過去完了
一日の疲れを風呂で流す。
僕の頭の中ではいろいろな悩みが交差していた。その内容は主にアヤメのことだった。アヤメは一体どこまでのことを憶えているのだろうか。いっそのこと、全部忘れていたら幸せだと思うんだが。
脱衣所で服を脱ぐ。鏡に映る自分の身体にはまったく傷もできものもない。これが僕の身体。そういえばアヤメにまだ自分の身体のことについて詳しく話していなかった。今度機会があれば詳しく話をしようか。今度ゆっくりした時に、ゆっくりと僕のことを話そう。
風呂場の扉のノブに手をかけ、扉を開放する。ここでラブコメならアヤメが風呂に入っていたりするのだが、さすがにもうラブコメみたいなことはないだろう。ここからはもうシリアスパートで陰鬱な話に入っていくんだろう。きっとそうだろう。そうに違いない。そうでないと今度こそサツキがブチ切れて、この小説をぶっ壊してしまうだろう。
扉を開けると、そこに白い肌の少女がいた。
それはアヤメだ。
「わぁっ! わー! きゃぁぁぁー! 治さぁぁぁぁん!」
まだラブコメは終わっていなかったようだ。サツキは今度は象とか惨殺してしまいそうだ。
「どうしてお前がここにいる!」
「私まだ入ってたんですよぉー!」
僕が洗いものしている間に上がったと思っていたが……。まだだったようだ。やれやれ、女の子は長風呂だからなぁ。とのん気に思っている場合じゃない。
「すまんな、僕が不注意なばっかりに。それじゃあ僕は後で入ることにしようか……」
「ま、待ってください治さん!」湯船につかっているアヤメが引き留めた。
「治さんに気を使わせるわけにはいけません! 私は居候の身ですから……治さんのご意志は最優先にしないと」
こいつは変なところで律儀なところがある。古き良き日本人ってやつだ。
「ですから……その、一緒に、お風呂入りませんか?」
どうしてこんなことになったのか。なんでこんな状況になってるのか。
僕とアヤメは二人仲良くお風呂に入っている。
そう、仲良く。決してやましいことは決して決してない。
「――――!!」
アヤメはもう茹でダコ状態だった。
「アヤメ、ちょっといいか」
「は、はい! 何ですか!」
いきり立っているようである。
「お前、どこまで憶えてるんだ?」
「憶えてるって……」
途端にアヤメは黙り込んでしまった。
「お前は……あの事件のことを」
「憶えています」アヤメは、きっぱりと言った。
「最近……思い出してきたんです。あの家のことも……あの村のことも……治さんのことも……あの、事件のことも……ぼんやりとですけど……思い出してきたんです」
「そうか……」
記憶は刻まれるものだ。それは決して癒えることのない傷だ。いくら奥へと押しこめても、どうにもならないものだ。記憶はパソコンのデータとは訳が違う。簡単に消去できないものだ。
「嫌なことは無理に思い出さなくていい。どうせあれは過去のことなんだ。100年も前のな。お前は生まれ変わったんだ。この状況が正しいかどうかなんて僕には分からない。でも今は……生きているなら生きるしかない。お前は今を生きるんだ」
柄にもないことを言っている自分がいる。やはり自分以外の人間には僕は厳しくできない。自分以外の人間は自分でないから、自分の物差しで物事を測っちゃいけない。アヤメにはアヤメなりの生き方を探してほしい。
「治さん……私、私は!」
「言わなくていい。僕は今、生きている」
「治さんは……生きているんですね」
「昨日言ったと思うが、僕は不老不死なんだ。老いることもなく死ぬこともないんだ。そして不死身でいくら傷を受けても自然治癒されるんだ」
僕は立ち上がり、風呂場の棚にある剃刀を取る。
それを持って座り、そしてアヤメに左腕を突出し見せる。そして右手に持っていた剃刀で……左腕に一本の紅い線を引いた。その線からみるみると血が垂れていく。
「わぁぁぁぁぁぁぁー! 血が! 血が出てますよ! 治さん!」
アヤメは慌てている。しかし、腕に引かれた線と流れる鮮血は次第に動画の逆再生のように修復されていく。
アヤメは口をぽかんと開けてそれを眺めていた。
「言っただろ。いくら傷を受けても自然治癒されるって」
僕の腕はすでに無傷のなめらかな肌に戻っていた。
「う、うわぁ……。すごいです治さん……。治さんは吸血鬼さんなんですか!」
「い、いや……そうじゃないんだが」
「吸血鬼さんなら私治さんのために血を分けてあげてもいいですよ」
「そうか、それはありがとな……」
やわらかそうな体のアヤメの姿が目の前にある。どうやら羞恥心は湯気と共に飛んでいっているようだ。
