グスタフ・ロンバルド
目を開いた。
開いたが、その瞳は闇を映し出すばかりで何物も捉えることができず……。
それで、いよいよ、その時がきたのだと悟ることができた。
――ここまでか。
諦観と共に、これを受け入れる。
人間は、常に希望を持って生きるものであり……。
その背景には、死への覚悟というものが存在した。
よって、怖くはない。
むしろ、この先、無限に続く安息への喜びすらあったが……。
ただひとつ、無念でならないのは、自分が伏せって以来、物事がどのように推移したかを図る術がなかった点であろう。
いや、結果がどうなるかは分かっているのだ。
今更、くつがえらない流れというものがある。
ただ、18世を名乗る者として、おそらく最後だろうロンバルドの王として、それを見届けられない己の弱さには、じくじたる思いがあった。
――ガチャリ。
……と音を立て、寝室の扉が開く。
視覚が働かぬ分、他の感覚が研ぎ澄まされているのか……。
あるいは、死の間際に聞いた幻聴か……。
ともかく、その音ははっきりと響いて聞こえた。
――コッ! コッ!
これも聞き逃しようのない足音を立てながら、己の眠る寝台に侵入者が近づく。
硬質な音を響かせるそれは、おそらく侍女のものではない。
だとすれば、何者だろうか……。
玉座の間から通じる王家の生活領域は、一種の聖域であり、誰でも立ち入れるというわけではない。
しかし、それを許されうる重臣たちは、こうなって以来、一切、姿は見せておらず……。
となると、残る候補はカールただ一人であったが、どうにも、ちがう雰囲気が感じられた。
謎の人物が、寝台脇の椅子へ腰かける気配がする。
そして、もう自力では動かす力も残っていない手に、そっと彼の手が重ねられた。
冷え切っていた手に、体温が移る。
とても……とても、懐かしい感覚だ。
「父上、お久しゅうございます」
その人物――アスルの声が、耳と皮膚とで伝わってきた。
もう、口を開くのも億劫に思えたが……。
アスルの言葉を聞いて、最後の気力が湧き上がってくる。
それは、いうなれば、王者としての意地であった。
「アスルか……。
ついに、ここまで来たな」
そして、口をついで出たのは、自身でも意外な言葉だったのである。
賞賛しているようでもあり……。
憎まれ口を叩いているようでもあった。
確かなのは、自分が迎える者であり、三人目の息子は挑み、辿り着いた者であることだ。
「ええ。
ここまで、長かった……。
本当に、長かった……」
おだやかな声で、アスルがそう告げる。
あの日……。
国を出た日のアスルは、まだ二十そこそこの若造に過ぎなかった。
今は、二十代半ばを越えている。
『テレビ』なる板切れを通じて、その姿は確認しているが……。
今、この瞬間のアスルを直に見れなかったのは、少しばかり口惜しい。
「なあ、アスルよ……」
ずっと、問いかけたかったこと。
その答えを返してもらえる機会が巡ったことを神に感謝しながら、口を開く。
「お前はあの時、どうして欲しかったのだ?」
全ての運命が変わった日……。
アスルが、自分の研究結果を発表した日のことを思い出しながら、尋ねた。
思えば、あの頃におけるアスルは、心身共に充足しきっているようであり……。
その頼みとして、重臣らを含めた会議を催して欲しいと言ってきた時は、果たしてどのようなことを提案してくるのかと、期待したのを覚えている。
結果は、荒唐無稽極まりないと思える内容であったが……。
しかし、それが正しかったことを証明し、今、アスルはここへ辿り着いていた。
時間は決して巻き戻ることがない。
だが、もし過去にさかのぼることができたら、どうなるかを考えてしまうのは、人間という生き物の性であろう。
「私は……。
私は、きっと、褒めてもらいたかったんですよ」
「……何?」
しかし、アスルから返ってきた答えは、なんともささやかな願いだったのである。
「だって、そうでしょう?
五年間、ひたすら研究に没頭し、その上で出した結論なのです。
これを、私は褒めて欲しかった。
褒めてもらえるものと、そう思ったんです」
「まるで、子供だな……」
息を吐き出しながら告げた言葉に、息子は苦笑いしたらしかった。
「ガキなんですよ。
きっと、今も……甘ったれたガキなんです。
でも、父親に父親であって欲しいと願うのは、そんなに悪いことだったんでしょうか?」
「ふむ……」
そういえば……。
自分は、息子たちに対し、あまり褒めるということをしなかったように思う。
それぞれに優秀な、三人の息子たち……。
いつしか、それを当たり前と感じ、自分の期待に応え続けるのが、当然と思うようになっていなかったか?
問われれば、答えあぐねるにちがいない。
だから、手を伸ばす。
もう、枯れ果てているはずの肉体は、最後の最後に自分のいうことを聞いてくれた。
「そうか、すまない……。
いや、ちがうな。
よくやった。
得られたものを民のために使い、誇り高く生きよ」
「……ありがとうございます。
必ず、そうします」
息子の頬を触った手が、握り返され。
ぷつりと、何もかもが途絶えた。
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「おやすみなさい、父上……」
旅立たれた父の寝姿を整え、そっと十字を切る。
これで、何もかも終わりだ。
父グスタフを始めとし、カール、ケイラーといった旧ロンバルド王家の男児は全てが死した。
後は、かつての第三王子であるこの俺が、全てを継承し、その先へ進むのみ……。
「いや、まだ肝心な奴が残っていたか」
ふと、バルコニーの方へ出て、階下を見やる。
なぜ、そうしたのかは自分でも分からない。
ただ、何かに呼ばれているような気がしただけだ。
直下のそこは、花々が咲き乱れる庭園となっており……。
突入の舞台となった中庭の反対方向に存在することもあり、矢ひとつ落ちていない、場違いなほどにおだやかな空間であった。
――いるな。
理由の分からぬ確信を抱き、一人うなずく。
他のみんなは、玉座の間でもろもろの指示に当たっており……。
この場にいるのは、俺一人である。
しかし、ちょうどいいだろう。
件の存在とは、サシで話したいと思っていた。
「はっ」
俺は浮遊の魔術を発動し、庭園へと飛び降りたのである。




