第5話 初めての契り
次の日、竜帝の私室に行くのは憂鬱だった。
ちょうど朝餉を終えた時間だったが、きっと竜帝は部屋にはいないのだ。
昨夜は初夜――本来は結婚してから使う言葉だが、竜の場合は子供が生まれてから結婚となる――だった。二百年も待った邂逅なのだから、さぞかし盛り上がっただろう。
昨日の竜帝の様子を思い出して沙羅は一段と落ち込んだ。
昏倒した花嫁が目を覚ますまで、竜帝はずっと落ち着かない様子で、花嫁に対する愛の言葉を沙羅に伝え続けた。
花嫁が目を開けたときには大層な喜びようで、再び花嫁に抱きついたものだから、沙羅が慌てて引き離したくらいだ。
寝台に座る花嫁はたおやかで儚げで、それはそれは美しかった。
烏の濡れ羽色の髪は、つい今まで結っていたとは思えないほどに真っすぐで、さらりと背中に流れていた。同じ色の瞳は魂の片割れだと告げる竜帝の言葉に感激して潤み、頬は桃色に染まっていた。
清楚なのに艶やかで、同じ女性としてもぐっとくる表情だった。
対する竜帝の目元も赤く染まっており、金色の瞳は喜びに輝いていた。
慈しむような、それでいて欲情しているような。
こんな顔を見せられては、沙羅にも認めるしかない。彼女は正しく竜帝の魂の片割れなのだ。
見つからなければいい。花嫁なんていなければいい。
そんな醜い願いは粉々に打ち砕かれた。
その後、竜帝は政務を休み、一日中花嫁と寄り添って過ごした。花嫁は竜帝にもたれて幸せそうに目を閉じていた。その肩を抱き、愛をささやく竜帝の顔は満ち足りていた。
――同じ魂を持つのだ。惹かれ合うに決まっている。
竜帝の言葉通りだった。二人は強く惹かれ合っている。
行きたくない。
沙羅の足取りが重くなる。
だが、薬は専属薬師――基本的には筆頭専属薬師が直接届けることになっている。他人に託して毒にでもすり替えられたら大事だからだ。
多少の毒ごときで竜はどうにもならない、と竜帝は言うが、竜を殺すほどの猛毒と言われる竜殺石を盛られたら、たとえ竜帝であってもどうなるかはわからない。白家としてはそんな隙を見せるわけにはいかなかった。
扉を守る女性の衛兵に会釈をして、主のいない部屋の扉を叩いてから入室する。いつもは朝餉をとっているはずの竜帝はそこにはいない。
沙羅が知らず止めていた息を大きく吐く。いないのならば花嫁の部屋の方に行かなくてはならない。
と、寝室へ続く扉が開いていることに気がついた。
何げなく覗いて仰天した。
「なんでここにいるんです!?」
紺色の寝間着をしどけなく着崩した竜帝が、寝台の上で上体を起こしていたのだ。白い筋肉質の胸が見えていて、黒い髪が布団の上に流れていた。色気が半端ない。
「沙羅」
シーツの中で片膝を立てた竜帝が、髪をかき上げてため息をついた。
色気が更に増した。
「花嫁様のところに行ったんじゃなかったんですか? 一晩中あっちにいるものだと思っていました」
「できなかった」
「は?」
「できなかった、と言った」
竜帝が気まずそうに顔を背けた。
「はぁ!? できなかったって、できなかったんですか!? その、アレが役に立たなかったってことですか!? 竜帝さまが!? 昨日もシてないのに!? 薬、ちゃんと飲んだんですよね!?」
「飲んだ」
「えぇー……、私配合間違えた……? いつもの通りに調合ったはずなのに、なんで……?」
沙羅は両手で顔を挟んで狼狽えた。薬の配合を間違えるとは、筆頭専属薬師の名折れ、白家の恥だ。
「沙羅のせいではない」
竜帝が片手で目を覆った。
「……緊張して、できなかった」
「は? 緊張? なに童貞みたいなこと言ってるんですか。毎夜毎晩とっかえひっかえだったでしょう。今さら緊張? 何なら薬なんてなくたって余裕なくせに」
「……ようやく会えたと思ったら、感極まって」
「いやいやいやいや!」
あまりにも明け透けな話をしているのだが、竜帝から聞かされたことがとんでもなさすぎて、沙羅はそのことに気が付いていなかった。
その後も沙羅は日頃の竜帝の肉食っぷりを言い連ね、「あり得ない!」と叫ぶと、竜帝はまたため息をついた。
男性には責められたくない所だ。余計に役に立たなくなる。
「せめて添い寝だけでもしてくればよかったのに」
「追い出された」
竜帝を追い出す!
