嵐海
カモメが高く飛んでいた。
「こいつは、来るな」
「じいさんの客でも来んのか?」
老水夫の呟きを聞いて、少年は首を傾げた。
「嵐だ、坊主。ほれ、船長に伝令!」
少年は顔を引き締めて、縄ばしごを滑り降りていった。
「早くなったじゃねえか」
老人の目尻が下がった。航海から数日で、すっかり船に馴染んだ様子だ。孫のような存在に心が温かくなる。
「いけねえな」
ほろりとしそうになる自分を戒めた。海の男に涙は似合わない。
気を取り直して、老水夫は風を読んだ。まだ穏やかな風だったが、船乗りとしての感覚と経験で、吹いてくる方向を正しく見定める。晴れ渡った大空の遙か先に、かすかな黒い雲を見つけた。あれが嵐の元だ。
「ん、気のせいか」
海原にきらめく何かを見た気がした。細波ではなかったと、自分の中の何かが告げていた。
「まさかな」
老水夫はぶるりと身体を震わせて考えを打ち消した。機敏な動作でメインマストを後にした。
ぎしぎしと軋みを上げる船体に、水夫たちは顔を青くしていた。熟練した海の男でも、何人かは胃の中のものを吐き出している。
「大したもんだぞ、坊主」
「父ちゃん譲りだから」
少年の血色は悪くなかった。船酔いしていないこともそうだが、平然としている肝の太さもある。
「ヤツもいい船乗りだった」
少年の父親は、大時化の船で酒を飲むくらい大胆だった。
「死んじまったけど」
あっけらかんと言う少年に、老水夫は二の句が継げなかった。そばにいた水夫たちも顔を伏せる。
「海では何が起こるかわからん。防げない事故もある」
船長が少年の肩を叩いた。
「特に嵐の日は、気難しい神さまの気分次第だからな」
「知ってる。海の底のマグ・メルってところに、テスラって神さまがいるんだろ」
少年は昔語りに聞いた伝説を思い出した。父が航海に出ているとき、母がよく聞かせてくれた。その母も、父の死と時を同じくして病死した。
「ちまたでは化け物の神とも言われているが、力があるのは確かだ。機嫌を損ねないようにせねばならん」
船長の目が、船乗りたちに注がれた。誰も視線を合わせようとしなかった。老水夫だけが険しい表情をしていた。
「酒でも放り込んでおけば、機嫌がよくなるんじゃないかな。父ちゃんも、酒を飲むと笑ってた」
そうでないときはよく殴られた。約束を守らないで、危険な岩場や素潜りを繰り返していたからだ。大丈夫と言っても、怒鳴り声が返ってきた。今となっては、思い出だ。
「よし、坊主。海の神さまに、とっておきのワインを飲ませてやることにするか」
船長の提案に、少年は腰を上げた。
雨は横殴りに襲って来る。波は甲板に乗り上げ、少年の足をすくう。腰のロープがなければすでに海の藻屑だ。
「しっかりしろ! お前のオヤジは軽々と歩いていたぞ!」
「はい!」
岩場より遥かに危険な遊びだった。父親がいたら、殴られて船室に押し込まれているところだ。
無闇に危ないことをするな。
野太い声がどこかから聞こえてきそうだった。
「立て!」
海は猛っていた。船長の声が掻き消されそうだった。
波と雨と風が船を包んで締め上げている。神の怒りにふれたのか、フォアマストは半ばから折れて、先端が甲板に刺さっていた。
「いいぞ、その調子だ!」
だんだんコツがつかめてきたようで、少年は多少のことでは転ばなくなった。倒れてもすぐに身を起こす。その様子を見て、船長はおだてる。褒めて、背中を押してやる。子供にはそのやり方が適していると、船長自身の経験が教えてくれた。
少年は肩の鞄を抱え直した。中身は良質のワインだ。
迷信深い船長は、ひどい嵐に出会ったら海に捧げ物をする。飲むためのものとは別にボトルを用意していた。航海が終われば、水夫たちでワインをあおるのが習わしだった。
「ロープは俺が持っているからな! 安心しろ」
少年が這い進むたびにロープを繰り出した。ロープは船長を経由してメインマストにくくりつけられていた。
「もう少しだ」
船長の呟きは誰にも聞こえない。雨が暗い笑みを隠す。
少年は船端にしがみついて立った。
「ボトルの栓を抜いて、放り込むんだ!」
「わかりました!」
船長は舷ににじり寄った。栓はきつく押し込んでおいた。簡単には抜けない。
「いかん!」
老水夫が船長の肩をつかんだ。
「……じじい、なんの用だ」
強く振り払った勢いで老水夫はたたらを踏むが、しっかりとした足腰が揺れる甲板を捉えて離さなかった。
少年は背後の騒ぎに気づいたが、栓を抜くことに集中した。ワインを投げ入れるのは船長との約束だ。
