太陽のヘリオス〈下〉
◇
「西荻先輩?」
ケイは再び名前を呼ばれて、ようやく我に返る。
知られていた。その事実が予想外過ぎて、呆気に取られてしまった。
スイムは、突然棒立ちになった男を前に平然としている。気味悪がることも、訝しむこともなく、静かにこちらの反応を待っていた。
ケイは顔を逸らしたり、首に手をかけたりと、落ち着かない様子で答える。
「あっいや、よく知ってるね。俺の名前なんか」
「西荻ケイ。六年も同じ場所に通ってたんですから、普通じゃないですか?」
「さ、左様ですか」
「先輩こそ、私のこと知ってたんですね。後輩女子なんて眼中にないのかと」
「青山さんは上位に食い込む選手だったし、表彰台に乗ってんのとか見てたから」
「見て、たんですか?」
「みっ、見てたけど?」
ケイがそう答えると、スイムは意外そうな表情を浮かべる。
ケイはよくわからずに首を傾げた。
意外に思われるようなことは言ってない。ケイはスイムを直視できず、背後で移ろう車窓の景色を見ながら言った。
「どっちかってと、やっぱり俺の名前の方が、覚える機会なかったと思うけど。ほら、俺って選手コースでもなかったし、表彰台とか無縁だったじゃん。同い年の人らでも、俺のこと覚えてないの多いと思うよ」
「先輩、知らないんですね」
スイムはちょっと呆れたように笑う。嫌味のない笑いだ。
というか、初めて知った。
スイムは、笑うと年相応に可愛いらしい。
「先輩は後輩女子の間じゃ、そこそこ有名でした」
「はっ? えっ、なんで?」
ケイは今度こそ何かの冗談だと思った。
悪目立ちした覚えがない。
いい意味で目立った覚えはもっとない。
けれど、スイムはケイの忘れた過去を口にした。
「うちのスクールにいた、高尾アキトって人のこと覚えてないですか?」
「高尾っていうと、俺の一つ上にいたあれか」
「はい、あの人です」
スイムの使う「あの人」には、好意的でないニュアンスがあった。
ケイもそれに同意する。
率直に言って、あまりいい先輩ではなかった。
タイムのいい選手や上級生には媚びるが、自分よりタイムの悪い選手を殊更に見下す。後輩に威張り散らし、プールサイドで肩をぶつけたりする。大人の前ではボロを出さず、裏でこそこそ脅しつける手合い。悪ガキだった。
あの人のせいで辞めた子も結構いた気がする。
つまりはまぁ、嫌な上級生の典型みたいな人だ。
「あの人が小六の時なんて最悪で、上がいないからってやりたい放題で。下の子みんなビクついてましたし、私もスイミング嫌いになりかけました」
「確かにね。嫌な空気だった」
「でも、西荻先輩はずっと言い返してたじゃないですか」
「そうだっけ」
ケイは空とぼけながら、けれど、思い出していた。
小学五年生。
眩暈がするほど昔の自分。
あのときの自分は、高尾の言動が許せなかった。青臭い正義感から何度も食ってかかり、その裏で何度も泣かされたっけ。着替えのパンツを隠されたりとか。
思い出したくもない、情けない、嫌な記憶だ。
けれど、スイムはその過去に違う価値をつけているらしかった。
「あの人。先輩に言われ続けて、ついにコーチたちの前でも手を出して」
「覚えてる。股間蹴られて惨めに蹲った、俺が」
「でも、その一件からコーチたちも本格的に動くようになって」
「どうなったんだっけ?」
「結局辞めたりしなかったですけど、嫌がらせはなくなりました。コーチたちが目を光らせてましたから。中学生になったあの人は、部活のためにクラブを卒業」
「一年耐えてりゃよかったのに。蹴られ損だ」
ケイはそう自嘲する。若気の至りだ。
適当に目立たないようにしてれば、あんな目に遭わなかった。
あまりに幼い、思慮の浅い子供。
今のケイなら、間違っていたと評価する。
スイムが言った。
「それでも、私が泳ぎ続けられたのは、先輩のおかげでした」
あの最悪な空気が続いていたなら、きっと辞めていたと。
「だから私の周り、結構みんな覚えてます。先輩のこと」
スイムはそう言った切り、いつもより少しだけ優しい眼差しでケイを見ていた。
ケイは耳まで赤い顔を伏せ、手で顔を覆っていた。恥ずかしかった。
