変わらない日々
生きることほど退屈なものはない。
だって、人間は死ぬために生きているのだから。
生から死へ――それまでの過程なんて何の意味もない。
そんなの世界にとっては何の価値もない、どうでもいいことなのだから。
それならば、生きる人間はいっそ簡単に安楽に――身を滅ぼした方がいい。
生きとし生けるものは死ぬべきだ。
生きることなんて何の意味もないのだから。
そんなことを思いながら、今自分は生きている。
なんのために生きている――。
世界のため? 大切な人のため? 家族のため? 自分のため?
いや、何のためにも生きていない。
そんなものは生きること以上に無意味でくだらないことだ。
僕は生きている。いや、生きているという、能動的な行為はしていないか。
生かされている。――とか言ったら格好がいいだろうか。
僕は生かされている。
だから僕は今日ものっぺりとした日常というものを過ごしている。
生きたくは決してないのだけど、生きるしかない。
午前8時20分。
下駄箱で靴を履き替え、ピカリと鏡のように光るリノリウムの廊下をだらだらと歩く。
目指す先は3階の3年B組の教室。突き当りの階段を堕落した眼差しを階段に落としながら上る。
階段を上る動作は苦でも楽でもなんでもない。何も感じない。
もはや慣れを通り越して、生理現象のような必然事項となってしまっているからである。
この階段を僕は何回上っただろうか。
僕は留年生。
去年も3年生だった。
だからこの学校の景色はもう見慣れすぎている。目をつむったまま学校の中を歩き回れるくらい、見慣れた景色だ。
そんな再放送された番組のような情景の中を歩いていく。
階段を淡々と上っていく。2階と3階の間の踊り場に差し掛かる。
左に曲がり進み、左手に見える階段へと向かう。顔を上げる。
その時、見えた。
あのとき出会った、一輪の花のごとくの少女――。
服はあの時の巫女装束でなく、白と黒の半袖のセーラー服だ。
長い黒檀の髪がなびく。
それに次いでスカートもなびく。
スカートの中は、階下から覗いているにもかかわらずうまい具合に見えない。
少女の顔を覗く。
大人びたような容姿とは裏腹にその顔は無邪気さが残った童女のような顔立ちだった。
背も顔と同じく子供の様に小さい。150センチほどだろうか。
美しさと、儚さを同伴した不思議な魔性なる少女。
少女は突如、ゆっくりと階段を下りていく。舞台の上のスターのように優雅に段を下りていく。
そして、僕の目の前に来る。
そして、口を開く。
「おはよう!」
少女ははしゃぐ子供の様な、満面の笑みで告げた。
僕は困惑し立ち尽くした。
****
教室での時間は一陣の風のごとく過ぎていった。
留年生の僕には授業なんて赤子の手を捻るようなほど簡単だ。
いつか見た問題。
いつか見た法則、定義、公式。
いつか見た文章。
いつか見た数字。
いつか見た単語。
いつか見た図、記号。
いつか見た人間の顔。
マンネリ、飽和、サチュレート。
もはや授業なんて何の意味もない。
生きることが無意味ならば授業も無意味だ。
AならばB。
今はちょうど数学の時間だった。
「ええと、それじゃあ……今日は五月十日だから、出席番号十番、円堂解いてくれ」
当てられた。今日の日にちと先生の性格を考えたら百パーセント当たることは分かっていたのだが。僕は席を立ち、ノッポの若い数学教師が立つ黒板の前へと向かう。
僕の席は一番後ろの窓際の席。――人類から見放されたようなさびれた席に座っていた。
そこから黒板までの長い距離を歩き、黒板の問題の書かれたところの前へと着く。
(極限の問題か……)
nが無限となる。無限、そんな実在しないものを考えて――人間はそれほど暇なのだろうか。
まさに夢幻だ。
黒板に99.999999パーセント間違いのない答えを書く。
答えは、無限大。発散した。
「よし、いいぞ円堂」
教師の淡々とした声を聞いて、チョークを置いて席へと戻る。
席から自分の書いた答えを眺める。
無限大(∞)のマークが、蝶の形に似ていた。
蝶……。
花に停まる、飛行する昆虫。
その姿は、どこか儚い。花のように儚い。
