調印式
――まさか。
――裃へ袖を通す日が来ようとは!
こればかりは、何度反芻しても現実味の湧かぬ感動であり……。
みっともないとは分かっていながらも、しきりに肩衣の具合を確かめてしまう。
「タスケ殿、そう心配せずともしっかり似合ってますよ」
背後から声をかけられ、振り向く。
「シノビ殿」
そこに立っていたのは、あの日の襲撃……いや、世界滅亡の危機を防いで以来、仲間となった犬耳の青年であった。
彼はあえて本名を名乗らず、シノビの通称で通している。
それは、御庭番一族を捨てたけじめの一環であるにちがいない。
「そう言っていただけるのはありがたいのですが、そもそも拙者は武家と言っても下級の家出身でして……本来、裃を身に着けられる身分ではありませんから」
「そのようなことを気にされるアスル様ではありますまい。
何しろ、あの方は本来情報を聞き出し次第始末すべきである私を仲間として迎えて下さったのですから……」
「何をおっしゃる」
シノビの言葉に、あの夜の出来事を思い出す。
「アスル様が見せしめとして薬を飲ませた途端、究極生命体へと変貌し始めたあのネズミ……。
共にあれへ立ち向かってくれたあなたのことを疑う者など、いようはずもありません」
「いえ、あのような物を見せられて放っておける獣人などおりませぬ。
まだ進化の最中だったから倒せたものの、進化しきってしまったらどうなっていたことか――ハハッ!」
「――ハハッ!」
なんとなく、共に甲高い笑い声を上げながら周囲を見回す。
ラトラの都郊外に存在する草原には、いくつもの陣幕が張られており……。
これだけならば、獣人国時代に行われた野点の光景にも思える。
しかし、今日行われるのはそのようなおだやかな行事ではない……。
女総督ワムが率いる一軍と正統ロンバルドとの間に締結した同盟……その調印式であった。
野点と異なる光景は、他にもある。
タスケらの――風林火の当主であるアスル王が御国から呼び出した、撮影部隊なる一団だ。
イヴ、という常に色彩が変わる不可思議な髪をした少女が指揮する一団は、かめらだとかれふ板だとかいう機材を用い、この光景を獣人国中に中継する手はずである。
その、中継部隊――ぶるーむという乗り物に乗った兵たちも正統ロンバルドの者たちであるのだから、アスル王が自分たちに貸した力はごくごく限定的なものでしかなかったことがうかがえた。
「それにしても、やはり皇国軍の数には圧倒されますな。
聞いた話では、一万もの兵を動員したとか……」
草原に張られた陣幕は、二つの勢力が向き合う形となっているのだが……。
ごくごく少数でしかない正統ロンバルド側のそれに比べ、ファイン皇国側のそれは数も走り回っている兵たちの数も圧倒的のひと言であった。
「これだけの兵を連れて来られたとなると、翻意された場合が心配でなりませぬ」
今度は肩衣でなく腰の刀をいじりながら、そのようなことを口にしてしまう。
今日、タスケら風林火の者はぶらすたあを手にしていない。
いや、手にしていたところで対抗できる数ではないのだが……。
「心配されるな。あのオーガなる御仁を見よ」
シノビが目をやったのは、アスル王が……そして獣人王家最後の生き残りであるウルカ姫が控える陣幕である。
その入り口には、覇王という言葉を人の形に押し込めたかのような巨漢――女性らしいが――が立っており……。
気のせいか、『ゴゴゴゴゴ……』という音が周囲に響いていた。
「皇国軍が翻意したとして、あのオーガ殿に立ち向かえると思われるか?」
「あ、無理っすね」
即答する。
特に根拠はないが、皇国兵のことごとくが無惨な飛び散り方をすることとなるだろう。
世の中には、決して触れてはならぬ存在というのがあるのだ。
「それより、いよいよ時間ですぞ」
「……うむ」
アスル王から支給された携帯端末を確認したシノビの言葉に、うなずく。
様々な機能を有するこの板であるが、時間を合わせられるのはことさらに便利である。
いよいよ、調印式の始まりであった。
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超古代の技術を用いているという、サツエイキキなる品々に囲まれながらの式典は、当然初めての経験であったが……。
逆に言えば、その程度の差異しかないのは不思議であり、不気味にも感じられたのである。
なんとなれば、わざわざ屋外での調印式を提案してきたのは他ならぬアスル王であり……。
何事においても劇場的な演出を好むこの男であるならば、なんらかのアッと言わせる工夫があるだろうと踏んでいたのだ。
「意外だな……。
陛下がこの場所を指定してきた以上、何かの仕掛けがあると踏んでいたのだが……」
つつがなく調印を終え、両者でその文書をカメラなる道具に向けつつ……。
今日を限りに総督でなくなったワム・ノイテビルク・ファインは、素直にその疑念を口にした。
「ふっふ……どうかな?