過去の愚かな行い――その遅すぎた報酬が。
今の自分とは違い過ぎる、かつての自分に贈られた称賛が。
電車のドアが開く。
「それじゃあ、先輩。また」
スイムがホームに降りる。ドアが閉まる。
ケイが顔を上げると、階段に向かう彼女の後ろ姿だけが見えた。
電車が走り出す。
ケイのポケットが震えた。
スマホのバイブレーション。
現実に引き戻される感覚。
ケイは会話の余韻が残る顔を押さえて、スマホを取り出した。
画面に表示されているのは、タルタロスの通知だ。メッセージが届いている。差出人の名前を確かめてケイは表情を失くした。
差出人は、ブロックしたはずの「Helios」だった。
ニュースサイトからの引用。
見出しは『不気味に続く炎上後の死亡事故』。
線路に落ちたサラリーマン。酸鼻な末路。
数日前、スイムが割って入った、あのときのサラリーマンだった。
ベビーカー連れの女性に絡んだ、あの男性が死んだ。
脳を掠めるイメージ。焼かれた白い骨。
『いいこと?』
添えられたメッセージは、それだけだった。
◇
その夜、ケイはタルタロスを見なかった。
電気を消し、ベッドで横になると、いくつかのイメージが浮かぶ。
会社の誤りを告発した父。焼かれた白い骨。スイムが思い出させた昔の自分。父の骨を拾う前の、古い自分。サラリーマンを見過ごした自分。今の自分。立ち上がったスイム。
炎上と引用記事。
焼かれて死んだ――中学生とサラリーマン。
不慮の事故――本当に?
ケイに付きまとう、謎の捨てアカ――「Helios」。
あのアカウントに取り上げられた相手が、次々に死んでいく。
ケイは自分でもバカバカしいと思うその妄想を拭い去れずにいた。
それでも結局は、画面の向こう側の出来事。
いつもなら、そう割り切れた。
しかし今日、ケイは自分に聞かせ続けたその言い訳を破った。
スイムに声をかけてしまった。
『私が泳ぎ続けられたのは、先輩のおかげでした』
スイムの言葉を思い出し、肺の空気が重くなる。
今の自分と昔の自分。
正しかったのはどちらだ。
白い骨と、彼女の言葉を思い、ケイはいつの間にか眠りに落ちていた。
◇
それから数日、ケイはタルタロスを見ない生活を送った。
あの後も「Helios」から数通のメッセージが届いていたが、目は通していない。
スマホから顔を上げて、久しぶりに画面の外を眺めた。
視界に映ったのは、ケイが投げ出したクラスの人間関係、駅を利用する様々な人たち、路地裏を駆ける猫。それらはケイの思考からあの不気味な影を遠ざけた。
タルタロスという奈落に住む、他人の罪を回覧させる亡霊だ。ギリシャ語で太陽を意味し、空の上からすべてを見通す神様の名前。
それが「Helios」だった。
大仰なハンドルネーム。
「最近、ケータイ見てないんだって?」
ケイが食堂でひとり醤油ラーメンを啜っているときのことだ。
アニメキャラばりのツインテールを決めた女子生徒がそう言った。
高校二年生でその髪型はアニメ以外だとあまり見かけない。ただ、彼女の場合は半分くらい仕事のためかも知れなかった。
現役女子高生かつ声優の、中野マイコにとっては。
ケイは醤油ラーメンを啜りながら、疎遠になりつつある幼馴染に答えた。
「見たまんまだ。それよりいいの、イメージ戦略上マズいんじゃなかった」
「すぐ行くわよ。見たところ、アンタはボケたまんまみたいだし」
マイコはそっぽ向き、口を尖らせてこぼした。
演技じみたしぐさ。
けれど、不機嫌なのは本当だ。
ここ数年、ケイの前ではずっと。ケイの何かが不満らしい。けれど、何が不満かは指摘してこない。それは卑怯じゃないかと、ケイは感じている。
だから、お互い疎遠になりつつあった。
マイコは顔を逸らした先で、何かを見つけた。「あの子も大変ね」と呟く。
「あの子?」
「何てったっけ。ああ、人魚姫だっけ?」
「スイムがどうかした?」
ケイは、マイコの視線を辿る。スイムがひとりで食事している。
ケイは最初、何が問題なのか気づかない。
ケイにとっては当たり前の光景だからだ。ひとり飯。
「……スイムが、ひとりだ」
ようやく気付いたケイに、マイコが「ん」と自分のスマホを突き付けた。