さすが魂の片割れともなると強いものだな、と沙羅は思った。
「それは……さぞかし花嫁様は気落ちなされたのでしょうね」
「ああ、泣かせてしまった」
「えと、その、何と言っていいかわかりませんが……」
沙羅にはその手の経験がない。知識として知っているだけだ。
「今夜再チャレンジしましょう。もっと強い薬作りますから」
ぐっと沙羅は拳を握って竜帝を鼓舞した。
「頼む」
これはいつものように朝餉の後に飲んで下さいね、と薬の茶碗を渡した沙羅は、決意のこもった足取りでずんずんと廊下を歩いていった。しかし途中からペースを落とし、どよんと落ち込み始めた。
竜帝と花嫁が昨夜何もなかったのは沙羅にとっては良かったことなのではないか。それなのに、もっといい薬を調合すると約束してしまった。薬師としての性が恨めしかった。
わざわざ帝都の外にある森に行って新鮮な薬草を採ってきたのに、明朝も竜帝は私室にいた。
「駄目だったんですか」
「駄目だった……」
竜帝はがっくりと肩を落としていた。
こんなにも情けない顔をしている竜帝を見たのは、沙羅にとって初めてかもしれない。小さな頃から接していた竜帝は、この世の誰よりもすごい存在で、何でもできる超人のように思っていた。
この顔を引き出したのがあの延珠だと思うと複雑な気持ちである。竜帝の感情がここまで揺さぶられるのは、相手が延珠だからこそなのだ。
「花嫁様のご様子は?」
「ショックを受けていたようだ。どうにかしようとはしてくれたが、なにぶん片割れも初めてのことで……」
まあそうだよな、と沙羅は思う。
妃嬪も、後宮に入ってから色々と勉強するのだ。花嫁が性技に精通していたら何だか嫌だ。初めてである必要はないのだが。
皇帝に経験のある女性が嫁ぐなど本来なら有り得ないことだ。しかしこと竜帝に限っては違う。なにせ待ち望む花嫁なのだ。子持ちだろうが何だろうが構いやしない。当人にだって政略結婚なり間違いなり事故なり犯罪なり事情は色々あることだろう。
もしも花嫁に相手や子供がいたのなら大変に不幸なことではあるが……こちらは皇帝であるから有無は言えまい。
まあ、十六歳になる前――花嫁選定の儀の前にそういうことが起こることは普通はない。もしかすると竜帝の花嫁になるかもしれない女性だ。
だから花炎国では強姦の類もとても少ない。万が一「当たり」だった場合に一族郎党がどうなるかと想像を巡らすことが出来る知恵があれば、ちょっとやそっとの事では手は出せない。十六歳になるまでは。
もちろん初めてでなかった場合、初夜の前に妊娠の有無を確認する期間を置くことになっていた。
「それで、また添い寝もせずにすごすごとお戻りで?」
「泣きながら一人にしてくれと言われたらそうするほかないだろう」
そこは粘って言葉だけでも精一杯愛を伝える所ではないだろうか、と沙羅は思ったが黙っていた。自分なら、たとえ繋がることができなかったとしても、体を寄せて眠れるだけで幸せだろう。
とはいえ、延珠とは言葉を交わしたこともないのだ。為人がわからない以上、勝手な想像で言うものではない。いざその時になれば、自分だってショックを受けて取り乱すかもしれないし。
「今夜は薬の種類を変えてみます」
「頼む。……沙羅だけが頼りだ」
そうだよな、と沙羅は再び思った。
側近とは言え、冢宰の清伽に相談するわけにもいくまい。主に男の沽券的に。かといって他の妃嬪に言う訳にもいかない。
竜帝の体に関することであれば白家に相談するのが当然だ。となれば、筆頭専属薬師である沙羅に頼るしかない。強壮剤を作っているのも沙羅だ。
どうせ契りの有無は延珠から聞き取っていて筒抜けで、沙羅だって知ってしまった以上は冢宰や白家に報告しないわけにはいかない。だが、自分で心の内をこぼすのと、事実だけが知られるのはまた別だ。
それに、沙羅だって「してないそうです」としか報告しない。「できないみたいです」なんてぶっちゃけるのは、もう少し後でいい。延珠だってきっとそこまでは言っていないだろう。