窓際を眺めると、無限大のマークのようなモンシロチョウが飛んでいた。
今は五月。畜生たちにとっては穏やかな日々。
人間たちにとってはのんびり穏やかな反面、病的な日々。
自殺がしたくなる日々だ。今日は自殺日和。
こんなに天気がいいのに、誰もかれも自殺しないなんておかしすぎる。自殺大国が聞いてあきれる。
蝶は飛んでいる。墜落せずに。
その羽を千切ってやったら蝶は喜んで墜落するだろうか。
****
お昼休み。僕は購買部へと向かう。
ババアからもらった金を手にして。
購買部の中はにぎわっていた。この景色もだいたい見知った情景だ。
僕は向こうのパンの並んだ棚へと目を向ける。僕はここの購買で一番人気のパン、『虚幌高校自家製カレーパン』を手に入れなければならない。
カレーパンは8つ並んでいる。
僕は並んでいいる8つのパンの向こう側にある、あんぱんを手に取った。
****
痛みとはなんだろうか。痛みとは。
それは人間にとって不可欠なもの、なのだろうか。
生きるためには必要だろうが、死ぬためにはまったくもって不必要だろう。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、向こうからあの巫女少女が来た。
少女は一輪の花であり、一枚の蝶である。と、さっきの数学の時間思っていた。どちらも薄く儚く――美しい。
僕は一日中少女のことについて考えていた。
あの少女は一体、僕のことをどんなふうに思っているのだろうか。
そもそも、僕のことを知っているのだろうか。
目の前の少女は近づいてくる。その顔はあの屋上で見た人を皮肉っているような顔だった。
全人類を見下すかのようなまなざしをしていた。
「こんにちは」
今度は昼の挨拶だった。
「……こんにちは」
僕は何となく少女に返事をした。
「随分とお盛んね、君」少女が尖った口調で言った。僕が嫌いなんだろうか。
彼女はじっと僕の顔を眺めている。
「君、今日の放課後、屋上に来てくれない?」
少女が顔を朗らかにして言った。
“屋上”……その単語を聞いて、僕は凍り付けとなった。
昨日のことが再生される。
「ねぇ、来てくれるの? くれないの?」
少女は苛立ったように言う。
僕は、凍り付いた体のまま……うなづいた。
逃げる必要も、行く必要もなかったから。
「そう、それなら待ってるから、ちゃんと来るのよ」
少女は凍りついた僕の横をすたすたと通り過ぎていった。
****
放課後。
僕は少女に言われた通り屋上へと向かった。
屋上は立ち入り禁止区域だ。生徒も教師もそこには行ってはいけない。
屋上への道には障害がある。第一の障害はカラーコーンと黄色と黒の縞模様のバーで塞がれた屋上への階段の道。バーには『立ち入り禁止』の紙が貼ってあるが、それはまたぐだけで通ることができるので、障害でもなんでもない。
第二の障害は、屋上に入るための扉。
その扉には鍵がかかっている。
でもまぁ、先にあの巫女少女が屋上にいるはずだから、必然的にそこは開いているはずだろう。
少女がどのようにして扉を開けたか知らないが。
僕はドアのノブに手をかける。回す。
しかしノブは回らない。
(あれ……)
閉まっているのだろうか。というか、閉まってるだろうな。
少女はまだ来ていないのだろうか。いや、案外もう来ていたりして。
僕はポケットの中の鍵を探る。
そして取り出した鍵で扉を開ける。
扉を開けると明るい光があふれだしてくる。
屋上の景色が広がる。空にはまばらな雲、空色は薄い夕焼け色。
下面には水色のタイルで敷き詰められた床。
床のフチには高い緑のフェンスが立っている。自殺防止のためなのだろうか。
そして、その屋上の空間の真ん中に、あの少女がいた。
少女は昨日の夜と同じように、巫女装束を着ていた。
「こんばんは」
今度は夜の挨拶だ。
彼女の顔は夕日に照らされている。その顔は笑い顔だった。
何も知らない子供の様な、無邪気な顔。
「どうして、鍵閉めてたんだ」僕は少女に訊く。
「だってほかの人が入ってきちゃいけないからね」
「……僕が鍵を持ってること知ってたのか」
「知ってたというか、昨日職員室に屋上の鍵がかかってたからねぇ。ということは君は屋上の鍵を持ってるんじゃないかと推測したのよ」