ケイは箸を置き、マイコのスマホを覗き込む。
タルタロスの、一つの投稿が表示されている。炎上している投稿。
批判の対象はスイムだった。「やりすぎ」、「偽善者のガキ」、「人殺し」だとか、彼女に向けられた罵詈雑言。スイムに向けられた誹謗中傷。
「――はっ?」
ケイの口から、理解不能を示す言葉がこぼれた。
どうしてこうなったのか、流れが読めない。文脈が見えない。
「アンタ、ホントに全然見てないんだ」
マイコが意外そうに、こうなった経緯を教えてくれた。
「サラリーマンが死んだの知ってる? 駅のホームで飛び降り。たぶん自殺」
「ああ、それは見た。赤ん坊連れに絡んでた人だろ」
「そうそう。それじゃ、あの子とサラリーマンの動画も見てんのね。んで、あの動画を撮ったのが、同じ車両に居合わせたお姫様のお友達だったみたいでさ」
「つまり、スイムたちが晒しものにしたから、おっさんが死んだって?」
「まぁ、そういう流れ。『友達と結託して晒すなんて悪質だ』とか」
「経緯がわかっても理解できねぇ。そもそも、あの場には俺も居合わせたけど、スイムは撮影とか頼んでなかったし。完全にとばっちりじゃん……」
「私に言わないでよ。言ってるのは、画面の向こうの『無責任な人たち』だし」
マイコはそう答えて、スマホをしまう。
マイコなら、こんな炎上もある程度は割り切れるのかも知れない。人気商売である以上、無責任な好悪の感想に晒されるのは避けられない。気分次第で持ち上げて、勝手に幻滅してこき下ろす。そういうことはある。
けれど、スイムはそうじゃない。
困っている誰かのために動いたスイム。
あれは正しかったはずだ。
だけど、あの善行の見返りがこれなのか。
ケイは顔を上げる。ひとりで食事を終えるスイムを見る。
友人が側にいないのは、その炎上が原因なのか。スイムの表情は、一見普段通りに見える。大人びた無表情。けれど、ケイは笑った顔を覚えている。スイムが年相応の女の子だと知っている。表彰台の上のマネキンでも、画面の向こうのフィクションでもない。
『いいこと?』
そのとき、ケイの脳裏に不吉な言葉が過ぎった。
その言葉の一つで、嫌な考えが、噛み合った歯車のように巡り始める。
炎上とその後に続く不審な事故死。
事故死の前に届く謎のアカウントからのメッセージ。
ここ最近の分は、まだ目を通していない。
そして、スイムの炎上は、ケイがタルタロスを見なくなった後のことだ。
「ふざけんなよ……」
ケイはスマホを取り出す。
タルタロスに届いたメッセージを流し読んでいく。炎上している動画とニュース記事の引用が続く。あってくれるなと思いながら、画面をスワイプする。
「ちょっ、突然どうしたのよ?」
マイコは、ケイの剣幕に戸惑った表情を浮かべる。
ケイは戸惑うマイコを無視して、メッセージを確認していく。
そして、スマホをテーブルに伏せて、片手で顔を覆った。
嫌な予感――あくまでケイの想像の域を出ない。現実的な考え方をすれば、否定できるような代物。けれど、ケイには手で触れられる物体のように、確かなものとして感じられた。
『いいこと?』
メッセージはすでにあった。
スイムの炎上が引用された、「Helios」から予告が。
◇
ケイは午後一番の授業をさぼった。
人目につかない屋上で、溜まっていた「Helios」のメッセージを読む。炎上の引用と、その後に送られる死亡記事。
まるで「次にこいつが死ぬ」といわんばかりに。
ケイは、無視し続けた「Helios」に返事を送った。
『何が目的だ。これ以上、変な予告を続けるなら警察に届けるぞ』
それに対する「Helios」の返答はなかった。
代わりに届いたのはいつもの一言だ。
『いいこと?』
そして、いつものように引用がある。タルタロス内にいる他アカウントの発言。引用元のアカウントに飛ぶ。そこでは二択のアンケートを取っていた。
選択肢は「有罪」と「無罪」。
話をずらされたケイは、苛立ちながら引用元の投稿に目を通す。
よく見ると、引用されたアカウントでは、同じ選択肢のアンケートが続いていた。問われるのは「有罪」と「無罪」。選択肢と同時に動画が添付されている。