もしこれが何ヶ月も続くようであれば、沙羅一人ではなく白家で当たらねばならない問題となる。初めての契りは子を設けるためだけのものではないからだ。
人である花嫁は、そのままでは年をとるにつれて竜気の影響を受ける。それがなくとも竜よりも確実に早く命が尽きる。唯一の魂の片割れがそれではあんまりだ。
それを一気に解決するのが契りだ。魂の片割れが竜の精を受けると竜の性質を獲得するという。竜の姿になることこそできないものの、竜気の影響を受けなくなり、寿命は片割れの竜が死ぬまでに延びるのだ。体も少しだけ丈夫になる。
だから、ずっと「できません」というわけにはいかない。だがまだ焦る時でもない。焦ればさらに悪化してしまうだろう。周りには、初めての花嫁を竜帝が気遣っている、くらいに思わせておけばいい。
竜帝から空の椀を受け取った沙羅は、さてどの薬がいいか、と思いを巡らせながら薬室へと戻った。
数日かけて、なんとか竜帝を花嫁は契りを交わした。
その間、毎朝沙羅は竜帝を励まし続けることになったのだが、人間ならば次の日いっぱい収まることはないだろう、という超強力な強壮剤を作ってもなおこれだけ時間がかかったのだから、もしかすると沙羅のお節介な励ましが悪い方へと作用していたのかもしれない。
とにもかくにも遅ればせながら初夜が行われ、ついにこれで竜の子が……! と白家の長老たちは泣くほど喜んだ。
だが、その後三ヵ月たっても花嫁は子を宿さなかった。
タイミングを計ったり、ともすれば毎日通いたがる竜帝を、花嫁が疲れてしまうからと止めたり、白家は代々積み重ねてきた知識を総動員して二人を応援した。
竜帝は竜だが、花嫁は人間だ。ならば、人間式のやり方が通用するはずだ、ということである。
花嫁にしてみれば、三ヵ月もたったのに、というのは酷だ。妊娠は運もある。一年以上子ができなくてもおかしくない。
しかし、竜は繁殖力が旺盛で、相手を簡単に妊娠させてしまうはずだった。長寿とはいえ唯一の花嫁としか子を作れないのだから、その分最初の子は早くできる。
竜帝自身がそう言っていたのだと、白家の伝承にはあった。
現実に子が出来ていない今、この伝承は本当ですか、と直接竜帝に聞けるはずもないが、今まで竜帝の言葉に関して白家が代々伝えてきたことに嘘はなかった。ならば、少なくとも竜帝がそう言ったのは確かなのだ。
ではなぜ子が出来ないのか。
簡単だ。花嫁が偽りなのだ。
そんな風に、花嫁に対して懐疑的な目を向ける者が、早くも白家の中に現れ始めた。二百年の時を経てようやく見つかった花嫁に対し、過度な期待をしてしまったが故の反動だった。
疑っている側は、唯一の客観的な証拠である子ができないことを根拠とする。
一方、竜帝の言葉を信じている側は、他ならぬ竜帝が魂の片割れだと言っているし、その態度を見れば花嫁を大切にしていることは明白だ、という。
政務の間は竜帝はいつも通りにしている。しかし一度花嫁の前に出れば、ひと時も離れたくないとばかりにぴったりと寄り添い、政務のために離れるときにはひどく名残惜しそうにする。
これが魂の片割れでなくて何なのか。
竜帝が自ら花嫁の元を離れたのは一度きり。花嫁を見つけたその日、沙羅に報告に行ったときだけだ。あれを最後に、竜帝は誰かに促されるまで花嫁から離れなくなった。
沙羅はその姿を見るたびに胸の痛みを堪えていた。
お似合いの二人だ。
花嫁は見た目だけではなく、中身も竜帝に相応しかった。
言葉遣いが丁寧で、物腰は柔らかい。伏せた目には色気が滲み出ており、竜帝が囁けば嬉しそうにはにかむ。教養があり、琴、歌、詩吟、舞踊――どれも素晴らしかった。
沙羅にはできない。何一つ。
薬を作ることだけが沙羅にできる唯一のことだった。
沙羅は、花嫁の爪の先まで磨かれた染み一つない美しい手を見ては、薬草を扱うことで荒れた自分の手を恥じて隠した。
やがて子を宿し、完璧な花嫁となるだろう。
沙羅はそう思っていた。




