太陽のヘリオス〈上〉
◇
就寝前、西荻ケイはベッドでスマホを眺めていた。
タイムラインに流れる呟きは、与太話、スキャンダル、あの手この手のミーム、形骸化した論争、つまりはいつも通りのアカウント群。消灯してから眠りに落ちるまでの間、タルタロス内の発言をチェックする。それがケイの習慣だった。
タルタロスは、140字の短いテキストを投稿するスマホ・アプリだ。
元々はその名前が示す通り、インターネットの奈落――ギークたちの溜まり場として作られたものだが、今ではケイのような一般の高校生にまで普及していた。
ユーザー層の拡大に合わせて増加したのが炎上だ。
コミュニティが大きくなると、社会規範から逸脱した人々も現れる。
タルタロスでは、彼らの問題行動はすぐさま拡散されて、義憤に駆られた人々が血の臭いを嗅ぎ取ったピラニアのごとく押し寄せた。一人一人の義憤は蝋燭程度でも、押し寄せるその数は時に三桁から四桁にも上る。結果、いつもどこかで誰かが燃えていた。
タルタロスの通知欄が点灯した。
ケイが確認すると、メッセージが届いている。
内容は「いいこと?」という短い一文と、誰かの投稿の引用。
引用元に飛ぶと、一本の動画が景気よく炎上していた。投稿者は中学生で、男性教師をからかう内容の動画だ。授業妨害の現場と、教師を嘲笑する様子が撮影されている。
「いいわけ、ないけど……」
ケイは質問の内容より、その意図に疑問を持った。
相手のアカウントを確認する。
質問者の名前は「Helios」。
フォローもフォロワーもゼロ。
過去の投稿歴もなし。
おそらく使い捨てのアカウント。捨てアカだ。
ケイはタルタロス内で交流するタイプではなかった。フォロワーも二桁程度で、自分から投稿することも稀だ。つまり、捨てアカに絡まれる理由がない。
『悪いことだと思います』
ケイは無難なメッセージを返した。
これでおかしな絡まれ方をしたら、即座にブロックするつもりだった。
返事をして三分ほどで新たにメッセージが届いた。文面は同じ「いいこと?」だけ。またしても引用が添えてあり、引用元では件の炎上動画に対する遺憾の意が表明されていた。
「…………」
ケイはしばらく考える。悪事に憤る、その反応自体は正しいと思う。
『いいことだと思います』
ケイはそう答えた。会話を続ければ、相手の意図もわかるかも知れない。
また三分ほど経った。「Helios」からさらにメッセージが届く。文面は「いいこと?」。今度も引用があったが、今回はタルタロス内の投稿ではなかった。
古いニュースサイトからの引用だ。
三年前に起きた、とある企業の内部告発に関する記事。
ケイは考え込むように画面を見つめた。
社会的にはとっくに風化した事件だ。一時だけ騒がれて、消費された物語。けれど、ケイにとっては忘れがたい事件だ。内部告発を行ったのが、今は亡きケイの父親だったから。
『誰ですか?』
ケイは質問を返した。
ケイのアカウント名は、本名とは別にしてある。友人にも教えていない。けれど、相手はケイのことを知った上で近づいて来た。一方的にこちらだけ知られているのは不気味だ。
だから、ケイは尋ねた。
しかし、ケイが眠りに落ちるまで「Helios」から返答はなかった。
◇
朝になっても「Helios」から返事はなかった。
ケイは高校の制服に着替えて最寄りの駅に向かう。
都内の高校までは、電車で通学していた。
最寄り駅近くの桜並木はおよそ葉桜に変わり、通りを吹く風も暖かさを増している。ケイの羽織るブレザーもそろそろ不要になりそうだった。
定期を改札にかざして駅ホームに立つ。
電車が来る。
通勤時間帯の車内はそれなりに混んでいる。満員ではないが、隣に立つ人と肩がぶつかりそうなくらいには。乗車口の近くにベビーカー連れの女性がいた。肩身が狭そうだ。
ケイはベビーカー連れの女性を避けて電車の中程に立つ。
車内の端寄りの席に、見知った人物を見つけた。
同じ高校の制服を着た、ショートヘアーの女子生徒だ。すらりと伸びた手足は白く、けれど筋肉質でよく鍛えられている。遠くを見つめる三白眼と、きつく結ばれた薄い唇は、彼女を美しく見せたが、同時に近寄り難くもしていた。一学年下の後輩だ。
青山スイム。