「何だ、こいつ……」
どれも炎上に至った動画。
どれも見覚えのある顔。
アンケートの対象は、「Helios」に取り上げられた炎上動画だ。
しかし、違う点もある。
この引用元アカウント「Hopkins」で「無罪多数」とされた動画のいくつかは、ケイには見覚えがなかった。「Helios」が取り上げなかったからだ。
「違うって言いたいのか。このアンケートの結果が、連続する事故死だとでも」
ケイがその結論に至るのを待っていたかのように、新しいメッセージが届いた。
『いいこと?』
初めて引用のない発言。
何を問われているのか、不明な問いかけ。
ケイは眉をひそめる。そのとき突然、「カシャ」とスマホのカメラが鳴った。ケイは操作していない。背骨を寒気が駆け上がり、ケイは喉を鳴らした。
自分のスマホを注視する。
強張ったケイの顔が、あのメッセージと一緒に映っていた。
問われていたのは、西荻ケイだった。
ずっと問われていた。「お前は見過ごすのか?」と問われ続けていた。
『ケイ。父さんはどこかで間違えてしまったのか?』
繰り返される問いに、あの日の父の言葉が重なった。
父は告発者だった。
そしてたぶん、敗者だった。
ケイは荒い呼吸を繰り返す。馬鹿げた妄想だと、自分に言い聞かせる。そして、ゆっくりとスマホの電源を落とした。不調なパソコンを再起動するように。悪い夢なら覚めてくれと、そう祈るように。そして、ケイはまた答えなかった。
◇
その日の放課後、ケイは学校の最寄り駅でスイムを見かけた。
ケイは駅前の横断歩道で信号待ちをしている。
見えているのは、改札へ向かうスイムの後ろ姿。
そして、彼女の背後に聳え立つ、影のように張り付く大男。
三メートルくらいありそうな身長は、人間のものとは思えなかった。法服のような黒い服を着た大男は、そこだけ白黒テレビのように色を失くしている。肌は黒というより灰色で、精緻な油粘土が歩いているようにも見えた。
明らかな異形。
バケモノ。
ケイは目を泳がせる。駅前を行き交う、雑多な人々。誰か気づいてくれと思いながら、ケイは通行人のサラリーマンを、学生を、主婦を見る。けれど、誰もバケモノなんていないみたいに自分のスマホを眺めていた。
視界に入れば、一度は必ず振り返るだろう異形だ。
それがまるで見えていない。
信号は赤のままだ。
ケイは改札を見る。スイムが定期を改札にかざした。ゲートが開く。彼女が改札を通り過ぎる。その背後に立つバケモノは、切符も、カードも、使用しなかった。けれど、バケモノは改札を通った。ゲートは反応しない。駅員が呼び止める様子もない。
「――もう時間がないぞ」
ケイの耳元で誰かが囁いた。慌てて周囲を見渡す。食い入るような視線を送られた通行人たちが、怪訝な顔をしてケイから距離を取った。ケイは正面を向き直る。
信号が青になっている。
ケイは横断歩道に足を踏み出す。足が重い。まるで水の中を歩いているようだ。時間の流れまで粘度を増したように感じる。スロー再生のような駅構内の映像。
心臓の鼓動がうるさい。
バケモノの背中が、ホームに続く階段を下りていく。
ケイは定期を取り出す。高速化する思考は、タイムラインを埋めるアンケートの羅列を思い出している。
炎上のたびに繰り返される、「有罪」と「無罪」の多数決。
スイムのアンケート結果は、まだ出ていなかった。
あれの集計が終わるのは、何時だったか。
ケイは改札を抜けて走り出す。
いくつもの死亡記事が、初めて現実味を帯びた。
画面の向こう側のフィクションが、現実の世界の出来事だったと今さらになって実感する。自分の見ていたものが、誰かの不幸で、誰かに降りかかった災難だったと、とっくに知っていたはずのことを思い出した。ケイはその残酷さをずっと昔に味わったはずだった。
ケイは忘れようとしていた。
自分は関係ないと、切り離し、手を伸ばすことを放棄した。
影響を与えない。影響を受けない。
そのために築いた、画面一枚の殻。
わかり合えないという諦念。
騒ぐ側になりたくないという自意識。
選んだのは、傍観者という生き方だ。正しい学習の結果だ。
「――じゃあ、全部諦めるか?」
