どん底から
「あんた、ふざけんじゃないわよ!」
「きゃ!?」
店のバックヤードに、ヒステリックな怒声と悲鳴が響く。
突き飛ばされた私の背中に、本が敷き詰まった段ボールの山にぶつかって鈍い痛みがはしった。
外れたメガネが落ちて、手を伸ばしても届かない距離まで転がってゆく。
「佐田川薫子さん? あなたのヘボさとミスで私達がどれだけ無駄な苦労をさせられたか分かる?? 分かってないわよね? 意味不明な口答えをしてる時点でさ」
「で、でも……私には何のことだか……」
高圧的な態度でふんぞり返っている女性社員――鏑木 美衣奈が愉快気に私を見下ろしている。前からこの人には散々度を越えたハラスメントを受けているが、それにしたって今回は身に覚えがなさすぎて困惑するしかなかった。
「あなたが進めてた書籍フェアの企画。あちこち見積りやスケジュールがおかしくてそのままだと大損害を被るとこだったのよ。あなた、ウチを潰す気?」
「そ、そんなはずはありません! 何度も確認して関係各社とも擦り合わせをしました!」
「だから何? 現におかしい事になってたのよ? あたしが直前で気づかなかったらどうなってたか」
「……もう一度確認してください。どこかの段階で手違いがあったとしか……」
「あ、それは無理。あんたにはもう何もする権利がないから」
「え……」
「はいこれ、プレゼント♪」
「こ、これは……」
投げるように渡されたソレらは、解雇を通知する書類。
平たく言ってしまえば即座に私をクビにすると書かれている。
「あーあ、この程度で済ませるなんてあたしってばやっさし~ぃ。良かったわね、佐田川さん。損害賠償?とかがなくてさ!」
呆然としている私の耳に、悪魔のような鏑木さんの声が響く。
彼女の周りには何人ものスタッフ(私の同僚でもある)がいるが、その誰もが冷たい視線を浴びせてくるだけで止めようともしない。
私の味方は誰一人おらず、相手にはたくさんの仲間がいるような状況だ。
「はいはい、それじゃあ私物をまとめてさっさと出て行ってちょうだいな」
「そんなっ……きゃっ!」
私のロッカーに入っていた物を投げるようにぶつけられて痛い。
汚い物を見るような視線とくすくすと蔑む笑いが……痛い。
「あ、そうそう」
ショックで崩れ落ちそうな私に向かって、鏑木さんがわざとらしい意地悪な笑みを浮かべて耳打ちしてくる。
「引継ぎはしなくて大丈夫よ? 優秀なあたしがぜーーんぶあんたの分を請け負ってあげるから」
「え、えっ」
「……実はあんたの考えた企画、けっこういい感じなものだったみたい。取引先の人達が残念がってたわよ、良かったわね? 最後に人の役に――あたしに得をさせてくれて、あ・り・が・とっ」
ドンッ! と強く押されて、身体が無様に床の上に転がってゆく。
その拍子に近くに置いてあった掃除用具にぶつかり、バケツの中に入っていた水がバシャア! とこぼれた。
「ちょっとやだぁ! なにやってんのもうほんと鈍くさ♪ ちゃんと片付けてから帰ってね! あははははは♪」
何一つ悪びれた様子もなく、鏑木さんはお供を連れてバックヤードから去っていく。耳にいつまでも残りそうな嫌な笑い声をあげながら。
彼女らがいなくなったあと。
呆然としていた私は、ハッと我を取り戻してから急いで水が拡がっていく床を確認しながら拭いていく。
幸い、バックヤードに置いてあった本に被害はない。
「良かった…………」
いや、さっき起きたことは良くないんだけど。
それでも根っからの本好きとしては、大好きな本達が濡れなかったのにちょっと安心してしまう。
「…………………………お世話になりました」
