ワム・ノイテビルク・ファイン
かつて、獣人国の王都と呼ばれ……。
現在ではただ、ラトラの都と呼ばれているこの地の特徴はといえば、なんと言っても独特な建築様式の建物群であろう。
木と紙を組み合わせて作られた家屋はいずれも背が低く、いかにも風通しが良さそうである。
驚きなのは、床材として用いられている畳だ。
草を編んで作られた床の上に、履き物を脱いで上がる……。
この独特に過ぎる生活様式は、外国から来た者にとってはなんとも奇異に映るのであった。
かように伝統的な家屋が密集するラトラの都において……。
異彩を放つのが、それらを睥睨する白亜の城である。
大量の石材を用いられたこの城は、明らかに外から持ち込まれた建築様式と思想で築城されているのが見て取れた。
事実、この城はファイン皇国の建築様式に則り、大量の獣人たちを用いて築城されたものであり……。
それが伝統的な獣人国の家屋を見下ろす様は、この地の現状をそのまま表しているかのようであった。
――ノイテビルク城。
今よりおよそ十年前……。
かつて存在した獣人国の王城を焼き払い、その跡地へ建設された城である。
獣人たちの酷死をいとわなかった結果、わずか八ヶ月で主要部の完成を見るに至ったこの城に務めるのは、当然ながらその多くが外国人たちだ。
ただし、外国人と言っても、生粋のファイン皇国人は実の所そう多くはない。
割合にすると、およそ一割といったところであろう……。
残り九割の内、六割ほどを占めるのが、レイド人たちである。
――レイド人。
かつて、獣人国と隣接したレイド王国に属していた人間たちだ。
獣人国より以前に攻め滅ぼしたかの国の者たちを、ファイン皇国は獣人国攻めの主力として用いた。
それまで、現在の獣人たちと同様、隷属を強いられていたレイドの人間たちであったが……。
正式な皇国兵となれば、話は別だ。
ファイン皇国は兵となったレイドの人間たちに、正式な市民権を与え、のみならず、様々な面で人間らしい生活を保証したのである。
かつて攻め滅ぼされ、犠牲者となった者たちが、別の相手を攻め滅ぼす尖兵となり、今度は自分たちが搾取する側へと回っていく……。
まこと、地獄のごとき連鎖であるが、これこそファイン皇国を現在の規模にまで拡大させた秘訣なのであった。
そのようなわけで、務める人間の内一割をファイン人、六割をレイド人が占めるノイテビルク城であるが……。
残りの三割は何者かと言えば、これは語るまでもあるまい。
種族の誇りである尾を帯のごとく腰に巻き付けた、獣人の下人たちである。
その役割は、城を……ひいては組織を維持するための様々な雑事であり……。
当然ながら、城内の清掃を担当するのも彼ら獣人たちである。
「ふん……こうして見ると、占領地政策というものは雑巾がけにも似ていると思えるな?」
廊下に雑巾がけをする獣人の姿を見やりながら、その女はふとそんなことをつぶやいた。
美しい――女である。
後頭部でまとめられた白金の髪はそれだけで生まれの高貴さを感じさせ、顔立ちもまた、気高さという概念を女性の形へ押し込めたかのようだ。
身にまとった赤い軍服は魔法騎士の資格を示すものであったが、他の者らに比べると明らかに装飾が多く、別格の存在であることを直感させる。
しかも、その軍服を得たのは血筋ではなく実力によるものであるのが、立ち振る舞いに漂うスキの無さからうかがえるのだ。
――ワム・ノイテビルク・ファイン。
御歳28歳となる、ファイン皇帝家が誇りし女傑であった。
「雑巾がけ、ですか?」
そう尋ね返したのは、ワムの半歩後ろに追従する女騎士だ。
こちらもまた、美しい女である。
しかし、例えるならば宝石のごとく輝いて感じられるワムのそれとは、いささか毛色が異なった。
