最悪の予兆
今日は憂鬱だ。
昨日の光景が焼き付けられて、気分が悪くなっていた。
昨日、あのあと……僕とアヤメは普通に下校をしていた。他愛のない、アヤメが通学路の景色の何かにいちいち指を差して質問し、それを僕が答えて、そこから話を広げると言った、平坦な会話をしながら下校していた。アヤメには何の表情の変化もなかった。何もなかったからこそ、むしろ、怖かった。
むしろ、何も訊けなかった。
訊いたら、壊れてしまうんじゃないかと思ってどうにもできなかった。訊いたら、アヤメの笑顔が般若のお面ようになってしまうのではないかと……恐怖を感じていた。
アヤメ、お前に、一体何があったんだ。
誰が、何をやったんだ。
平和な日々に少しずつヒビが入っていくような気がした。
「なんだか暗い顔をしているわね、治くん」
サツキがいつもの皮肉った口調で言った。
「昨日の平和ボケしたような顔はどこ行っちゃったのかしらねぇ。まるで突然リストラ宣告されたサラリーマンみたいだわねぇ。どうしちゃったの治くん? また死にたくなったのかなぁ」
死にたく……なぁ。
やはり護るべきものがあると勝手に死ねないものだ。
今は自分が死ぬとか死なないとか……どうでもいい。
「まぁねぇ。私、人の不幸とか大好きだからねぇ! 人の不幸を花の蜜のように吸い尽くしちゃうのよ! ちゅぅぅぅっっとねぇ! 飢えてる子供達とか、病気で苦しんでる子供達とか、奴隷みたいにこき使われてる子供達とか見たらなんだか胸騒ぎとかしてこない? 自分たちはすっごいハッピーな生活をしているのに、ちょっと海の向こうの国じゃ地獄の日々を過ごしている。もし何かの手違いでその子供たちが自分たちのとなりに来たらどうする? 恨まれて憎まれて絞め殺されちゃうんじゃないの? いままで陰にあった己の犯してきた罪が明るみに出る! はぁっ! 世界中の不幸な人たちはきっと私たちのことを殺したいほど憎んでるんだわ! きっと!」
サツキはまた悪魔的な戯れ言を述べていた。
「まぁね、でも治くん。ちょっとは元気出しなさいよ。授業サボってこんなところ来るなんて君らしくないよ!」
僕は今屋上にいる。現在1時間目のはじまり。
あまり授業をサボってはいけないと思うが、少々のサボりはむしろ学生らしいのでやっても構わないだろう。
「治くん、君が元気になるように、ちょっと面白い映像を用意してるんだけどね」
「映像?」
「SENRIGANよ」
ああ。SENRIGAN……あの、浜田の一生が記録された、あれか。
あの映像を見るとなると……なんだか悪寒がするものだ。あれは人間の辿る道、つまり一生が映される。だからこそ、残酷なのだ。人の一生ほど残酷なものはない。そこには秘匿された闇も含まれているのだから。
「ちょっと待っててね、治くん」
そう言ってサツキは懐から薄いノートパソコンを取出し、それを素早く起動してデスクトップ上の“SENRIGAN.exe”を起動させた。
そして現れた入力スペースに、
『美柳彩夢』
と入力した。
僕は怪訝な顔をした。嫌な記憶がまた蘇ってきた。
「ん? どうしたの治くん?」
「いや……。なんでもない」僕はうつむいて答えた。
「そう。それならレッツスタート!」
サツキは勢いよくエンターキーを押した。
「ええと……アヤメちゃんの場合、生前の、というかゾンビになる前の映像は壊れてて見えないのよね。かわりに、ゾンビになってからのはちゃんとあるんだけどね。ま、とにかくアヤメちゃんの面白い未来でも覗き見しちゃおうじゃないの!」
「サツキ……お前アヤメがゾンビだとかいうの知ってたのか?」
「私は何でも知ってるわ! 全知全能、ラプラスの悪魔だわ!」
この破天荒巫女にはどんな理屈も通用しないんだろうなぁと僕は思った。
「とにかく再生スタートよ! まずは2日後の映像から!」
