婚約破棄は和やかに
ジェムナイト王立貴族学院の卒業記念舞踏会。
豪奢なシャンデリアが柔らかな光を降らせる中、わたくし――オフィリア・ドゥ・エストラはグラスを傾けていた。
卒業式の後に開かれるこの舞踏会は、貴族の子女にとって社交界への最後の予行演習のようなものだ。
華やかな装飾。
ホールを満たす楽団の演奏。
色とりどりにドレスが広がるダンス。
どれも美しい。
けれど、わたくしはこういう賑やかな場はあまり得意ではない。
気のおける友人と静かに刺繍でもしている方が好きなのだ。
とはいえこの場を放り出すわけにもいかず、こうして人々をただ眺めているわけだが。
「オフィリア・ドゥ・エストラ!」
その時、聞き慣れた声が会場に響いた。
わたくしはゆっくりと声の方へ視線を動かす。
予想通り、そこにいたのは婚約者であるユリウス・ドゥ・ジェムナイト殿下だった。
輝くような金髪に紫水晶を思わせる瞳。
美貌の王子として知られる方だ。
(あら、あの方は……)
そして、殿下の隣には一人の令嬢がいた。
ミュリエル・セージ様。
平民の出ながら神の恩寵なる神力を見出され、聖女と認定されたお方である。
彼女が最近殿下と親しくしているという噂は耳にしていた。
頻繁に個人的な会合を重ね、殿下から特別に贈り物をなさったとも。
そんな聖女様を連れて、一体何をなさるのだろう。
「なんでしょう、殿下」
問いかけると、殿下はどこか覚悟を決めたような顔で言った。
「君との婚約を解消したい!」
会場が静まり返る。
ああ、なるほど。そういうことですか。
わたくしは妙に納得してしまった。
最近の殿下のご様子を見れば、不思議な話ではない。
むしろようやく決心なさったのだな、という感想の方が近かった。
「そうですか」
だから素直にそう返した。
すると殿下が目を瞬かせる。
「それだけか?」
「他に何か必要でしょうか」
「いや……もっと驚くとか」
「殿下」
「うん」
「婚約解消を望んでいる方に『嫌です』と申し上げても、あまり建設的ではないかと」
どこかからくすくすと笑い声が漏れた。
殿下は微妙な顔になる。
その表情を見て、少しだけ申し訳なく思った。
わたくしは昔からこうなのだ。
軽い返しのつもりで言ったことが、妙に真顔なせいで相手の苦しいところへ刺さってしまう。
「そうか。では言おう、私はミュリエルを愛している」
気を取り直した殿下はそう続け、ミュリエル様の肩を抱いた。
けれど、わたくしはその瞬間、ある違和感に気付く。
ミュリエル様の顔色が悪い。
とても悪い。
愛を告白された乙女というより、猫に追い詰められた雛鳥のような顔をしている。
(どうしてかしら)
殿下の方を見る。
自信満々である。
ミュリエル様を見る。
今にも倒れそうである。
どう見ても温度差がある。
「殿下」
「何だ」
「ミュリエル様がお困りのようですが」
「そうか?」
「ええ、かなり」
わたくしが言うと、ミュリエル様は涙目で小さく頷く。
殿下が固まる。
「ミュリエル?」
「あ、あの……」
小柄な聖女様は、おずおずと口を開いた。
「殿下は、どうしてわたしを隣に置いて、オフィリア様との婚約を解消したいと仰っているのでしょうか」
沈黙。
見事な沈黙だった。
楽団の演奏すら止まった気がした。
「……え?」
殿下が驚く。
わたくしも少し驚いた。
噂では恋仲になっているものだと囁かれていたのに、今のミュリエル様は全く違う態度をとっているから。
ミュリエル様はおろおろしながら説明する。
「お茶はよくご一緒させてもらっていました」
「うん」
「でも、王子殿下からのお誘いですし、断るのは不敬ではと……」
「うん」
「贈り物もいただきましたが、その、あまりに嬉しそうに勧めてくださるので断れず……」
「……そう、なのか……」
ああ、なるほど。
わたくしは理解した。
殿下も理解したらしい。
顔色がどんどん変わっていく。
これは思い込みによる事故である。
しかもかなり大規模な。
