第7話 隣国の侵攻
延珠が来てから、沙羅と竜帝の間の関係は大きく様変わりした。
竜帝は朝、延珠と共に食事をする。一夜を共にしたのならばそのまま延珠の部屋で、そうでなければ、竜帝の部屋に延珠が赴く。
昼もわざわざ執務室から後宮まで戻って来る。延珠が後宮から出られないのであれば、自分が戻ればいい、というわけである。夕餉も同様で、竜帝は食後に政務のために出て行き、そして夜に寝に戻る。
今まで食後の薬を献上するのに、昼と夜は後宮の薬室から出なければならなかったところが、同じ建物内で済むようになった。楽になって嬉しい――わけはもちろんない。
竜帝と延珠は二人で食事をしていたとしても、食べさせ合ったり、きゃっきゃうふふしているわけではない。だからといって沙羅は二人仲睦まじくしている所をあえて見たいとは思わない。
それでも鳴伊に任せるのではなく自分が薬を献上しに上がるのは、筆頭専属薬師としての誇りがあるからだ。
それと、少しでも会いたいという想い。
竜帝は政務以外の時間を全て延珠に向けていた。沙羅が竜帝と言葉を交わせるのは、薬を持って行くときだけだった。中庭の散歩中に見かければ必ず延珠と共にいたし、薬草園に遊びに来ることはなくなった。あの花は常に咲いている株があるよう調整して育てているが、その甲斐なく全て散っていく。
やっと食事時に会えたとしても、沙羅は決まり切った言葉で持ってきた旨を伝え、捧げた盆から竜帝が椀を取り、そして再び置くまでの間、頭を下げてじっとしていることしかできなかった。
朝はこれに二人の体調を伺う文句がつく。しかしそれもたった一言「いつも通りだ」と言われて終わる。沙羅も「それはよろしゅうございました」と言うだけだ。
延珠の手前、気安い態度はとれない。そして竜帝も沙羅に気軽に話しかけるようなことはなくなった。
十年以上も前から続いていた、沙羅と竜帝との仲。たとえ恋愛としての意味はなくとも、それは特別なものだと、他の――それこそ側近である清伽よりも深い何かがあるのだと、そう思っていた。
だが、蓋を開けてみればどうだ。
竜帝にとって一番大切なのは延珠であり、清伽は変わらず冢宰として変わらぬ態度で竜帝と接している。
沙羅だけが――と思うのは間違いだ。他の妃嬪たちも、延珠が来てから指一本触れられていないという。どころか、竜帝は延珠以外の部屋には通ってすらいないのだ。言葉さえ交わすこともないのだという。
それでも、自分の居場所を盗られた、という思いがどうしても沙羅には湧き起こってしまう。それと同時に、やはり自分は竜帝にとってただの薬師の一人でしかなかったのだ、と強く強く思い知るのだった。
その知らせがもたらされた時、たまたま沙羅は後宮の竜帝の私室にいた。昼の薬を持ってきていたのだ。
竜帝が昼餉を終えるのを、じっと壁際で控えていると、不意に扉の外が慌ただしくなった。
どんどんどんどん、と強く扉が叩かれ、竜帝の返事を最後まで聞くことなく、扉が勢いよく開かれた。
転がり込んできたのは女官長だった。女官長は滑り込むようにして竜帝の前に平伏した。常日頃からその役職に恥じぬ優雅な物腰でいる彼女がこれほどまでに取り乱すのだから、余程の事が起こったのだろう。
「も、申し上げます! 果氷国が国境線にて攻撃を開始! 現在国境警備隊が応戦しているとのことです!」
「何っ!?」
叫び声のような言葉を受けて、竜帝が驚きの声を上げる。
果氷国は花炎国と国境を接している敵国で、花炎国の豊富な資源を狙い、これまでに何度も戦争を仕掛けてきていた。ここ一年は大人しかったのだが、宣戦布告もなしに攻撃を始めたらしい。
「冢宰及び軍司令官他、みな朝廷にてお待ちしております。どうか急ぎお戻り下さいませ!」
「行こう」
竜帝が立ち上がる。
「待っ――」
「お待ちください!」
呼び止めようとしたのは沙羅だ。そしてそれに被せるようにして延珠が竜帝に縋りついた。
「戦地に赴かれるのですか?」
「そうだ」
「どうか、どうかお止め下さい」
「わたしが行かずして誰が行く」