掃除を終え、荷物もまとめ。
せめてそう言ってから別れるのが礼儀かと思い、誰もいない職場――元職場に挨拶をする。
――惨めだ。
心に重くのしかかる暗い気持ちを抱えたまま、私はスタッフ用の出入り口から鏑木さんのグループに見つからないように出て行った。
///
「やっぱり、お前とは今日でお別れだな」
「……え?」
間の抜けた声が漏れた。
目の前にいるのは佐藤連二。
若手のホープとして注目されていた人で、向こうから声をかけてきたのが切っ掛けで付き合い始めた男性だった。
「どういう……ことですか?」
落ち合ったカフェでいきなり切り出された言葉に頭が追いつかない。
目の前にいた連二は、とてもめんどくさそうに溜息を吐く。
「さっきも話しただろ? オレ、会社の上役に気に入ってもらえたみたいでさ。んで、こないだ娘さんと会ってみたんだけど、そっちも大層気が合ったんだ」
ウキウキで自慢げに語る連二の鼻が、天狗のように高くなっていく。
「やっぱりオレみたいなのを神様は見てくれてたってわけよ。とんとん拍子で話が進んで、もう結婚を前提にお付き合いをしませんか、みたいな流れになった」
「私のことは!? いつか結婚しようって言ってたじゃない!」
お互い至らないところがあっても、なんやかんやで心の支えになっていた男性。
そんな彼の身勝手な発言には、私の話を聞く気は一切感じられない。
それでも問わずにはいられなかった。
「あのなぁ、一応これでも悪いな、とは思ってるんだぞ?」
でも、と彼は付け加えていく。
「分かるだろ? こんなチャンスを逃せない。一般人から金持ちの仲間入りができるんだぞ」
「分からない……」
「はぁ~……まあお前が分からないなら仕方ないさ。つうかお前さ、最近色々辛いことがあったって聞いてたけど、さすがにどうかと思うぞ」
「なんの話?」
「鏑木さんから直接聞いた。大分やらかして迷惑かけた上に、嫌がらせもしてたらしいな」
「鏑木さんからって……一体どういう――」
「そりゃあオレだって相談ぐらい乗るさ。だけど、お前が裏で色々やってたってのは予想外だった。よくそこまで人様に迷惑をかけれるなって逆に感心したよ」
皮肉たっぷりの言動に鏑木美衣奈の名前。
私こそが声を大にしていいたいことを、まさか連二から告げられるとは。
「それは私じゃない! やったのは鏑木さんです!!」
「見苦しいな。自分の悪事をなすりつけるのか?」
「だから違うの! いじめも嫌がらせも全部あっちが――」
「いい加減にしろよ!!」
ドン! とテーブルを叩く音が私の言葉を遮る。
「もういい。こんな奴と付き合ってたなんて愚かで馬鹿らしかったのがよーーく分かった! やっぱり借金があると心も貧しくなるんだな」
「ッ!!」
完全に呆れ見下すような目で射抜かれる。
もうこの人は何を口にしても信じられないところまで行ってしまったのだろう。
借金は、出て行った父親がいつの間にか作ったもので私がどうこうではないと、知っているはずなのに。
「キミとはもう会わない。縁を切る。二度と彼女面をして欲しくないな」
「…………ッ」
「部屋に置いてある物は返さなくていいから、捨てといてくれ」
「れん――」
乱暴に言い放った連二が足早にカフェから出ていく。
一秒でも長くその場に居たくない。声も聞きたくない。
そんな空気でいっぱいだった。
「…………」
すとんと、力が抜けたように椅子に座りこむ。
一体私が何をしたというのか。辛く悲しい、叫び出したい気持ちで胸の内がドロドロになっていく。
……とゆうかアイツ、自分の支払いもせずに押しつけて出て行った?