「その……何度か遠慮させて頂きたいとは申し上げたのですが」
ミュリエル様が小さく言う。
殿下は天を仰いだ。
きっと思い当たる節があるのだろう。
会場中が何とも言えない空気に包まれる。
気まずい。
実に気まずい。
けれど、ここで誰かが何か言わなければ殿下は蒸気機関の圧力弁が壊れたボイラーみたいになりそうだった。
「殿下」
「……何だ」
「思い込みで機関車を走らせると脱線しますね」
「今そのたとえは心に刺さる」
「幸い、事故はまだ駅構内で済んでおりますよ」
「慰めになっているようでなっていない」
「そうでしょうか、爆発よりはましかと思ったのですが」
周囲から笑い声が上がる。
殿下も片手で顔を覆いながら肩を震わせている。
良かった。
少なくとも妙に気まずい空気は霧散した。
一つ息を吐いた殿下がミュリエル様に向き直り、頭を下げる。
「ミュリエル、君にはすまないことをした。本当に申し訳ない」
「い、いえ、わたしがもっとハッキリと言えばこんな事には。どうか頭をお上げください」
「私の立場と君の性格を考えれば早々に気付けた事なんだ、謝るのは当然だ」
殿下はミュリエル様に謝罪した。
王子という立場でありながら、きちんと頭を下げて。
それを見て、わたくしは少し感心した。
調子に乗りやすい方ではある。
けれど、自分の非を認められない方ではないのだ。
だからこそ嫌いではなかったし、尊敬もしていた。
「オフィリア」
ひとしきりの謝罪を終え、頭を上げた殿下がこちらを向く。
「はい」
「君はどう思う」
婚約のことだろう。わたくしは少し考えた。
そして正直に答える。
「婚約解消には賛成です」
ざわり、と周囲がどよめく。
けれど、それが本心だった。
「わたくしたちは良い条件の婚約者ではあっても、相性の良い婚約者ではありませんでした」
殿下は苦笑した。
「それはそうだな」
「お互い、相手に不満があったわけではありません」
「うん」
「ただ、少々趣味が違いすぎました」
わたくしは刺繍が好きだ。
可愛らしい小物も好きだ。
猫も好きだ。
静かな時間も好きだ。
一方、殿下は人と集まるのが好きで、舞踏会の中心にいるのが似合う方だ。
幼い頃は中庭を愛犬と共に駆け回り、成長した今でも体力作りと称しては愛犬と戯れているほどに犬が好きだ。
静かな時間も好きだそうだが、それよりも人を招いて、あるいは招かれて、賑やかに歓談する時間が好きだ。
壊滅的に合わないわけではない。
けれど、相性が良いわけでもない。
そんな関係だった。
「ですから」
わたくしは微笑んだ。
「円満解消ということでよろしいかと」
殿下が少し驚いた顔をする。
ああ、そういえば。わたくしが笑うと珍しいと言われていたのを思い出す。
「……君、そんな顔をするんだな」
「いたしますよ」
「初めて見た気がする」
「ご覧になられていなかっただけです」
殿下は何とも言えない顔で笑った。
その表情を見て思う。
この方は悪い人ではない。
少し思い込みが激しくて、
少し注目されると調子に乗って、
そして少し、自分の見たいものばかり見てしまうだけなのだ。
けれど、それは私達の年頃にはよくあること。
今夜の失敗を糧に学べばいい。殿下ならそれができるのだから。
「ところで殿下」
「何だ」
「次にお相手を選ぶ時は、告白をなさってきちんと確認された方がよろしいかと」
「やめろ」
「大切なことです」
「本当にやめろ」
会場が笑いに包まれた。
先ほどまでおろおろとしていたミュリエル様まで肩を震わせている。
その様子を見て、わたくしは張り詰めていた夜会の雰囲気が緩んだ事に安堵する。
婚約という契約は終わる。
けれど、それは決して悲しい終わりではない。
むしろ、お互いにとって良い区切りなのだろう。
そう思うと、不思議と肩の荷が下りた気がした。
帰ったら刺繍の続きをしよう。
先日から縫っている猫のクッションカバーが、そろそろ完成するはずだから。
そんなことを考えながら、わたくしは和やかに続く舞踏会の夜を眺めていた。