父が死んだとき、約束は必ず守ると決めていた。だから、岩場で遊ぶことはもうしない。嵐の船の上に出ることは、約束していなかったから怒られないはずだった。
「父親ばかりか、息子までも、海神に捧げることはなかろう」
老水夫は押し殺した怒りを叩きつけた。
「気づいてしまったか」
「前の時化のとき、坊主のオヤジが海に落ちたのはおかしいと思ったんじゃ。あの男がそんなヘマをするとは思えんからな。やはり、お前が絡んでいたのか」
「俺のやり方に口出しするな、父さん」
「やり方だと? 馬鹿息子! 迷信は迷信だ。縁起を担ぐならワインだけで十分じゃ!」
「嵐を鎮めるだけなら、そうだろうな!」
言うが否や、船長はロープを強く張った。老水夫はロープに足を取られて倒れた。傾いだ甲板をフォアマストまで滑って行った。
船長は身軽に濡れた甲板を走り、少年の前に立った。
「やっと抜けました」
満面の笑みを浮かべる少年の頬を張った。ワインボトルが転がり、波に攫われた。
「せ、船長?」
呆然とする少年に憐れみを覚えつつも、船長は彼を後ろ手に拘束し、船端に押しつけた。
「悪いな、坊主。俺は船長として儲けを出さなければならんのだよ。見ろ」
船長が指し示した海面は黒く沸き立っていた。
渦巻く海原。
崩れる波濤。
そこに彼らがいた。
「メロウ!」
少年は恐怖の叫びを上げた。昔話に登場する魔物だ。古代から棲息する海底人とも、海に沈んだ船乗りのなれの果てとも言われていた。
「奴らは、俺の取り引き相手だ。人間の命と引き換えに、海底の財宝をいただく」
少年は蒼白になった。ようやく自分の立場に気づいた。
「馬鹿息子、今なんと言った!」
老水夫が船長のロープを揺らした。顔面が赤く染まり、片目が潰れていた。折れたマストで怪我をしたのだろう。
船長はその様子に唇を噛んだが、目を背けてナイフを閃かせた。少年を結んだロープに突き立てる。水分を含んだロープは固く、繊維を傷つけるにとどまった。
「取り引きと聞こえたぞ。正気か、お前は」
老水夫がマストの上で見たきらめきは、メロウの鱗の反射だったと思い至る。
「船長と呼べ!」
「呼んでたまるか。船長なら船員を守らんでどうする。殺すなど、言語道断じゃ!」
老水夫は船長のナイフを奪い取ろうとした。
船長は生け贄を捧げるため、少年のロープにナイフをねじ込んだ。
少年は船長の拘束が緩んだ瞬間、必死に抗った。
船体が大きく傾いだ。
「あ」
無理な体勢をしていた少年の身体が舷を乗り越えた。老水夫は咄嗟に手を伸ばした。
荒れた海原に水柱が上がった。瞬く間に、波が彼らを押し隠した。
「じじい!」
船長は声を限りに叫んだ。船端を越えたのは少年だけではなかった。命綱のない老水夫も海に投げ出されていた。
不気味な黒い影が船よりも高い位置にある高波から頭を出していた。鱗に覆われた半人半魚の魔物が手を振る。取り引き成立の合図だった。
「じいさん」
すり切れたロープにかろうじてしがみついた少年は、船体に背中をぶつけていた。その痛みよりも、心の痛みが大きかった。
凪いだ海に漂う。
破損した船の修復に、水夫たちは大忙しだった。
老水夫の行方については、誰も口を開かなかった。少年が船に残っていることも同様だ。
「死んではいない」
船長の呟きに少年は顔を上げる。疲労と、悲しみと、くすぶり始めた怒りが、船長に殺意を向ける。だが、船の上では船長に従うのが掟だ。怒りをぶちまけるのは、陸にあがってからと決めていた。
「どういうことさ」
「メロウたちは、すぐには殺さない。マグ・メルに連れて行くだけだ」
「え?」
少年の瞳が揺れた。かすかな期待が滲んでくる。
「うちのじじいも、お前のオヤジも、まだ生きているかもしれん」
少年の顔に笑顔が広がった。船長はその顔をちらりと見て言葉を継ぐ。
「どうやって海の底に行くか」
「それは」
船長の暗い眼差しに、少年は肩を落とした。
船長は折れたマストに手をかけた。うっすらと血糊がついていた。老水夫の血だ。あの暴風雨の中でも消えていない。まだ生きていると信じられる気がしてくる。
「俺は行く」
「どうやって!」
射抜くほど鋭い視線が返ってきた。その目を見ているうちに少年は気づいた。
「自分自身を生け贄にする」
マグ・メルには、メロウが連れて行ってくれる。
待ち望んだ暴風が小型船を襲う。
「行くぞ」
「はい、船長」
船長の呼び掛けに、少年は頷いた。命綱はない。
メロウたちが招いている。
二人の息子は、大海原に身を投じた。




