容であった。
とはいえ、これを一見して彼が悩んでいる理由に気づく者はいないだろう。
普通に読んだならば、どうということもない世間話のごとき文章……。
しかし、いくつもの符丁が使われているこれは、見る者が見れば極めて重要な情報が記されていると分かる機密文書なのだ。
そう、これなるはベルクが肝入りで創設した諜報組織がもたらした手紙なのである。
諜報組織、と言っても裏世界の人間を従事させているわけではない。
ベルクが創設した諜報組織を構成するのは、いずれもが女子の神官たちであった。
この組織について語るには、十年以上前……まだ彼が少年だった頃までさかのぼらねばならぬ。
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かの日……。
所用で王都を訪れていたベルクは、親友たる第三王子アスル・ロンバルドの私室で、ある本を共に読んでいた。
本の表紙には、こう記されている。
――『気高き女神官の屈服』。
……と。
賢明なる読者諸兄ならば、お気づきであろう。
あーいう絵や、こーいう絵がたくさん描かれた本……すなわちムフフ本である。
これなる本を描いた芸術家の名は、ゾン・クリム。
その道では、知らぬ者のいない大家だ。
エロの力というのは恐ろしいもので、王都中の刷り師たちが日夜全力を尽くして量産にはげんでいるが、まだまだ需要に対して供給が追い付いているとは到底言えぬ。
アスルがこれを手に入れられたのは、類まれな幸運の現れであったと言えるだろう。
たっぷりと、とっくりと、存分に……。
この本に描かれし世界を余すところなく堪能した二人は、その後、バカ話に花を咲かせた。
十代の男子二人がムフフ本を挟めばこうなる、というのは、時代も惑星も問わぬ不変の真理であると言えるだろう。
さておき、その時アスルはこんなことを言ったのである。
「本来ならば人々から尊敬の念を集めるべき女神官が、屈辱に顔を歪めながらあれこれされる……。
――イイな!」
これに対し、ベルクは力強くうなずきながらこう言ったものだ。
「ああ……。
――超イイ!」
……知性のかけらも感じられぬ会話であるが、しかし、十代の男子がこういうものであるのは時代も惑星も以下略。
重要なのは、その後に交わした会話だ。
「しかし、こんなことは現実には起きないだろうな……」
「いかにも……今日も今日とて、王都が誇る大聖堂は人でにぎわっている。
信仰というものに対して熱心なのは、我らが国の美点であると言えるな」
「ああ、だからこそ、こういう本も出回るんだろうがな……」
貴重なムフフ本をひらひらともてあそびながら、ふと何かを思いついた顔を見せるアスルである。
「なあ、なら……これを現実にしちゃえばいいんじゃないか?」
「お前……いくらなんでもそれは不敬だろ?
私は友に剣を向けたくはないぞ?」
「いや、そういう非合法なアレじゃなくてさ……」
あごに手をやりながら、親友たる第三王子が続けた。
「こう、各地を慰安訪問する女神官団を作るんだよ。
そう、慰安。
色んな意味で慰安する女神官たち」
「色んな意味で……慰安だと!?」
その言葉に、くわと目を見開く。
そして、わなわなと肩を震わせながらこう言ったのである。
「アスル……貴様……やはり天才だったか!?」
「だべ? だべ?」
互いにさわやかな笑みを向け合う二人だ。こいつら気が触れてやがる。
「まあ、いくらなんでもバカすぎる案だがな! アッハッハ!」
「そうだな! アッハッハ!」
その時は、極上のムフフ本を見た直後ゆえのバカ話として笑い合ったものだが……。
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試しに、やってみた。
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やってみた結果、一つ分かったことがある。
まったくもって、予想外の効能だったのだが……。
――その諜報効果、抜群なり!
本来ならば、そうそう得られぬような情報があれよあれよと舞い込んでくるようになったのだ。
人間がエロスにかける情熱たるや、筆舌に尽くしがたいものがある。
そして、その目的が果たされた時……男というものは、ひどくスキだらけな存在となってしまうのだ。
なんとも物悲しき……生物としての性である。
ともあれ……ともあれ、だ。
かような利益をもたらすと判明した……というより、判明してしまった以上、これに力を注がぬ道理はない。
当時はまだ次期当主の身であったベルクは、これなる諜報組織の確立に心血を注ぎ込み……。
結果、代替わりして辺境伯という強大な地位に収まった時、そこからもたらされた情報の数々は大いに役立ってくれたのである。
決して、歴史書などには記せない事実であるが……。
今日における辺境伯領の隆盛は、彼女らの働きあってのものだと断言することができた。
そして今もまた、極めて重要な情報がベルクにもたらされているのである。
「各地からもたらされた情報……。
足すことの、我が領都に生きる漁師たちの世間話……。
そこから導き出される事実は、一つしかない、か……」
目をつむり、眉間を揉みほぐす。
「いっそ、先日起きた魔物の大発生の方がまだマシだったな。
かねてよりの備えはある……。
今から打てる手も、いくつかある……。
だが、これは……このままでは、大勢の人死にが出ることをまぬがれまい」
目をつむったまま、しばし現実からの逃避行を図ったが……。
自身に課された辺境伯という地位は、そうすることを許さなかった。
「ともあれ、できることをするしかあるまい……。
彼女らが献身してくれるおかげで、完全に手遅れとなる前に動けるのだから……」
執務室を後にするため、立ち上がる。
時刻は夜半であるが、日が昇るのを待つつもりはない。
重臣たちの中で寝ている者がいるならば叩き起こし、明朝からでも行動に移れるよう手はずを整える必要があった。
時は、文字通り一刻を争う。
動くのが早ければ早いほど、救える命は増え……。
逆に言えば、もたもたすればするだけ、失われる命もまた、増えるのだ。
「こんなことになるならば、奴とつなぎを取るための手段を確立していくのだったな」
ふと振り返り、窓を見やる……。
さすがに、奴――アスルが先日のようにそこへ座っているということはなかったが……。
あるいは、いや……あの男ならば間違いなく、この事態へ対処するため動くだろう……。
「まあ、頼ってばかりというのもしゃくだからな」
自嘲気味に笑い、部屋を出る。
今夜は寝ずに走り回らなければならぬ夜だ。
事態を予期できず、惰眠をむさぼらずに済んだ夜なのである。
それもこれも、全ては各地を巡り、その身を捧げてくれた女神官たちのおかげ……。
そして、彼女らを組織するきっかけを与えてくれたムフフ本のおかげなのだ。
――ありがとう! 『気高き女神官の屈服』!
――そしてありがとう! ゾン・クリム!