まだこの後、面白い催しがあるかもしれないぞ?」
獣人たちに対するパフォーマンスの意味合いが強いのだろう……。
本日は超古代の技術を使った制服ではなく、以前も見せた束帯姿のアスル王が、人の悪い笑みを浮かべてみせる。
と、いうことは……やはり、何か用意をしてあるにちがいない。
「それは興味深い……。
ま、あまりあたしの配下たちを怖がらせない形でお頼みしましょう」
これに関しては、肩をすくめながら軽く受け流す形を取ったワムだ。
ここまでの経験を踏まえれば、もはや超古代の技術はなんでもありと言ってよく……。
いちいち身構えても、気疲れするだけだと判断したのである。
確かに調印が成されたというアピールを終え、ワムは腹心たるダーク種のエルフ、ヨナを……。
そして、アスル王は妻にしてこの地の正統な姫君であるウルカ姫を伴いながら、調印が行われた陣幕を後にした。
「段階的に、という形ではあるが……。
これでこの地は、ラトラ獣人国は、そちらのウルカ姫に返還されたことになる」
銀色の髪もキツネ耳も尾も、同性であるワムからしてさえ可憐であると感じられる打掛姿の少女――ウルカ姫は、何も答えずにただほほえんでみせる。
姫らしくたおやかな振る舞いではあるが、果たしてその心中へ抱いているのはいかなる感情であるだろうか……。
何しろ自分は、獣人国を滅ぼしたかの大戦にもノイテビル家を代表して参じているのだ。
言ってしまえば、親族を皆殺しにした仇の一人なのである。
「そしてそちらは、皇国を手にするための大いなる一歩を踏み出せたわけだ」
イヴという、奇怪な髪の少女率いる一団が相変わらず同行し撮影しているのも大きいのだろう。
結局、ウルカ姫はひと言たりとも発することがなく……。
ワムの言葉へ答えたのは、アスル王であった。
「大いなる一歩、か……。
果たして、どの程度の一歩であるものか……。
陛下は、正統ロンバルドはあたしたちに何を与えてくれるというのでしょうね?」
その言葉に、アスル王はぴたりと足を止めてみせる。
見れば、彼の背後には陣幕の一つたりとも張られていない広大な草原が広がっており……。
どうも、最初からそこを目指して自分たちを誘導していたのだろうと知れた。
「言ったはずだろう……」
言いながら、アスル王はゆっくりと右手を掲げてみせる。
「――全てだ」
すると……おお……どうしたことか……。
突如として地震が発生した!
いや、これは……自然災害と考えるにはあまりに局所的であり……。
どうも、振動源が地中深くからこちらへ……地上へ移動しているのが足裏の感覚から察せられた。
ほどなくして、振動の正体が判明する。
遥か地下深くから、回転する槍のようなものを使って地上まで移動してきたモノ……。
地上に巨大な穴を開けながら姿を現したそれは、鋼鉄の……巨人だったのである。




