1、妖怪娘
蒼都という、古都がある。
または旧千都とも言われるこの都は、天にも届くほどの鋭利な山々があることから、国で最も神々に近き場所、また異形多き地としても有名であった。だだっ広くごちゃごちゃとした都を数多の神山が囲み、その内の四方にあるものには中腹に大門がある。
外からの来訪者は、門から都へと降りていく。神山を越えることは不可能なため、例外はない。
そう、例外はないはずだったのだ。
しかしこの日、降臨祭前日。人々の多く集いしこの日に、ある小さき来訪者は古都へと、突如舞い降りたのだった。
古都にとある商家がある。
ある日ふらりと訪れた、ゲンラクという名の人間の男が建てたものだ。主人である彼が町家を好まず、山中の開けた場所に建てられたこの屋敷は、都からすると唐突に現れた異質なものだった。
神山で商いが許されることなど稀有なものだと都で話題になり、物見遊山に人々が集まった。
見物人たちは、その立派さや異様な空気に息を呑み、即座に様々な噂話が交わって広まっていった。そうしてたちまち有名になったのだ。
神山に不可思議商家、妖月屋あり、と。
この屋敷、表は店であり主に人外向けの妖酒、妖菓子などの輸入品を取り扱っている。創設時以降人が訪れることは少ないが、妖怪にとっては良い立地であり、上々の繁盛。
その奥は母屋となっており、主人をはじめとする住人たちの住処である。山側には庭園が広がり、季節ごとに背後の山との色合いが見事なものだった。
今は卯月。
春先の桃色がついたその庭に、一枚の紙がヒラヒラと落ちて来た。軒に座っていた少女、センカは上を見上げる。晴れ渡った眩しい空、視界の端に移った黒い羽に、あぁ瓦版かと理解する。
「ちょっと休憩、あれ拾ってくる!」
部屋の中に声をかけてから、センカは軒から飛び出て庭の中を走り出した。
日の下に出ると、短い黒髪が不思議な七色に反射する。加えてワイン色の透けた瞳は、彼女が人外であることを表していた。
「おい、仕事してねぇのに休憩も何もないだろ。いい加減手伝えよ」
胡座をかいてその周辺に積もった服をたたみつつ、リガクは悪態を吐く。明日の祭りの準備で使用人は大方掃けており、現在家の仕事は二人で請け負っていた。と言っても大した家事もできないので、干してあった服を取り込んでたたむだけなのだが。それでも家主一家や住み込みの使用人、いつのまにか住み着いたモノたちの衣服を合わせると相当の量になる。
「…スザクにこっち任せればよかったな」
舌打ちをして、出店へ行った双子の兄を思い浮かべる。昨日の内にあちらは粗方準備を終わらせておいたので、今日は確認だけだと一人が向かうことになったのだ。楽な方を選んだつもりが、どうやら外れくじを引いたらしい。
紙を拾い、パタパタと戻ってきたセンカを睨め付ける。
「いいから、これ終わらせろって」
「わかってるわかってる」
センカは空返事をすると、瓦版を読みながら部屋に上がり、片手で洗濯物を掴んでたたみはじめる。
「雑にやるな。キスケに叱られるぞ」
「…うん。あれ、今年って硝子屋のハリマさんお店出さないんだ。一覧に載ってない。歌劇と舞踊は三刻から朱門の前の広場だって。遠いなぁ、都広いから動くのめんどくさいや」
「両手でやれって。丸まってんじゃねぇか」
センカが終えたものをリガクが横から取り、やり直す。これでは一向に進みそうにない。
「ねぇ、私ってお店番しなきゃだめかな」
「お前いても邪魔だから居なくていい」
言い切られて、センカはむっとした顔でハクを睨め付ける。
「なんだよ、仕事ぐらいできるもん」
「現在進行形で、できてない」
「これはつまんない」
苛立ったリガクが息を吐くと、部屋の襖が開く音がした。二人して振り返ると、そこには使用人の長であるキスケが呆れ顔で立っていた。彼は人外ばかりのこの家で、数少ない人間の一人だ。
「…たしか、一時間程前にここを任せたはずなのですが」
そう言って、家を出る前に見た状況とあまり変わらない部屋を見渡した。
「あれキスケ、下に降りたんじゃないの?都の人と大櫓建てに行くって」
「牛鬼さんが来てくださったのですぐに終わりましたよ。家にセンカさんたちを残していると言ったら、心配だからすぐに帰りなさい、とおっしゃってくださいましたから」
「なんじゃいそれ。私たち赤ん坊じゃないんだぞ!」
「たちじゃねぇ、お前だけだよ馬鹿」
センカは頰を膨らませそっぽをむく。そんな様子を見て、キスケは笑った。