「危のうございます。竜帝様の御身に何かあっては大事でございます」
延珠は竜帝の上衣下裳の裾に顔をうずめ、涙混じりに訴えた。
「民を守るのは皇帝の務めだ。わたしが行けばすぐに収まる」
黒竜が戦場に現れれば敵軍は引くだろう。そうでなくとも竜帝は無理矢理に鎮める。黒竜の力は絶大で、一騎当千どころの話ではないのだ。負けるとわかっていて果氷国が攻めてくる気が知れない。
「なりません。どうか、どうかお聞き届け下さいませ」
延珠はひしっと竜帝の足にしがみついた。
「いくら片割れの頼みであっても、こればかりは聞けぬ。聞き分けておくれ」
竜帝は延珠の手を優しく自身から引きはがした。
「ではわたくしもお供いたします」
「それも出来ぬ。戦場は危ない」
両手で顔を覆う延珠に、竜帝は頭を振った。
「わたくしが竜帝様にして差し上げることはないのでしょうか」
「ここでわたしの帰りを待っていておくれ。それだけでわたしの力になる。いつもの事だ。心配しなくていい。必ず戻って来る」
竜帝は腰を落として延珠を壊れ物を扱うかのようにそっと胸に抱いた。その肩口に延珠が顔を寄せる。
沙羅の胸がずきりと痛んだ。
竜帝は名残惜しそうに延珠から体を離すと、立ち上がり、柔らかくとろけるような顔をきりりと引き締めた。
「竜帝さま」
その前に沙羅が進み出た。緊急事態だというのに、何事もなかったかのように薬の載った盆を竜帝に差し出した。
「ああ、忘れる所だった」
竜帝も普段通りの態度で薬を口にする。
実際、何という事はないのだ。何度も繰り返されてきた事なのだから。
「ご無事のお帰りを、お待ち申し上げております」
沙羅は壁際に避け、深々と頭を下げた。
本当は沙羅だって竜帝のことを引き止めたい。だがそれは許されないのだ。竜帝本人が言ったように、民を守るのは皇帝の務め。戦が起これば行かねばならない。黒竜が向かえば兵の命が助かる。
何も知らなかった昔は、出かけるという竜帝さまを笑って見送っていたっけ、と沙羅は思い返していた。
大丈夫。今回も怪我一つなく帰ってくる。
竜の鱗はそんじょそこらの武器では通らないほどに硬いのだ。空を飛ぶ黒竜を狙えるのは弓矢だけで、矢程度の威力では鱗に傷一つつけることすら叶わない。
「夕餉の前には帰る」
竜帝は沙羅の頭にぽんっと手を置いた。これまでずっと出陣する時にそうしてきたように。
きゅうぅぅぅっと胸が苦しくなる。
その仕草が嬉しくて、優しい手つきに胸がいっぱいになって、久しぶりに向けられた言葉に涙が出そうになった沙羅は、竜帝が部屋を出て行ってからもしばらく顔を上げることはできなかった。
延珠が沙羅をじっと見ていることにも気づかずに。
午後いっぱい、沙羅は竜帝を案じてまんじりともしない気持ちで過ごした。薬の調合を間違えそうになって鳴伊に注意されるほど集中できなかった。
ざわざわと胸が騒いでいた。なぜだか不安で仕方がない。大丈夫だとわかっているのに、竜帝の身に何か悪いことが起きるような予感がする。
延珠が来て気持ちが不安定になっているのだろう、と自己診断をして、気持ちを落ち着ける薬を飲んだ。プラシーボ効果なのか、少し落ち着いたような気がしたとき、宮中で悲鳴が聞こえた。
何があったのかと薬室を飛び出してみれば、「竜帝様が!」という声がいくつも聞こえる。「薬師を!」という声も上がった。
はっとした沙羅は薬室に戻り、霊薬の入った壺を抱えた。
「水と布を持って来て!」
鳴伊に指示を出し、竜帝がいるであろう中庭を目指して走った。
中庭に降り立った黒竜を見て、沙羅は一瞬足を止めた。
黒竜の左の肩から太い杭が生えていたのだ。その根元から腕へとだらだらと血が流れ、地面に赤い染みを作っている。
「竜帝さまっ!」
竜帝の金色の瞳が沙羅を捕らえたのを見て、弾かれるように沙羅は駆け寄った。
「大事ない」
「そんなわけないじゃないですか。ああ、ひどい……」
沙羅は傷口を見て口を手で覆った。杭は男性の腕ほどの太さがあり、それが鱗の鎧を突き通し、がっちりと肉に突き刺さっていたのだ。流れる血がてらてらと黒い鱗を濡らしていた。