「なるほど、そうなのか」
まぁ、僕が屋上の鍵を持ってること自体がおかしいんだと思うんだが。
僕が持っている鍵は職員室にかかってある鍵を複製したものだ。
「で、何の用なんだ」
僕はぶっきらぼうに言う。
彼女はその声に怪訝な顔をした。
「何の用ってねぇ、君。私は昨日からずっとずっと、君のことを考えていたのよ。だってそうでしょ? ……飛び降り自殺して死んだはずの男の子が翌日何食わぬ顔で学校に来てたら、不思議に思うじゃないの」
不思議に……ねぇ。
目の前の少女は、不思議に思ったのか。僕のことを。
奇怪だとは、奇妙だとは思わなかったのだろうか。
「あなた、名前なんて言うの?」尖った口調で少女が訊く。
僕は少し虚空を眺めてから、少女の方を向く。
「円堂だ」僕は言う。
「下の名前は?」
「治だ」
「えんどうおさむ」彼女は言った。
「どういう字で書くの?」
「……えんは円形の円で、どうは威風堂々の堂、おさむは政治の治だ」
「へぇぇ。音だけ聞いたら平凡な感じだけど、漢字を見るとなんか不思議な名前に見えるねぇ」少女は率直な感想を述べた。
「円堂治くん、私の名前は夢見ヶ原サツキよ」少女は、ゆめみがはらさつきは名前を告げた。
「字はねぇ、苗字は夢を見る+関ヶ原のがはら、さつきは漢字で書くと皐月、五月の皐月よ」
夢見ヶ原サツキは自信満々の顔で答えた。
「夢見ヶ原、さつき」僕はつぶやいてみる。奇怪で奇妙な名前だと思った。
「呼ぶときはサツキでいいわよ」
「サツキ」僕は彼女――サツキを呼んだ。
上の名前だと、都合が悪い。
「ねぇ、治くん」サツキがついさっきつぶやいていた僕の名前を呼んだ。
「君はどうして今生きてるの?」
それは、当然の質問だ。
死んだ人が生きている。それはこの世界の摂理から外れている。
いわば、バグだ。不良品だ。
「あなたは昨日、この屋上から身を投げたわね」
昨日――。
僕は夜中に学校に来て、コーンの柵を越えて扉を自前の鍵であけて屋上に出て、そして緑のフェンスを上って、そこから、校舎のフチから、世界のフチから身を投げようとした。自殺しようとした。
そこに彼女――巫女装束を着た長い黒髪をなびかせた少女、夢見ヶ原サツキが現れた。
サツキは何のためにそこに現れたのか。僕を止めるためにそこに現れたのか。
そんなことに何の関心もせず――僕は体を戻して、そして屋上から飛び降りた。
飛び降りる途中に蝶を見た。
蝶は飛び。
僕は墜ちる。
そして、地面に頭から激突する。
痛みとはなんだろうか――
と、考える間もなく、そこで情景が黒の駒に変わる。
意識がなくなった。
……そしてしばらくして、僕は起き上がる。
激しい痛みを受けている頭を抱えながら。
僕は生きている。どこにも何の傷もない。血もない。
僕は死んでいなかった……。
「屋上から落ちたら、普通の人間なら大抵死んでしまうはずよ。それにもし仮に生きていたとしても重傷を負ってるわよ。のん気に学校なんか行けやしないわよ。でもあなたは、生きている。何の傷も負わずに。まるで何もなかったみたいに。これって、どういうことなのかしらねぇ?」
サツキは笑った顔で首をかしげていた。
僕を笑っているのだろうか。
どうしようもない最悪の僕を。
「死んだ人間が生き返るなんて、まるでゾンビよねぇ。もしかして治くん、君ひょっとしてゾンビなの?」
子供が不思議がるような口調でサツキは問うた。
ゾンビ、か。まぁ、そう考えるのが妥当だろうが……。
サツキは僕をなめまわすようにじっくりぐるりと眺めている。僕が本当にゾンビかどうか確かめているのだろうか。
「うーん、どうみてもゾンビって感じじゃないわねぇ」サツキはつぶやく。
「サツキ」僕はサツキに声をかける。
「何? 治くん」
「僕は……不老不死なんだよ」
「不老不死……ふろうふし……」
サツキはその言葉を反芻していた。
そう、僕の身体は不老不死だ。
不老で不死で不死身で無敵で無限大で……。
僕は留年生。
永遠の留年生。
僕の年は高校3年生の時からずっと止まっている。
ずっと、ずっと……永い間僕はこの学園に居続けている。






