アスルと奴隷商 後編
「うん! ぼく、がんばっていっぱいべんきょうする! やくそくするね!
それで、おとうさんだけでなく、アスルさまのこともたすけてあげるね!」
「これ、あまり調子に乗ってはいけません!
それに、アスル陛下にもそんなに馴れ馴れしく……」
「いやいや、奥方。気にされるな。
大志というのは、子供の時にこそ抱くべきもの……。
なかなかどうして、見所のある子ではないか?
それに、態度のことも気にする必要はない。
他に人目があるところでは少しまずいが、ここには俺たちしかいないことだしな」
談話室から響いてきたのは、件の声のみではない……。
愛する妻と、息子の声もであった。
――心臓が止まったような気分。
……とは、まさにこの時のことであろう。
とにもかくにも、テスは大急ぎで談話室の扉を開いたのである。
「あ、おとうさん! おかえりなさい!」
「あなた、お帰りなさいませ」
妻と、その膝に乗せられた息子がいつも通りに迎えの言葉を投げかけてきた。
それはいい……。
問題は、妻たちと向かい合う形でソファに腰かける、一人の青年だ。
既存のあらゆる様式とも異なる、しかし見事な縫製の衣服に身を包み……。
にこやかな笑みを浮かべている黒髪の青年は、間違いない――アスル・ロンバルド!
テスが数日前、辺境伯領一腕の立つ殺し屋に暗殺を依頼した人物が、我が家のソファに腰かけているのだ。
「あ……あ……」
死人を見たような気分で、アスル王を見やる。
何かを、言わねばならなかった。
しかし、いかなる言葉も口をついて出なかったのである。
「おお、テスか。
すまんな。約束の時間には早かったが、押しかけさせてもらっている。
その詫びというわけではないが、我が王都で得られた品々を渡しておいたので、今日はその料理を皆で楽しもう」
そんなテスの心中を、知ってか知らずか……。
いや、間違いなく分かった上でのことであろう。
ともかく、アスル王はすらすらと嘘を並べながらにこやかにそう言い放ったのである。
「ぼく、やきとりのかんづめたべたい!
ねえ、アスルさま! やきとりかん、ある!?」
「焼き鳥の缶詰めか? 確か入れておいたはずだとも!
テス、そういうことだから、家人に命じて開けさせておいてくれ」
「え、ああ……はい」
訳が分からないままに……。
押し切られる形で、全く予定にない会食が開かれる。
息子は終始はしゃぎながら、アスル王と様々な会話を交わしていたが……。
テスは気が気でなく、料理の味など一切分からなかったのであった。
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「ふぅー、食った。食った。
主に加工されてない食材を渡したというのに、なかなか見事に調理したもんだ。
いい腕の料理人を雇ったな? 特に、モヒカンじゃないのがいい」
その後……。
きっちりおかわりまで平らげたアスル王は、テスの書斎で彼と二人きりになりると、どかりと椅子に腰かけながらそう言い放ったのである。
「ええと……その……なんと申し上げたらいいか……」
しどろもどろな態度を変えられないまま、言葉を探す。
彼自ら、約束もなくここへ来た理由はと言えば十中八九、暗殺依頼がばれたにちがいない。
しかし、残り一割に賭けたいのが人情というものであった。
だが、現実は非常である。
「さて……今日ここに押しかけたのは、お前が寄越した暗殺者の件についてだ」
アスル王は笑みを消すと、こともなげにそう言ったのだ。
「ああ、いや……ああの……その……」
「少しはやる奴だったよ……。
難点があるとすれば、本当に少しだったことくらいかな」
歯の根が合わず、言葉にならない言葉を吐き出すテスに、アスル王はすらすらとそんな感想を述べる。
「ちなみにだが、俺が普段、ろくに護衛も付けずブームタウンとかをうろちょろしてるのは、お前みたいなのをあぶり出すためだ。
いちいち探りを入れるのも面倒なんでな。効率的だろ?」
「は、はは……はい」
何をうなずいているのか……。
一瞬、冷静な思考がよぎるものの、だからといってどうすることもできない。
今、自分の生殺与奪は文字通りの意味でこの青年に握られていた。
なんとなれば、この男は辺境伯領一腕の立つ殺し屋を、自力で返り討ちにしたと言っているからである。
その気になれば、次の瞬間には自分の命を奪えるにちがいない。
「とまあ、ボコッた奴の話をしても仕方がなかったな。
お前が興味あるのは、自分の処遇についてだ。そうだろ?」
「…………………………」
もはや、言葉を吐き出すこともできず……。
神妙な面持ちで、次なる言葉を待つ。
「正統ロンバルドの法は、基本的にロンバルド王国のそれに準ずる。
それに照らし合わせると、だ」
アスル王はポケットから一枚の硬貨を取り出すと、それを空中に放り投げた。
そして、それに向けて指をかざす!
すると……おお……いかなる魔術の技か……。
指をかざされた硬貨は、空中で綺麗に四等分され……。
ちゃりん、ちゃりんと書斎の床に落ちたのである。
「まあ、お前さんはこういう結末を迎えることになる」
アスル王はゆっくりと膝を組むと、顔面蒼白となったテスの顔をねめつけた。
「……が、運が良かったな」
しかし、次の瞬間には眼差しへ込められた力を弱めてみせたのである。
「幸い、例の殺し屋を返り討ちにした場面はイヴしか見ていない。
余人が見ていたならば厳重な処断を下さざるを得なかったが、これならば俺の胸に収められる」
それは、実に……実に意外な言葉であった。
アスル王は、自分の暗殺を企てた男を、あえて見逃そうというのだ。
「気を抜くのは早いぞ」
体から力が抜け落ちそうになったテスであるが、そこへすかさず釘を刺される。
「俺がこの決断を下したのは、お前の息子と約束を交わしたからだ。
子とは、親を映し出す鏡……。
俺はあの子を通じて、お前の中にある善性を垣間見た。ゆえに許す。
この調子だと、他にも色々とあくどいことをしているだろう? どうだ?」
「は、はい……」
もはや、嘘を言ったところでどうにもならぬ。
数々の悪事を思い起こしながら、アスル王の言葉にうなずいた。
「それらを全て改め、今後は正しい商いをし、正しい男の背中を自分の息子に見せ、立派に育て上げるのだ。
それをもって、罪の償いとせよ」
「は、ははあ……!」
思わず、その場にひざまずき頭を垂れる。
己よりはるかに年下であるはずの青年が、ひどく巨大で強大な存在に思えた。
ただ圧倒的な実力を有しているからでも、権力や財力、古代文明の技術を有しているからでもない……。
これこそは、まぎれもなく王の風格である。
「まあ、このまませいぜい……仲の良い親子となることだ。
世の中には、それがかなわない人間もいるのだから、な」
アスル王はそう言うと、苦笑いを浮かべてみせた。
その表情は、先ほどまでの風格を感じるものではなく……。
どこか寂しげな……迷い子のごときものだったのである。