「薬師様、どういたしますかっ!?」
「まずは杭を抜かないと。男手が必要だよね。ああでもここは後宮だし」
「抜いていいのだな」
慌てふためく沙羅に竜帝はこともなげに言うと、自らの大きな手で器用に杭をつかみ、引き抜いた。
ぶしゅっと血が噴き出る。杭の先には矢尻がついていた。
「きゃあっ!」
血を浴びた女官たちが悲鳴を上げた。一番近くにいた沙羅は、頭からもろに被った。
「そんな急にっ! 竜帝さまっ、今すぐ人の体になって下さいっ!」
この大きさでは薬がいくらあっても足りない。
もやりと黒竜の輪郭が揺らいだかと思った次の瞬間、片膝を立てて座り込む竜帝の姿がそこにあった。服の右肩が赤い血でぐっしょりと濡れている。
「この姿だと少し痛いな」
竜帝が顔をしかめる。
「肩を出して下さい。早くっ!」
沙羅が言うと、竜帝は着物の合わせに右手をかけて、左肩を出した。白く筋肉質の肩に、肉を抉ったような傷ができていた。
沙羅はぐっと唇を噛み、鳴伊が用意した水に浸した布を傷口に押し当てた。
竜帝は顔をしかめていたが、処置をしている沙羅の顔は引きつっており、竜帝よりもよっぽど痛そうな顔をしていた。黒竜の血にまみれているから、なおさら沙羅が怪我をしているように見える。
止まる気配なく流れてくる血を沙羅がそっと拭っていると、竜帝がそれを取り上げ、ぐいぐいと自分で拭き始めた。
「ちょっ、そんな乱暴な!」
「沙羅に任せているといつまでもかかる。さっさと治してくれ」
痛そうに目を眇めたままの沙羅は、鳴伊から蓋の開いた壺を受け取ると、中の霊薬をたっぷりと指に取った。綺麗なクリーム色をしたそれを、気持ち出血の収まった傷へと塗り込んでいく。
やはりたちどころに、とはいかなかったが、出血は少し落ち着いた。沙羅は傷口を乾いた布で押さえる。
「竜帝さま、動けますか? ここにいては傷によくないので、中に入ってもらいたいのですが」
「ああ。問題ない」
竜帝は自分で肩の布を押さえると立ち上がると、すたすたと中庭を横切って行った。
そこに、悲鳴のような声が上がった。
「竜帝様っ!」
延珠だ。
中庭へと降りる階段の上で座り込んだ延珠は、青い顔をして震えていた。
「大事ない」
足取り変わらず段を上って来た竜帝を前に、延珠がふらふらと立ち上がった。その足がぐらりとよろけ、それを竜帝が片腕で抱き留める。竜帝が自分で押さえていた布がはらりと落ち、一筋の血が腕を伝って肘から落ちた。
「こんなに血をお流しになって……! ですから行かないで下さいませと申し上げましたのに……!」
延珠は竜帝の胸にすがりついて泣いた。
「大事ないと言っているだろう。こんな傷、大したことはない。もう止まる」
「竜帝様の御身に傷をつけるなど、許せません……!」
「そんなに寄ると血がつく」
「着物が汚れることなど何の問題がありましょうか」
汚れるどころか頭からべったりと血にまみれていた沙羅は、新しい布を鳴伊から受け取ると、竜帝の肩に押し当てた。
命に関わる傷ではなく、霊薬で治すことができそうだということがわかって、パニックになりかけていた沙羅は、なんとか落ち着きを取り戻していた。
「竜帝さま。まだ処置は終わっていません。先に手当てをさせてください」
声に怒りが滲んでしまったのは仕方がないだろう。怒りの矛先は延珠だ。倒れかけたところをあろうことか傷を負っている竜帝に支えさせ、今は治療を阻んでいる。
「沙羅が怒っている。あとでいくらでも聞くから、少し待っていておくれ」
延珠は沙羅をきっと睨みつけ、ようやく竜帝から離れた。
「竜帝様がこんなお怪我をなされたのに、顔色一つ変えないなんて、薄情な女」
横を通る時に、ぼそりと延珠に言われた。沙羅が延珠にまともに話しかけられたのは初めてだった。ひどく冷たい声色だった。
「顔色を変えて処置ができないようでしたら、筆頭専属薬師失格ですので」
先ほどまで内心大慌てだったのを棚に上げ、沙羅は平坦な声で言った。竜帝の体を大切に思うのであれば、今は何よりも治療を優先すべきだろう。それを咎められる筋合いはない。