これもまた嫌がらせだとすれば、なんとも小っちゃい。
「…………帰ろ」
今は何も考えたくない。
私はのそのそのろのろとカフェを後にして、家路を急いだ。
そして、悪い事は重なるとはよく言ったもので……。
「ああ、佐田川さん。話は聞いてると思うけど、すぐに準備しておくれ」
「はい?」
アパートに帰った私と会った管理人さんが告げてきたのだ。
「言いづらいけど、あんたはもうウチに住めないでしょ。社員を辞めるんだからさ、会社が用意してくれた部屋に居られないわけで」
「あ……」
「事前に告知されてたろ? そんなのも覚えてないわけ?」
「す、すみませ――」
「あー、いい、いい。謝らなくていいからとっとと出て行ってね」
言いたいことだけ言い終えて、管理人さんがどこかへ行ってしまう。
どうしよう、とても困る。
確かに考えてみれば会社の社員優遇で居た私がこのアパートに居られるはずもないのだが、それにしたって猶予が無さすぎないか。
「まさか……」
これでも鏑木さんの嫌がらせ?
あの人はどれだけ私のことが嫌いなのか。
でも証拠はない。これも私の被害妄想だと言われてしまえばおしまいだろう。
元々自分の持ち物が少ない私は、アパートを出るための後始末や準備にかかる時間は大して長くなかった。
ただ、それなりに持っていた手元に置いておきたかった本は量的にも持ち出すのは難しく……大半は泣く泣く売りに出すしか選択肢はない。捨てるよりかは誰かの手に渡ってくれた方が、まだ慰めるというものだ。
「…………バイバイ」
大好きな友達とお別れをするように本達の表紙をひとなでする。
買取額は今後の足しと呼ぶには微々たるものだった。
最低限必要なものを持ち、荷物はキャリーケースだけ。
職無し、住処無し、借金あり。
そして彼氏無し……は最早どうでもよくなるぐらいに小さいこtっかも。
「これからどうしよう……」
暗い夜道をとぼとぼ歩きながら途方に暮れる。
行く当てもないまま、何か良い案が浮かべばと歩いてみたが……そんなすぐに思いつきはしない。
歩いて歩いて、足が重く痛くなってきた辺りで私は道端のベンチに座り込んだ。今日の夜は一段と冷え込んでいて、吐く息が白い。
何より心が寒かった。
何もかもがイヤになって自暴自棄になりそうだ。
どうして私がこんな目に……そう考えずにはいられない。
「はぁ~……」
お母さん。
薫子はもうダメかもしれません。心がポッキリどころかボッキリいきそうで――。
『人はね、みんな助け合って生きているの。お母さんは薫子に優しくて誠実な子になってくれると嬉しいわ』
『誰かが困ってたら助けてあげなさい。その恩は巡りめぐってあなたに還ってくるから』
「辛くとも、挫けずにね』
ふと、心に刻まれた母の言葉が蘇る。
「…………お母さん。ごめんね」
あ、ダメだ。
ほんとに泣きそう……。
うるうると視界がぼやけていくのを感じながら、少しでも堪えるために楽しいことを考えようとする。
――――そんな時。
フラフラとふらついている危なっかしい人の足が目に入った。
「うっ……ぐぅ」
酔っ払い??
最初はそう思いましたが、その人――老紳士風のおじいさんが胸を押さえながら倒れ込むのに気づいて勘違いだと分かりました。
「大丈夫ですか!?」
「ぐっ、はぁはぁ……い、息が……うぐ!」
どう見ても大丈夫そうではない。
慌てて頭が真っ白になりそうな頭を落ち着かせながら、おじいさんに肩を貸してベンチまで連れて行き横にさせる。
「すぐに救急車を呼びますから!!」
携帯電話で119番を押すと、すぐに繋がる。
「緊急です!!!」
私の剣幕からすぐに状況を察した管制員さんが対応を始める。
おじいさんの状態や現在地をなるべくハッキリ伝えながら、苦しむおじいさんの手を取りながら励ました。
私に出来る事はそれぐらいだったからだ。
「しっかりおじいちゃん! 大丈夫ですよ、もう少しの辛抱です!!」
現場に救急車が駆けつけるまでの間、私は今の自分に出来る事をやり続けた。
――もし私がその場に居なかったら……その後の人生は全く別のものになっていたであろう事も知らずに。