どうして2日後の映像からなんだろうかと僕は単純に疑問した。たぶん、それにはサツキなりの意味があるのかもしれない。2日後の映像しか見せない。ほかの映像は見せない。これは明らかなるサツキの悪意だ。その悪意には多分抗えないのだろう。サツキには抵抗できない。こいつの道理は何者にも曲げられないのだから。
だから、仕方なく僕は2日後の映像を見た。
⇒⇒⇒⇒
そこには少女の姿があった。
少女は教室の真ん中で立ち尽くしていた。
辺りは静か。人の気配がない。
少女の手には、光を反射する銀の刃物が携えてあった。
その刃物は紅い液体に染まっていた。
少女のセーラー服も血で染まっていた。真ん中に大きなクレーターのような血だまりを形成し、そこから放射線状に血が飛び散っている。
少女はうつむいている。髪をだらんとだらしなく、妖怪のように垂らしている。
少女は鬼のような姿だった。
少女の足元には、一つの固まりがあった。その塊には強烈な親近感を感じた。まるで、自分を見ているかのような……いや、どうみてもそれは自分だった。
僕は倒れていた。
殺されていた。
おそらく、少女に殺されていたのであろう。
そして、犠牲者は僕だけではなかった。
少女のずっと後ろには……いくつかの赤い血に染まった大きなぼろ雑巾のような塊が点々と転がっていた。
それらは少女と同じ、この学校の生徒だった。
おそらくそれは、少女と同じ学年の生徒だろう。
それらは骸と化していた。骸、骸、骸、骸……骸が散乱していた。
死屍累々。
死体の道の真ん中で、鬼は――俯き地面をじっと眺めていた。
じっとそのまま。停止した時間。終わった空間。終わった世界。死んだ人間。死んだ僕たち。
少女は――アヤメは――殺し尽くした。
そこは僕らの終焉の場所だった――。
■■■■
「どう? 面白かったかなぁ? 治くん」
僕の耳にはサツキの声が入ってこなかった。もう、放心状態だった。
まさか、こんなことに……。
これじゃあ……まるで、あの時と同じじゃないか。
あの時。アヤメが受けた、壮絶な事件と……。
「うひゃぁ。こりゃすごいわねぇ。生徒たちを滅多刺し! 皆殺し! サイコキラー! 猟奇的! これは現実よ! ホラー映画じゃないのよ! かわいい女の子が生徒たちを切り刻んでいく! あひゃぁ、それにしても女子中学生が生徒を滅多殺しなんてなかなか絵になるわねぇ! さっきのアヤメちゃんの姿、なかなかすごかったわよ! 貞子もびっくりよ! こりゃハリウッドでも食っていけんじゃないの?」
僕の耳には入らない。サツキの言葉は一言も。
僕は震えていた。なんで……どうしてアヤメがあんなことに……。
何かの間違いだ。
アヤメがそんなことするわけないじゃないか。
あいつは……あんなにけなげで……あんなに無邪気で……律儀で、天然で、子供っぽくて……。そんな、虫一匹殺せないような奴が殺人なんて……殺人なんて……。
――僕の頭に恐怖の映像が再生される。
あの時の……村人たちを惨殺していく……恨み狂った映像が。
アヤメ……お前は……。
「人間は、追い詰められると何をしでかすか分からないからねぇ」
何を言う……。
「蓄積された感情が、爆発しちゃうのは人間なら仕方ないのかもね。理性じゃどうにもできない、壮大な感情が人を蝕み、人を変えてしまうこともあるのよ」
お前は……知った風なことを……。
「そう、鬼に変わってしまうのよ」
鬼――。
人を喰らう、異端の化け物。
人が、鬼へと変化してしまうのか。そんな、御伽噺みたいなことが……本当にあるのだろうか。
頭の中できらりと、銀の刃が光った。
それは鬼の爪のようだった。あのSENRIGANの映像のアヤメは本当に、人間を殺めた鬼だった。
「ねぇ治くん。アヤメちゃんって一体何者なのかしら?」
「……あいつは、普通の高校生だ。ただそれだけの、平凡で平和な奴だ」
「そんな子が、こんなことをしでかしてしまうのかしらねぇ」
「…………」