「まぁ、だから僕は……たとえ刺されても、斬られても、病気になっても、窒息しても、つまり殺されても……死なないんだ」
「殺されても」
「ああ」
「私に殺されても」
「ああ……」
アヤメはうつむいて水面を眺めていた。その背中の上に重い十字架が背負われているんだろうか。
迫害され、十字架を背負い、そして死に、そして復活した。まるでキリストだ。アヤメは神の子だ。
「だから治さんは……死んでなかったんですね」
「ああ。そうだ」
「いつから……そんな体になっていたんですか」
「独逸に留学した時に……あの錬金術師に会ってな。……それから僕の人生は酷いもんになってしまったのさ」
「治さんは……それからどんな人生を歩んできたんですか?」
「それはなぁ……全部話したらのぼせてしまうくらいの長さだからなぁ。別に大した人生でもないんだけどな。ただずっと、高校3年生を続けていただけだったよ」
アヤメはまだ顔を伏していた。
「っと、アヤメ、だから過去のことはさっぱり忘れようって言ったじゃないか。さ、そんなことは水に流してさぁ」
僕は悪戯にアヤメに水をかけてやった。「わっ! 何するんですか治さん!」と言ってアヤメも反撃した。そんな風に僕たちはしばらく童心に帰った思いでじゃれ合っていた。
「ふぅ~……。治さん。そろそろ私上がりますね。もうのぼせそうですから」
「ああ。なんか長湯させてしまって悪かったな」
「いえいえ……治さんとお話しできて楽しかったですから」
アヤメは立ち上がり湯船から出た。その後ろ姿は女神のように神々しかった……。とよく背中をみてみると、背中のあちこちに傷の跡が。打撲の跡が。
あの時の傷か……。あの村での、あの傷だ。
もう治っていると思っていたが、消えていなかったようだ。心の傷も体の傷も癒えない。本当にこの子は報われない。せめて、これからの新しい人生では報われるよう、僕は虚像たる神に祈っていた。
****
風呂から上がる。髪を乾かし寝巻に着替えて居間へと向かう。
居間にはアヤメがいた。その隣にはババアがいた。
「あ、治さん、お風呂上がられましたか」
「ああ……」
僕は冷蔵庫から氷菓を二本取り出す。それを携えアヤメの元へと向かう。
「ほら、アイスだ」アヤメに水色のアイスキャンディーの棒を渡す。
「わぁ! 氷ですかこれは」
「氷菓子だ」
ええと、僕がああなる前の時代にアイスキャンディーというものはあったけなぁ……。アヤメはアイスキャンディーを知っていなかったのだろうか。
「とにかく食え」
「い、いただいてもいいんですか?」
「ああ。はやく食わないと溶けちまうぞ」
アヤメはおそるおそるキャンディーの袋を開けて棒を掴んで中身を取り出す。そして不思議そうにキャンディーの氷像を眺めながらそれを咥えた。
「おいしいです!」
ホント幸せそうなやつだ。何があったって崩壊することのない屈託のない笑顔だ。
「お前、ばば……おばあさんと話してたのか」
「あ、はい。さっきまでおばあさんとお話ししてたんです」
僕はババアの方を眺める。ババアは笑った顔をしていた。
「治さん、おばあさんのお世話はへるぱあっていう人がしているんですよね」
「……おばあさんから訊いたのか?」
「わたし、が、はなした、のよ」
ババアは途切れ途切れの口調で言った。
「おばあさん、体が動かないんですよね。ずっと寝たままなんですね……。おばあさん、私になにかお手伝いできることはありませんか」アヤメはババアに告げる。
「おいで、あやめ、ちゃん」
アヤメは呼ばれて、ババアの元へと近づいた。
「いいかおを、しているわ。あなた」
ババアはアヤメをまっすぐ見据えていた。対するアヤメも真っ直ぐババアの目を見ていた。
「治ちゃん、を、おねがい、します。わたし、は、もう、こんな、だから。だから、治ちゃん、を、お願いします」
僕は胸が締め付けられる思いをした。どうしてこんな気持ちになるんだ。どうしてババアの言葉なんかに心を動かされるんだろう……。
「わ、私はその……ふつつかものですが。治さんを……その、治さんのことなら……任せてください!」
精一杯の力を込めてアヤメは言った。
はぁ。本当にどうしようもないのは僕の方なのかもしれない。僕がこの二人を護っていると思っていたが……どうやら護られているのは僕の方なのかもしれない。
アヤメとババアは何やら意気投合したのか、随分長い間おしゃべりをしていた。遠目から見ると祖母と孫娘が話し合っているように見えて滑稽に思えた。
僕とアヤメは昨日と同じように2階の僕の部屋で布団を並べ、そこで寝た。時刻は11時。隣のアヤメは布団に着くなりすぐに眠ってしまっている。
おやすみ。
また明日も、平和な日々が続きますように……。