幻聴に急かされるように、ケイは階段を駆け下りる。
スイムがホーム際に立っている。電車を待つスイム。
その背後に立つ、黒い法服の大男。
ケイはスイムに近づいて声をかけようとして、膝が震えた。
声が出ない。
自分の妄想かもしれない。ただのノイローゼだ。何も起きないかもしれない。こんなアニメみたいなことが、現実なわけがない。あのバケモノに気づかれたくない。他の誰も気づいてないのだから、気づかない振りしたっていいじゃないか。自分のせいじゃない――動かなくてもいい理由が、瞬時に脳を埋めた。
「二番線に電車が通過します。黄色い線の――」
構内放送が流れる。
快速電車が近づいている。
ケイは知っている。
『ケイ。父さんはどこかで間違えてしまったのか?』
焼かれた父の骨の白さを。
けれど、それでも。
ケイは知った。
『私が泳ぎ続けられたのは、先輩のおかげでした』
自分が、守ったのかも知れないものを。
一つの行動が、その裏で誰かを救っている可能性を。
だからきっと、父のあの告発は、見知らぬ誰かを守ったのだと。
今のケイは知っている。
だから、声を振り絞った。
「――スイムッ!」
スイムが振り返った。
同時にスイムの体が傾ぐ。
背後に立つバケモノが、スイムの背中を突き飛ばした。
スイムの体が、黄色い線を越えて中空に投げ出される。
快速電車がホームに滑り込む。
ケイが手を伸ばしても届かない距離。
スイムの体が、死のレール上に浮かぶ。
脳裏に浮かぶ白い骨。焼かれた人々の骨。
時間が、寸刻みで進む。
低速化する時間が、ついに停止したと思うほどの瞬間。
「――最後だ」
ケイは耳元で声を聴く。振り返る暇はない。
身じろぎすれば、再始動した時間の流れが、無常に少女を轢き殺す。
ケイはぴったりと背後に立つ存在を感じた。
頬を焦がすような熱気と、その声だけが、今のケイにわかるもの。
否、ケイは知っていた。
「これは、いいことか?」
その声の主を。繰り返す、告発者の名前を。
それは、ギリシャ語で太陽を意味する。神々の不貞を暴いたもの。
ケイは思う。こんな結末は「間違ってる」
それは音になる前の告発。未発の言葉。
けれど、確かに聞き届けられた。
「いつの時代も、名前こそが契約の証だ――呼べ」
論理的な思考を挟む時間はなかった。
それは予感であり、直観だ。
あらゆる理屈を飛び越えて答えに至る力だ。
現代に残された最後の魔法。
ケイは背後に立つ、ソレの名を叫んだ。
「頼む――ヘリオスッ!」
スイムと快速電車が悲劇的な接触を果たす寸前。
ケイの隣を一陣の熱風が馳せた。
スイムの転落を見ていた電車待ちの利用客から悲鳴が上がる。
ケイは見ていた。
誰もが女子生徒の死を覚悟した瞬間、彼女を抱えて対岸のホームまで連れ去った赤い旋風を。それは有機物と無機物を組み合わせた姿をしていた。
全体的なイメージは赤色だ。
鳥類のような頭部。両腕はジェット機のそれに似た機械の翼。そして、二本足で立つ姿は人間の姿に近かった。鳥と人間と機械を混ぜ合わせたような異形。対岸のホームに立つ、ケイにだけ見える存在。それは電車の窓ガラス越しにケイを見返している。
ヘリオス。
タルタロスの底から、ケイを見つめ続けた告発者。
ケイは騒然とする利用客の中、ホームに立ち尽くすもう一方の怪物を振り返る。
ホプキンス。
魔女狩り将軍の名を持つ、多数決で事故死を起こす悪魔。
黒衣の法服を着たホプキンスが、ケイを凝視していた。刑の執行を阻んだケイを血走った目で睨みつけ、歯を剥き出しにして怒りを表明している。そして、次の瞬間には煙のように掻き消えた。初めから何もいなかったかのように。
ケイは正面に向き直る。
スイムが対岸のホームでへたり込んでいる。
ヘリオスの姿は見えない。だが、背後に気配があった。
「いいことだったか?」
他の利用客には聞こえない声。
ケイは血走った悪魔の目を思う。バケモノに目をつけられた。
正しいことの代償。それで焼き殺されることすらある。
父の最後の問いを思い出す。
送り出したあの日、返すことのできなかった言葉。
「間違ってなんか、なかったよ」
ケイは三年越しのそれで背後の悪魔に答えた。