「昔、何かあったりしたのかしらねぇ。そう、昔。まだ死んでなったアヤメちゃんは、一体どんな悲しいことを経験したのかしらねぇ」
サツキは僕の身体をナイフで抉るように残酷な言葉を告げていった。
「ねぇ、治くんはアヤメちゃんと親しいんでしょ? だったらそこらへんの事情とか教えてくれないかしら?」
「…………」僕は黙った。
「あら? 話してくれないの? それなら力づくで……。といきたいところだけど、まぁいいわ。治くんも話すのがつらそうだしね。誰しも話したくないことはいくつかあるわ。まぁでも、治くんに訊かなくても私は独自で調べあげるつもりだけどねぇ!」
サツキは自慢げに話していた。
「もちろんアヤメちゃんに脅迫するとかもしないから安心して頂戴ね。私はこう見えてフェミニストだからねぇ。汚い手は嫌いなのよ。とにかく、私はいろいろと調べるわ。実は昨日から調査は初めていたんだけどね。とにかく、2日後に起きるあの映像を止めるため……私は頑張らないといけないのよ」
「ええと、墜落飛行のやつか?」
「そう、墜落非行防止委員会よ! もうこれは虐めをどうこうするとか言うレベルじゃないわね! これは事件だわね! 殺人事件よ! 止めないとみんなが死んじゃう! 治くんも死んでしまう!」
僕は死んでもどうとでもなるけどなと一人で思っていた。
「さぁ! こうもしていられないわ! そろそろ図書館に行かないと! アヤメちゃんのこととかについて調べないと! それじゃあ治くん! 治くんもお元気で! シーユー!」
サツキは颯爽とその場を去っていった。残されたのは僕一人。
僕は絶望感を抱きながら固まっていた。
アヤメ……お前はどうして……。
****
憂鬱な気分のまま、授業を受けていた。
何秒かに一回、あの惨劇の映像が再生されていく。あの悪鬼のごとくそびえ立つ、アヤメの姿が。
その鬼の目に見つめられる。
何かを無言で訴えている。
『……ス……ヶテ』
助けて……。
そうだ、アヤメはただ、苦しかっただけなんだ。たとえ鬼になろうとも、それはアヤメのせいじゃない。
そう……アヤメは何も悪くないんだ。あいつは人なんか……殺せないはずだ。
アヤメは今、教室でどんなふうに過ごしているんだろうか。
やはり、虐められているんだろうか……。
いつの間にかお昼になり、アヤメと相も変わらない普通の昼食をとって、そしてまた憂鬱な気分なまま授業を過ごした。気づけば放課後。僕は今日一日ずっと憂鬱な気分で過ごしていた。なんだか体が誰かがのしかかったみたいに重くなっていた。
そんな気分のまま、僕は教室を出て、階段を下りて……
「あはははははーっ!」
「はははははーっ!」
「はははははははーっ!」
不気味な、悪魔のような笑い声が聞こえた。
それは、ささやかな笑い声で、普通なら聞き逃してしまいそうなほど小さかったが、今の憂鬱な気分の僕にはなぜかしっかりと聞き取れた。なぜか、その笑い声に胸騒ぎを感じた。
声はずっと続いていた。向こうの、突き当りの教室から聞こえる。そこは1年E組……。アヤメのいる教室だ。
廊下の向こうのE組の教室を眺める。何か、得体のしれない獣が潜んでいるような……不思議な空間に見えた。
獣の鳴き声がする。卑劣で、下劣な生物が――叫んでいる。
“アハハハハハーっ!”
教室の中なら聞こえないと思っているのか。
僕は廊下を歩いていく。
獣の笑い声は近くなっていく。同時に残酷な現実も近づいていく。
教室の前に立つ。
扉上部の窓ガラスから見える教室の内部を覗く。
そこには……
上半身が裸になった、アヤメの傷だらけの背と、
それを取り囲む、獣のような同級生がいた。
アヤメの身体は3人の同級生によって押さえつけられている。
アヤメは動くことができない。
そして、同級生の一人の手に……銀色に光る棘が見えた。
円規だ。
その棘の先は紅いマジックで塗られたみたいになっていた。
昨日の光景と、
今の光景、
“アハハハハハーっ!”