知り合いというより、ケイが一方的に知っているだけだ。
ケイと彼女は、同じスイミング・スクールに通っていた時期があった。
けれど、スイムは選手コースにいた。ケイはそうではなかった。
今も昔も、住む世界の違う相手だ。
表彰台に立つ彼女を一方的に見た。それだけ。言葉を交わしたことはない。まぁ、人魚姫と呼ばれるほど無口で評判のスイムだ。声を聞ける男子の方が珍しい。
電車が走り出す。
目的の駅は三つ先。ケイの通う円城高校がある。
電車が止まる。
一つ目の停車駅。
通勤客の多い駅だから、車内はさらに混雑してきた。そのせいか、乗車口近くのベビーカーから泣き声が聞こえ始めた。目を覚ました赤ん坊が、力強く不快を訴えている。母親の女性は針のむしろに違いない。子供をあやすためか、女性はベビーカーに手を伸ばした。
「――何を考えてるんだッ」
怒声が上がった。
女性の側に立つ壮年の男性だ。
「通勤時間帯に、邪魔になるに決まってるだろッ。そんなこともわからんのかッ」
恰幅のいい、パリッとしたスーツの男性が、そうまくし立てる。
男性の主張はわからないでもないが、女性はずっと申し訳なさそうにしていた。事情があるのではないかと、高校生のケイですら推察は可能だ。
タルタロスで炎上するタイプの人種。
ケイは男性をそう評価した。
男性は「早く泣き止ませろ」、「ベビーカーをたため」、「聞いているのか」と続けざまに怒声をぶつける。女性は「すみません」と謝罪することに必死で、子供をあやせない。
(この調子だと、あの女性は次の駅で降りるな……)
そう思いながら、ケイは他人事のように眺めていた。
どんな現実も、ケイにとってはタルタロスに流れる炎上と同じだ。
つまりは対岸の火事。
一枚の画面がすべてをフィクションに変えてしまうように、他人事というフィルターはすべての現実をフィクションに変える。一時だけ騒ぎ、消費される娯楽に。
けれど、彼女は違った。
青山スイムは、今も昔も――。
スイムは無言で立ち上がると、乗客を掻き分けて女性と男性の間に立った。
そして、どちらを非難するでも、擁護するでもなく、ドア付近に貼られている広告を見つめる。あたかもその広告を見ることが目的だったかのように。
男性客は呆気に取られて口を閉じ、女性はその隙に子供を抱き上げてあやし始めた。空いた座席近くにいた乗客たちが一つずつ詰めると、女性のために一番端の席が開けられる。女性が席に着き、近くにいた乗客がベビーカーをたたんだ。
気づくと、疎らな拍手が起きている。
次の駅に着いたとき、降りることになったのは男性客の方だ。
ケイは最後までその光景の傍観者だった。
乗車口に立つスイムが、ふとケイの方を振り返る。ケイを見ているわけではなかった。興味のない広告から視線を外しただけのこと。それでもケイは素知らぬ風に顔を逸らした。万が一にも、視線が合ってしまわないように。
◇
『いいこと?』
昼休みの食堂で、ケイは四度目のメッセージを受け取った。
醤油ラーメンを啜りながら、左手のスマホに視線を落とす。「Helios」からのメッセージにはやはり引用があった。タルタロス内からの引用だ。引用元には動画が投稿されている。
一人の女子高生が、電車内の諍いを止める動画だ。
映っているのは、青山スイム。
つまり、今朝の電車での光景だった。あの場にいた誰かが録画して投稿したらしい。引用元の投稿は多くの人に拡散されていた。共有された回数は四桁に届こうとしている。
動画を見て、改めて思う。
あのときのスイムは、確かにカッコよかった。
それはきっと――『いいことだ』。
ケイはそう返事を出してラーメンを啜る。
ケイは一人で食事をしていたが、それを苦にしない性格だった。
現実もタルタロスと同じ、それがケイの認識だ。
現実にもタルタロスにもたくさんの人がいる。でも、悪い人というのはそう多くない。彼らは目立つだけで、実のところ少数派だ。大多数の人は善良で正義が好きだ。ちょっと困るのは同時に正義を行使したいとも思っていることだ。木の棒を持った子供と同じ。
正義の火で焼くべき獲物を探している。
けれど、悪人は希少だ。希少な悪人に正義が殺到し、炎上は生まれる。もっと言えば、悪役を求めて他人の粗探しまで起きる。気づくと、つまらないことで人が焼かれる。
