ある狩人の最期
冬の山が危険な場所というのは子供でも知っていることだが、しかし、危険を乗り越えることで糧を得るのが狩人という仕事である。
まして、男は妻が妊娠しており……先の生活を考えれば、稼げる時に稼ぐ必要があった。
とはいえ、妻は腹が大きくなるに連れて神経が過敏になっているというか……何事に対しても悲観的なところを見せるようになっていて、説得をするのは骨が折れたものである。
いつも、最後の決め手となるのは集会場に存在する『テレビ』の気象情報であり、百発百中と言って良いそれで天候が保証されれば、妻も首を縦に振らざるを得なかった。
――まったく、正統ロンバルド様様だな。
雪の降り積もった山道を、注意深く進みながらそんなことを考える。
いかに天気が晴れているとはいえ、雪が積もった山道が危険なことに変わりはないが……ザンロの大山脈へ挑むというならばともかく、その麓部に過ぎないここらは男の庭も同然だ。
本日の天候が保証されているという心の余裕もあって、足を取られるようなドジは踏まなかった。
男にとってだけでなく、村全体にとっても『テレビ』がもたらす恩恵は大きい。
気象情報の有用性は当然として、ちょっとした学問を教えてくれる番組は子供たちのみならず、男を含めた大人にとっても知識欲を刺激されるものであったし、先日、放送されたオペラ公演というのには、妻を始めとする女衆がうっとりとしながら見入ったものだ。
――うちの領主様も、アスル様と手を結ばないかな。
腰をかがめ、発見した獣の足跡を確認しながらそんなことを考える。
小規模な貴族家が群立するという中原地帯を越えた先……ロンバルド王国の最西部に位置するここを収めるのは、イーシャ辺境伯だ。
――放送によると、反正統派だっていう貴族領では『テレビ』が取り上げられているから、うちはそうじゃないんだよな。
しかし、赤毛の少女サシャがリポートを務める番組からは、精力的に外遊するアスル王がノーザン・イーシャ辺境伯と手を結んだという話を聞けない。
定期的に様子を見に来る辺境伯家の騎士から長老が聞いた話によれば、国境を固める役目も担うイーシャ辺境伯家であり、事実上の内乱と言える今回の戦いには静観を決め込んでいるらしい。
それは風見鶏的な行動と言えるが、しかし、国という『家』の番を任された者にしてみれば、他に動きようがないのかもしれなかった。
事実、その騎士が語ったところによれば、国境を越えた先の諸国は昨年の冷害で大打撃を受けており、隙を見せたならばその補填をするべく攻め込んで来かねない状況なのだそうだ。
――飢えずに済んだだけでも、本当に正統ロンバルド万歳だよ。
もしも……。
もしも、かの時期に『米』の旗を掲げた者たちが、食糧を運んできてくれなかったら。
そのことを想像すると、冬山の空気がより寒さを増してくる。
『米旗隊』のおかげで、村の食糧庫にはこの冬を乗り越えるに足る量の白米が納められていた。
それがなかったならば、男の妻などは流産していたか、あるいは母子ともに死していたにちがいない。
――とはいえ、米だけじゃな。
妻とそのお腹にいる我が子を思えば、より滋養のある物を食わせてやりたいのが夫心であり、父心だ。
さらに、獲物から作れる各種の加工品は貴重な収入源となるのである。
油断なく、獣の足跡を追跡していく……。
足跡の主は、キツネであると思えた。
男にとっては、狩り慣れた……油断ならぬ相手である。
狩りというと弓矢の腕が第一であると思われがちだが、その実はちがう。
もちろん、それがなければ話にならないが……大切なのは、読みだ。
そもそもの話として、追跡しているキツネはとうの昔からこちらの存在を察知している。
よって、ただ追いかけるだけでなく、弓を射るのに適した場所へ巧妙に誘導することが肝要なのだ。
狩り場に生くる野生生物というのはすれているものなので、この知恵比べは人間を相手にするのと変わらぬ。
だからこそ、楽しいとも言えるのだが……。
――どうやら、俺の勝ちだな。
足跡の行き先から考えて、今追いかけている相手はまだ若く、経験が不足していると見えた。
しばらく登った先……ちょうど、ゆるやかな下り斜面へと変じている場所で、相手を視界に収められるはずだ。
そしてそれは、男の腕前ならば必中あたう距離なのである。
相手を刺激せぬよう歩みの速さは変えぬまま、背負った弓を取り出し矢をつがえた。
そして上り坂を終え、それを構えたその時だ。
「――何っ!?」
狩り場において叫び声を上げるという、初歩的な失敗を責められる者は存在すまい。
なぜならば……。
「魔物だと!?」
男が弓を構えたその先では、数匹の魔物が散々にキツネをなぶり、これを食らっていたからである。
魔物たちの見た目は、オオカミのそれによく似ていたが……。
複数の眼球を備え、しかも、体の一部を昆虫じみた甲殻に覆われたその姿は、明らかに尋常な生物ではない。
「う、うおおっ!」
即座にきびすを返し、来た道を引き返す。
狩人として直感的に感じた生命力の大きさはクマにも匹敵するものであり、こんな弓矢一つで複数を相手取るなど冗談にもならなかった。
そんな男の背後から、静かな……そして素早い足音が追いかけてくる。
――なんでだ!?
――魔物の兆候なんてなかったぞ!
いかに魔物が自然界からはみ出た性質を持っているとはいえ、生き物であることに変わりはない。
それが出現したのならば、従来そこに生きる生物たちがなんらかの反応を示すもので……今回、そのような気配は一切感じられなかったのである。
――まるで。
――まるで何もないところから、突然生えてきたみたいだ!
心中で毒づきながら、必死で足を動かす。
弓も背嚢も捨て去り、ただひたすら全力で駆け抜けた。
そうしていると脳裏をよぎるのは、妻の姿であり……やがては生まれてくるだろう我が子の姿である。
それは夢想だ。
男にとって、近い将来手に入る夢想の光景なのだ。
時間の感覚も距離の感覚も失い……。
もはや肉体が限界を迎えたところで、ふと、背後の足音が聞こえなくなっていることに気づいた。
周囲を見回すが、いつもと変わらぬ冬山の光景……。
「助……かった……?」
自身、信じられない思いでそうつぶやく。
足音を消し、死角から飛びかかった魔物の牙が喉へ喰らいついてきたのは、直後のことであった。