同級生の笑い声。
うつぶせにされて、顔が見えないアヤメの姿。
すべてが、混合され、そして一つの明確な感情を生み出した。
――憎イ。
僕は、扉を投げ捨てるように解放した。
「アヤメ!」
怒号を飛ばし、アヤメの元へと直進した。
仁王立ちになり、アヤメを囲む獣たちを睨む。
同級生たちは――突然の来訪者たる僕に驚いて停止していた。
だが、しばらくすると、同級生の一人――コンパスを持った同級生が僕の方を訝しい表情で眺めて、
「何か用ですか?」
まるで、自分たちは何もしていないと誇張するかのような、無機質な返答をした。
冷血な眼で僕を見ている。こいつには、本当に血が通っているのかと思ってしまうぐらいの冷たい目だ。
僕はその挑戦的な言葉にいっそうの怒りを感じた。
「お前たちは……一体何をしてるんだよ! 放課後に教室で、アヤメを押さえつけて、一体何を……」
「何もしてませんよ」
同級生は冷たく言った。まったくこちらの怒り声におびえる様子はなかった。
同級生はコンパスを地面にゆっくりと置いた。
「私たちは、ただ4人仲良くおしゃべりをしていただけですよぉ~? それの何が問題があるっていうんですかぁ~」
気持ち悪い口調で同級生は言った。おしゃべりだと? どこをどう見たら……そんなことが言えるんだ! そんな戯言を……。
「ねぇ~、アヤメちゃん。私たち、仲良くおしゃべりしてたわよねぇ~」
「…………」背中姿のアヤメは黙っていた。
「あらぁ? アヤメちゃん疲れちゃったのかなぁ? それなら私が元気にしてあげるわぁアアアアアー!」
突然、同級生はコンパスを持って、それを頭上へ振り上げる。
そしてその針の先をアヤメの背中に向けて……それを勢いよく、振り下ろ……
「ヤメロォオオオオーッ!」
とっさに僕の右手が電光石火のごとく動いた。手のひらを上に向けて、それをアヤメの背の上のコンパスの着地地点へと向かわせる。
――――ッ! 刺さった。腕に……針が……。
勢いよく振り下ろされたコンパスの針は僕の手のひらの親指と人差し指の間の肉――を抉っていた。幸いに骨を貫通していない。しかし、手からは重い痛みと幾雫かの血が流れていた。
血の一滴がアヤメの背へと流れた。
「あらぁ……。ははははっ! ごめんなさいねぇ、間違えて先輩に刺してしまったみたいねぇ。でも、わざとやったんじゃないんだから、許してくれないかなぁ? 先輩」
赦す……だと?
誰が、人類の誰が……お前たちを許すというのか!
お前たちは、赦さない。誰が、赦すもんか!
僕は、手に刺さったコンパスを抜き取り、それを投げ捨てた。
「この野郎ォ……」
「はい? 何ですか先輩? この野郎とは一体誰のことを言ってるんでしょうかねぇ?」
「赦さないぞお前! 俺は……お前を……」
僕はぎゅっと手を握り、相手を睨みつけた。
「あらぁ、私を殴るんですかぁ先輩。そんな物騒なことやめてくださいよ先輩。殴ったら訴えますよ先輩。先輩、私を殴ったらどうなるか……分かってますよねぇ」
「どうなるって……何の話だ!」
僕は同級生の言わんとしてることが分からなかった。この女は、どうしてこんなにも余裕で居られるのか……さっぱりわからない。
「あらぁ、先輩、あなた馬鹿なんですの? どうやら、相当頭がよろしくないようですねぇ」
10数年しか生きてないガキにバカと言われた。こっちは1世紀以上は生きてると言うのに。
「私の名前は岩崎瑛里華。岩崎建設株式会社の娘よ」
岩崎建設株式会社……。ああ。なにかで訊いたことがある名前だ。
政治や経済に興味のない僕だけど、その会社の名はたびたびニュースやCMで流れるほどの有名なところのはずだ。
「私には力があるのよ! 私のお父さんは岩崎建設株式会社の社長なのよ! 年商1000億の大会社なのよ! 私はそんな岩崎の会社の娘なのよ! もし、そんな私に誰かさんが怪我でもさせたら……どうなるかわかりますよねぇ? 先輩」
舐めつくような口調で同級生――岩崎瑛里華は言った。
大会社の娘……。社長令嬢ねぇ。
この生意気な後輩は、そんなくだらないものを鼻にかけて、誇りに思って、傲慢に生きているのか。
それは、決してお前が手に入れたものではないのに。