現実もタルタロスも、今も昔も変わらない。
下手に関わると、ろくなことがない。
青山スイムは「いいこと」をした。あれはきっと正しい行いだった。
でも、彼女にとっても「いいこと」であるとは限らない。
少なくとも、ケイはそう思う。
何もかも他人事でいい。触らぬ神に、だ。
すぐ近くの席で賑やかな笑い声が上がった。
ケイはスマホから視線を上げて、声の方を確認する。あの顔ぶれは今年の一年生だろう。入学から一ヶ月が経ち、食堂に通う顔ぶれもだいぶ固定されてきた。
ケイは笑い声の中心にスイムを見つけた。動画の件で友人に茶化されているらしく、どこか表情に困った顔をしている。控えめに言って、迷惑そうな感じだ。
善行の見返りがあれだと思うと、報われない。
ケイは賑やかな食事の側で手早くラーメンを片付けた。
食器を返却口に置き、足早に食堂を後にする。
教室に戻る途中でまた「Helios」からメッセージが届いた。ケイは廊下を歩きながらそれを読む。
「お~い、廊下でケータイを使うなよ~」
生徒指導の教師に注意されて、ケイは静かにスマホをしまった。
けれど、内容確認は終わっている。
廊下を歩きながら、ケイは「Helios」に不気味なものを感じ始めていた。メッセージの文面は今回も同じだ。そして、引用もあった。
今回の引用元は、タルタロス外のネット記事だ。
転落死を告げるニュース。未成年者なのに顔写真と名前が掲載されていた。そして、ケイはその顔に見覚えがあった。会ったことはない。でも、昨夜見た顔だ。「Helios」が引用して送りつけてきた、炎上動画に映っていた中学生。亡くなったのは彼だ。
昨夜、ケイが『悪いことだと思います』と評した相手。
『いいこと?』
添えられた一文がそう尋ねている。
ケイはしばらく考えた後、「Helios」のアカウントをブロックした。
ブロックしたアカウントからは、ケイのアカウントに接触できない。「Helios」がどんな意図を持っていたとしても関係ない。これで終わり。そのはずだった。
◇
その日の――「Helios」をブロックした日の夜。
ケイはいつも通り、就寝前にタルタロスを開いていた。
数多の他人事が、燃える人々が、画面一枚を隔てて流れる。世界の縮図を手に掴み、眺められる機器は、ケイに現実を俯瞰するかのような錯覚を与えた。
太陽の視界。
不遜な監視者の眼。
その視界の片隅に、昼休みに見たスイムの動画が現れる。
あれからさらに拡散されて、ケイのタイムラインにも流れて来たようだ。
『いいこと?』
繰り返された問いが、自然とケイの思考を過る。
悪事を白日の下に晒し、正すこと。
ケイはそれを「正しいこと」だと思いたい。
だから、「Helios」にもそう答えた。
だが、ケイは知っている。
正しさが、良い結果に繋がらないことを。
正しいだけの行いが、正しい選択でない事例を。
正しいだけの決断が、大勢を不幸にした事件を。
父の最期を。
『いいこと?』
昨夜の最後の問い。
父の行った内部告発は、西荻家を不幸にした。
告発内容は「勤め先であるアプリ開発会社が、利用者の個人情報を不正に抜き出し、取引先に販売していた」というものだ。問題はその取引先が、ベンチャー企業として急成長を遂げていた「アイオーン株式会社」だったこと。
他に大きな事件のない時期だった。父の告発はセンセーショナルな話題となり、マスコミに連日取り上げられた。結果、アイオーンは社長の退陣まで追い込まれる事態となり、その結果に付随する形で、父の勤め先会社は倒産し、父は仕事と信用の両方を失った。
父は知らなかった。
業界全体で不正が蔓延していたことを。
取引会社を売った――その事実によって、父の会社は業界で干されることになった。かつての仕事仲間からは恨まれ、悪評が再就職の道を阻んだ。父は日に日に追い詰められ、憔悴していった。ソファーに座り、力なく項垂れる父の姿を、ケイは覚えている。
「ケイ。父さんはどこかで間違えてしまったのか?」
あの日、家を出る直前だ。
中学生だったケイに向かい、玄関に立つ父は言った。
中学生だったケイはそれに答えなかった。
純粋にわからなかったからだ。