「いえ、そうではなくて。家に人が少ないと危ない事もございますからね。この期間は家を空ける人が多くなる。すると、それを狙った泥棒も当然現れるもんでございます」
「泥棒なんか、ゲンラクがどうにかしてくれるでしょ。いつも家にいるんだし」
それに、と言いセンカが目を瞑ると、掌の上に赤い光の粒が現れる。それらが集い形を成すと、黒い三尺ほどの棒となり出現した。細く赤い禍々しい模様の入ったそれは、生まれつきセンカだけが生み出すことのできる不思議な物だった。
「この"便利な棒"があれば何とかなるよ」
そう言って器用にも棒を片手でクルクルと回す。
「あぁ、こら」
キスケが慌ててそれを制すと、センカは素直に止まる。
「家の中で振り回さない」
咎められ、センカは拗ねたように棒をしまう。それを見てキスケは一息つくと、言い聞かせるようにセンカを見やる。
「…うちは大事な商品がありますからね。表側を足の速い妖怪がちょろっと忍び込んだら、それを止めるのも、追うのも大変でございましょ」
「…棒でもだめ?」
「棒は危ないからだめです」
「危なくない」
睨み合う二人を横目に、リガクが欠伸をする。
「表の本店にだって留守番は置いてたんだから、そう焦って戻ってくるこたないだろう。まぁ、お前が来たならやっとこれを終わらせることができそうだ」
そう言ってリガクが恨めしく衣服の山を見ると、キスケは左様でございますね、と苦笑いする。そして何かを思い出したかのようにセンカに顔を向けた。
「あぁ、センカさん、ゲンラク様からお使いが頼まれましたよ」
「えぇ…」
「…なんでも、やり遂げれば明日用のお駄賃を出して下さるとか」
途端、不機嫌だった少女の目が輝く。
「お駄賃!やる!なにすればいい?」
「はいはい、これを届けてきて欲しいとのことで…」
そういって、キスケは懐からいくつか封筒を取り出した。
「下に降りて、都を回って配ってきてくださいまし。なに、皆見知った顔の方々ですから、分かるはずでございますよ」
「なにこれ、封筒?なにが入ってるの」
「さぁ…。わたくしめも聞かされておりません」
ふーん、と言って封筒をかき集めると、センカはすくっと立ち上がる。そして書かれている宛名を確認した。
「百目のカグラ…それに、酒屋のゴソン?この二人って都の端と端じゃんか!」
「ですから回って来てください、と申し上げました」
渋る少女を宥めつつ、キスケはそういえば、と続ける。
「急ぎの仕事ですから、飛獣を連れて行けと」
「やった!いってきます!」
瞬時に笑みを浮かべ、ドタドタと走っていく。普段から、許しがなければ飛獣を使えないセンカにとっては、これは朗報だったのだ。
そんな様子を見送り、兄のリガクは重いため息を吐いた。
「いつまでもガキのまんまだな」
キスケは苦笑いをする。
「えぇ、ほんとうに」
「もう十五だろ?寺子屋でも落ち着かねぇ奴みたいだし…どうにかなんねぇのか」
再び作業に入ったリガクを見て、キスケも座りながら洗濯物を手に取る。それを畳み終わり次のものに手を出すが、横に置かれた丸まった洗濯物を見つけて、呆れた顔でそれを手に取った。
「彼女のやんちゃさは探究心の強さから来ているのでしょうね」
センカの仕事をやり直すキスケに向け、リガクは片眉を上げる。
「探求心だぁ?チビの頃から都で暴れまわってたのがそれか?…だったらとんだ乱暴もんだな。んとに、身体が良く動くからって好きかってしやがって」
「今は落ち着きましたよ」
「そうでなきゃ困る。にしても、何だってあんなに騒々しかったんだ」
キスケの細い目が、一段と細まる。
「自身を知ろうとしていたのでは」
静かに言われたキスケの言葉に、リガクは一度手を止める。
「自分の”種”が分からないというのは、彼女にとっての最大の問題でしょう。今はあまり深く考えていらっしゃりませんが、幼い頃は無意識にも探っていたように思えました。手当たり次第に試していた、そんな風に」
リガクは無言で頭をかいた。そうして今一度、センカが襖を開けっ放しにして走り去った方を見る。
「…だとしても、頭ん中が世間知らずで空っぽなのは関係がねぇ。やんちゃどうこうじゃなくて、思考が幼いんだあいつは」
「えぇ、そうですとも。しかし」
キスケはふ、と庭園を見た。目に入ったのは梅の花。一枚の赤い花ビラが春風に揺られ、はたり、と落ちた。そしてすぐに、次の風に攫われてふわりと上がる。つられて空を見ると、雲ひとつない晴天が見えた。
「いつの日か、大人になるきっかけは訪れますよ。必ず」
どうだか、とリガクは肩を竦める。