教皇の決断
人生というものは、決断の連続で織りなされる物語であり……。
それを下した先には、必ず選ばなかった道への未練と後悔が残ることとなる……。
この一週間、ホルン教皇を苦しめ続けていたのはまさにそのジレンマであった。
かつての第三王子……アスルが『テレビ』なる飛び道具を用い、自分とつながりがあるとホラを吹く、その真意は分からない。
確かなのは、それに乗っかり、第三王子陣営へ組み込まれる道が示されたということだ。
だが、それは同時に……ロンバルド王家と決定的に対立することを意味する。
なるほど、確かに王権というものを保証しているのは教会であり、自分はその最高権力者だ。
しかしながら、十八代にも渡って脈々と受け継がれてきた王家の権力というものは絶大なものであり……これに真っ向から敵対するなど、通常の神経では考えられぬ愚行である。
だが、ここで第三王子の勧誘を受け入れれば、自分は救国の英雄として確固たる地位を……それこそ、歴代教皇の誰よりもその名を讃えられることになるだろう。
でも、それをすれば王家と対立し、ひいてはこれまで築いてきた全てを失うことに……。
しかし、第三王子の誘いをここで断ってよいのか……。
嗚呼……!
嗚呼……!
ホルンがこの一週間、脳内で幾度となく繰り返してきたのはこのような問答であった。
そして今、夕陽に照らされる執務室の中で……彼は実に晴れ晴れとした、迷いのない顔をしていたのである。
口元には、うっすらと笑みすら浮かんでおり……。
これは一つの決断を下した……というよりは、他に道がないことを悟り、諦観の念を抱いている顔であった。
「……決めたよ」
唯一、ここへ入室を許した腹心たる神官にそう告げる。
「……いかようになさるおつもりです?」
答えなど、分かり切っていようものだが……。
それでもあえてだろう。
神官は、そう問いかけてきた。
「ふ、ふふ……君もこの窓からアレを見ただろう?」
その言葉に、ホルンは笑いながら窓をあごで指し示す。
執務室の窓は、教皇の権威を示すかのごとく透き通ったガラスが使われており……。
余人では到底手が届かないだろう値のそれに遮られた先では、『マミヤ』なる巨大な空中船舶がこちらに――大聖堂に向け、ゆるりと進んでいたのである。
執務机に設置された『テレビ』を、動かすまでもない……。
空そのものを使ったアスル王子の演説はここからでもハッキリと見えたし、その声も一言一句余さず聞こえていたのであった。
「元より、私に選択の余地などなかったということだ」
それだけを告げ、ホルンは執務室の扉に向け歩みを進める。
腹心たる神官は、ただ黙ってその後に続くのであった。
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乗り物であるならば、必ず生じるスキ……。
それを突くべく、外出禁止令が出された王都の中を駆け抜ける。
あらかじめ軍馬の通行も考慮した大通りのみならず、裏道の類も利用して駆け抜ける様はまさしく疾風のごとしであり、並の馬、並の乗り手では到底できるものではない。
迷いなく最短経路を突き進み、上空を進む『マミヤ』に先んじて大聖堂に到着できたのは、王国一と呼ばれる騎士の面目躍如であった。
「これは何事だ!?」
しかし、そのようにしてようやく到着した第二王子ケイラーが見たものは、大聖堂を囲うように布陣する騎士団と、教会の聖職者たちが睨み合う様だったのである。
「ケイラー殿下!?」
「殿下が到着されたぞ!」
「道を開けろ!」
ケイラーに気づいた騎士たちが道を開け、彼の愛馬が通るに足るだけの間隔を作り出す。
その中を通り、大聖堂の門前へたどり着くと……そこでは、この場を預からせた熟練の騎士と、先日枢機卿の任に就いたワシのごとき老爺……ロイルが言い合っていたのである。
「だから、教皇猊下を守るためであると――あ、殿下!?」
彼ほどの男が、実際に姿を見るまでケイラーの気配に気づかなかったのは、それだけ興奮していたからにちがいない。
慌てて姿勢を正す熟練騎士にうなずきかけながら、ケイラーは愛馬からひらりと飛び降りた。
「これは一体、どうしたことですかな?」
神官たちを引き連れ、大聖堂の門前でこれを塞ぐロイル枢機卿にそうたずねる。
「どうもこうもありませぬ……。
教会の権力は、神聖にして不可侵なもの……。
武装した騎士たちが大挙してなだれ込む不作法を、許すわけにはいかぬと申したまで」
自分で言うのはおこがましいが……。
ケイラーほどの騎士を前にして、ひょうひょうとそう言い張るのは見上げた胆力だ。
少々の感心を覚えながら、王国一の騎士は威圧するように両腕を組んでみせた。
「しかしながら、上空に浮かぶアレ……。
『マミヤ』の姿が見えぬあなた方でもないでしょう」
ゆるり……。
ゆるり、と……。
まるで小川に放たれた草船のような速度でこちらに向かう『マミヤ』を見やりながら、そう問いかける。
釣られて枢機卿も上空の『マミヤ』をちらりと見たが、その表情が変わることはなかった。
「いかにも、しっかと見えておりますとも。
しかし、それがなんの問題が?
あなたの弟君は、教会に対しなんらの害意も示しておりませぬ」
弟、という言葉を強調するようにしながら、抜け抜けとそう言い放つ枢機卿だ。
それに含むところを感じたケイラーは、瞬間的に沸騰しそうになる感情を抑制しながらこう答えたのである。
「我が父……国王陛下は、アスルめに対して捕縛の命を出しております。
これに協力されるのが、教会の歩むべき正道では?
仮にも血がつながった者の始末をつけるべく、外からここまで駆け抜けてきた私と、部下たちの労を考慮して頂きたい」
王都を囲う大城壁の布陣から追従してきた騎士たちが到着したのは、ちょうどその時だ。
いかな精鋭たちと言えど、大騎士ケイラーの手綱さばきについて来れるものではなく……。
それでも健気に馬を駆けさせ、ようやく到着した彼らの姿からは深い疲労が見て取れた。
「それは、そちらの都合というもの……。
王家内部のいざこざに対し、教会を巻き込むというのがロンバルド王家の歩む正道なのですかな?」
これを言われては、返す言葉のないケイラーだ。
確かに、アスルと自分たちの対立は王家内部で発生した争いに過ぎぬ。
これの決着をつける場として、神聖なる大聖堂を用いることは許さぬと言われれば逆らえる道理はないのである。
しかし、今が千載一遇の好機であることは事実……。
「しかしですな――」
なおも食い下がろうとするケイラーであったが、それをさえぎったのは大聖堂から駆け寄ってきた一人の神官であった。
おそらく使い走りであろう……彼が耳打ちすると、枢機卿は深くうなずいてこう宣言したのである。
「たった今、教皇猊下が第三王子を迎え入れる決断をなされました。
どうか、お引き取りを願いたい」
第三王子、という言葉をことさらに強調したその言葉は、教会側がアスルの王位継承権をいまだ認めていると宣言したに等しい。
「……よろしい。
しかし、治安維持の観点から、大聖堂周辺は我が配下にて引き続き固めさせていただく」
ケイラーとしては、神聖なる教会権力に力で押し通るわけにもいかず……。
苦々しい表情を浮かべながら、そう告げるのが精一杯だったのである。