こちらの美しさは、野生を生きる狩猟生物が備えるそれだ。
常に全身へ漂わせる殺気じみた威圧感といい、見ただけで心の弱い者ならば射殺せそうなほど鋭い双眸といい……。
なんとも近づきがたい雰囲気の女であるが、それがかえって魅力として感じられるのである。
だが、最大の相違と言えるのは肌と髪の色……そして短剣のように鋭く尖った長い耳であろう。
――エルフ。
小麦色の肌と銀の髪は、俗にダーク種とも呼ばれる大陸北方のエルフが持つ特徴であった。
「そうだ。分からぬか? ヨナよ」
「ワム様の深きお考えは、私ごとき凡愚にははかりかねます」
「お前ほどの者にそう言われると、あたしも鼻が高いものだな!」
そう言いながら、ワムは自ら辿り着いた先にある部屋の扉を開く。
種々様々な……それでいて機密性の極めて高い資料が乱雑に散らされたここは、この地を統べる総督の執務室である。
部屋の主は――ワムだ。
名門ノイテビルク家との庶子として生まれたこの女は、わずか28歳にしてこれほどの大領を統べる総督位にまで登り詰めているのだった。
椅子は用いず、執務机の上にどかりと腰かけながら、続けてはいったヨナに意地悪そうな視線を向ける。
「雑巾がけというものは、要するに床や壁の汚れを雑巾に押し付ける作業だ。
どうだ? そこを踏まえれば、占領地政策に似ていると思わぬか?」
「獣人たちは雑巾ですか?」
「そうだ。皇国の様々な汚れを引き受けてもらう雑巾だ」
肩をすくめるエルフに、悪びれもせずそう言い放つワムだ。
そして、それまでは愉快そうに歪めていた口元を、次の瞬間にはきりりと引き締めた。
「だが、今度の汚れは到底引き受けきれるものではあるまい……」
「でしょうね」
腹心の言葉にうなずきながら、机の上に散らばった紙の一枚を手に取る。
そこには、本国で今年得られた収穫について事細かく記されていた。
簡潔にその内容を表すならば、
――悲惨。
……の、ひと言である。
今年の大冷害は、北方に覇を唱える超大国にも容赦なく襲いかかったのだ。
「今年の冷害で、本国の農作物も大打撃を受けた。
受けたからには、どうにかしてその補填をせねばならぬのは道理であるが……。
ここを含めた占領地からの収奪でまかなおうとは、父上も老いたものよ」
「ワム様、それは……」
背信にも受け止められかねない言葉を止めようとするヨナであるが、ワムは首を捻ってそれを拒絶した。
「雑巾であれば、取り換えるか水で洗えばよい。
だが、人はそうはいかぬ……。
許容を越えて汚れを押し付けられれば、どうなるか?」
「……爆発する、でしょうね」
「そうとも」
腹心の言葉に、ワムは肩をすくめながら手にした紙を投げ捨てる。
「そもそも、我が国の拡張政策は限界に来ている。
そうとなれば、占領地政策の方針も大胆に転換せねばならなかったのだ。
弾圧し隷属を強いるのではなく、慈しみ発展を促す方向に、な」
「外に向ける相手がいない以上、占領地の不満は内側に向くというわけですか?」
「ああ」
机に座ったまま両手を突き、天井を見上げた。
「これからしばらくは、反乱の鎮圧が続くだろうな……。
まったく、気が滅入る話だ」
「非才の身ながら、力の及ぶ限りお助けしましょう」
「頼むぞ」
そのまま、しばらく沈黙が続き……。
ふと、ヨナが口を開いた。
「ところで、先ほど話した雑巾がけの例えですが、実になるほどと思いました」
「おお、そうか!?」
そして、少しばかり嬉しそうにするワムに、姉代わりであり師でもあるエルフはこう言い放ったのである。
「私も、国が負け服属した結果、ワム様を押し付けられる結果となりましたから」
「むう……」
唇を尖らせる女総督の姿は、一回りほども幼い少女のように思えた。