それは、父親のものだ。お前には何もない。
それに、僕には――何もないんだ。
そんな僕が――社長令嬢に怪我をさせて……訴えられたって、社会から追放されたって、虐められたって、偏見されたって、たとえ、殺されたって……どうとでもなるんだ。
地位がなんだ。
そんなもの――僕にとっては。
「――関係ない!」
僕は、力強く拳を握り、そして岩崎瑛里華に向かって拳を……。
「やめてください! 治さん!」
そのとき、真っ直ぐな声が響いた。
それは、アヤメの声だった。
僕の拳は……岩崎瑛里華の目の前で停止した。
「治さん……岩崎さんに……手を出さないでください……」
「アヤメ……お前」
何を言ってるんだ? どうして……どうして手を出してはいけないんだ。
岩崎が社長令嬢だから……手を出したらどんなことになるかわからないからやめろ……というのか。
僕には……そんなこと、些細なことなのに。
「先輩、手を退けてもらえませんか?」
岩崎は目の前の僕の拳を払いのけた。
「それじゃあ、アヤメちゃん。私たちは帰るからねぇ~。また明日おしゃべりしましょうねぇ~。じゃぁねぇ~」
その声に続いて、アヤメを取り囲んでいた二人の同級生も立ち上がり、岩崎と共に教室の扉の方へ歩いていった。
そして去り際。
「あ、先輩。くれぐれも今日のこと、誰かに話したりしないでくださいね。ま、誰に話しても誰も何もしてくれませんけどねぇ! 先生も大人もPTAも教育委員会も警察も……誰も相手にしてくれませんよ! 私にたてつく人間なんていませんからねぇ! 私たちにはお金があるんですからねぇ! 先輩、お金があれば、何だって自由にできるんですよ! そう、自由に! 好きなことを、好きなものを手に入れられるんですよ! あはは!」
そう言って岩崎たちは教室から出ていった。
後に残ったのは僕と……上半身がはだけた姿の、うつぶせの状態のアヤメ。
「アヤメ」
僕は骸のごとく倒れこんでいたアヤメに声をかける。
アヤメの背中には……大量の穴がじんましんのようにできていた。穴のほかに、打撲の跡や切り傷の跡など……もあった。
「治……さん」
「もうなかったことにはできないぞ」
もう、あの日には戻れない。
どれほどつくろっても、あの日には戻れない。
これが現実だ。
「治さん……向こう向いててもらえますか」
「あ、ああ……」
僕は慌てて入り口の方へと体を回転させた。僕が体を回した後、するすると衣擦れの音がした。どうやらはだけた服を着ているらしい。
「いいですよ……治さん」
僕は振り向いた。
そこには、暗い闇に覆われた、いたたまれない姿のアヤメがいた。昨日のアヤメとは180度違っていた。
顔を俯かせている。いまにも、泣きそうな顔をしていたが、泣いてはいなかった。涙の後もない。こいつは……何があってもなかない奴だ。泣いたら自分が壊れてしまうと思っているんだろうか。こいつは、本当にけなげな奴だ。泣きたいときは……泣けばいいのに。苦しいときは……頼ればいいのに。どうして、自分一人でしょい込んでしまうんだろう。
「お前……虐められてたのか」
「…………」アヤメは口を開かなかった。
「どうして……虐められてたんだ」
「…………」
虐めに、理由なんてあるんだろうか。虐めなんてただの生理現象かもしれない。自己管理できないガキがネションベンしてしまうのと同じだ。
「……背中は、痛くないのか?」
僕はアヤメの背中の方を覗いてみた。そこには血はない。おそらく血が出るか出ないくらいの浅い
刺傷で傷つけていたんだろう。生殺し、拷問。相手を傷つけるというより、相手が苦しみもがくのを見るのを楽しんでいたんだろう。そんな趣味を持つ奴は、自分を傷つければいいのにと思った。
「アヤメ……えと」
言葉が出ない。こんな時なんて言ったらいいか……。感情が摩耗しきってしまった僕には、優しい言葉なんて――素直に出すことはできない。
「……帰りましょう。治さん……」
「あ、ああ……」
アヤメの声は死人のような声だった。今にも、消えてしまいそうなほど弱い声だった。
アヤメは床に散らばった文房具を集めて……コンパスの血をティッシュで拭って……。カバンに入れて、カバンをしょって、僕と共にさびしい教室を後にした。