だが、父はその無言をどのように理解したのだろう。
今となっては確認しようがない。
その日の夕方。
東京方面行き中央快速の電車は人身事故のために遅延が発生した。
正しいことの末路。
一時だけ騒がれて、消費された物語。
『いいこと?』
ケイは知っている。
焼かれた父の骨の白さを。
◇
ケイはブロックした「Helios」の言葉を思い出す。
放課後、学校近くの駅でのことだった。
改札口の手前でスイムを見かけた。女子生徒にしては背が高く、背筋の綺麗な彼女は、群衆の中でも見つけやすい。それは誰にとってもそうであるらしかった。スイムの周りには、他校の制服を着た男子生徒の姿がある。
男子生徒は二人組で、スイムに話しかけていた。
スイムは挨拶に困った顔をしている。控えめに言って、迷惑そうな感じだ。
その光景を前に、ケイの足が一瞬止まる。
普段のケイであれば、素通りしていたはずだ。テレビ画面の向こうのフィクションに、介入する視聴者はいない。ケイにとって他人事は、それと同義だ。
けれど、「Helios」の言葉が彼の思考を一瞬だけ鈍らせた。「あれは、いいことか?」と自分に問う、その一手間のために足が止まった。足を止めると、あり得ないことが起きた。
スイムと目が合った。
表彰台に立つ、自分と違う世界に住む彼女と、視線が交わる。互いに相手を認識する。ケイの閉じた世界では起こり得ない出来事。画面の向こう側との交信。スイムは困っていた。ケイには選択肢があった。
『いいこと?』
脳内で繰り返される言葉。
ケイは知っている。正しい行動の危うさを。
ケイは歩き出す。
近づくと、男性生徒たちの声が聞こえた。
「あっ、やっぱり動画の子だよね。円城高校の制服だし、生でも雰囲気あるね~」
「あの動画すごいカッコよかったよ。あっ、この後って暇?」
ケイは男子生徒たちの横を通り過ぎる。
スイムが見ている。ケイは目を逸らす。
ケイは改札を通り過ぎる。
通り過ぎて、改札の向こう側で振り返る。
「おい、青山」
声をかけてしまった。
男子生徒の視線が集まる。振り返ったスイムの目も、少し見開かれる。ケイは男子生徒を見ない。スイムだけを見る。彼女の知り合いだという演技。
ケイは、自分の左腕に巻かれているカシオの腕時計を指差して言った。
「いつまでお喋りしてるんだ。またコーチにどやされるぞ」
男子生徒たちが、ケイに気を取られる。
「はい、先輩」
スイムはその隙に彼らの間をすり抜けた。改札を通るスイム。
ケイはホームに向かって歩く。そのすぐ後ろをスイムがついて来る。男子生徒たちは動画を見て声をかけに来たらしい。大した行動力だ。
ホームに立つ。
電車が来る。
ケイとスイムは、一緒の電車に乗り込んだ。
電車が走り出す。
男子生徒たちは改札の中までは追ってこなかった。
行動力にムラのある連中だと思いながら、ケイはドアの近くで胸を撫で下ろす。
「あの、先輩」
ケイは声をかけられてびっくりする。背後にまだスイムが立っていた。
すっかり役目を果たした気でいた。だから、びっくり。
ケイはすぐ理由に思い当たる。
というか、そうだ。スイムにとっては同じ高校の制服を着た、知らない先輩だ。突然コーチがどうのと言われたら、気味が悪いに違いない。「Helios」と同じだ。一方的に知られているのは不気味。今のままではナンパ男子生徒と大差なしだ。ケイは自分の推理に従い、慌てて弁明した。
「ああいや、水泳。スイミング・スクール。青山さんは知らないと思うけど、俺も昔、一緒のところに通ってたから。何か、迷惑そうだったし。あっでも、御節介だったらごめん」
ケイは顔を逸らしながら、小声かつ早口に捲し立てる。
女子生徒と話すのは、かなり久しぶりだ。
正直、平静を装い切れないくらい緊張していた。
「ごめんなさい、よく聞き取れなかったんですが――」
スイムはそう言って、ほぼ同じ視線の高さからケイを見る。
大人びた印象を与える彼女の三白眼。それを前にして、ケイは思わず息を飲む。
間近に迫った彼女の瞳は、綺麗だと思った。
そして、スイムはとても自然にその名前を呼んだ。
「今なんて言ったんですか、西荻先輩」
一方的に知っていると思い込んでいた、大馬鹿の名前を。