第14話 親友との別れ
結婚の話を聞かされ、何もする気が起きず――そして何もすることがなく――沙羅はその日一日中、自室の寝台に座ってぼーっとして過ごした。昼食を食べる気力も湧かなかった。
頭の中は空っぽで、何も浮かんでこない。ただただ時間だけが過ぎて行った。竜帝への気持ちと一緒に、他の感情までもが全て心の奥底に埋もれてしまったかのようだった。
いつの間にか夕方になっていて、夕日が射し込んだ部屋は知らない人の部屋のように見えた。あんな所にあんな物置いたっけ、と記憶が混乱してくる。
一度思考が戻ってくると、その後はとめどなく様々な感情があふれてきた。
初めて竜帝を見た時、何と綺麗な人だろうと驚いた。特にその瞳の色に魅了された。妃嬪はたくさんの宝石を身に着けていたが、どの宝石よりも輝いていて美しかった。
白家の娘は竜帝に仕えるために幼い頃から竜の姿に慣れさせられる。初めて黒竜の姿を見た時はその大きさに圧倒された。太陽の光を反射してつやつやと輝く鱗は竜帝の髪の色とそっくりで、瞳の色も同じだった。竜帝は本当に竜なのだと実感して、何だか嬉しくなった。
平伏していた世羅の横でその姿に見とれていると、竜帝が沙羅の名前を呼んだ。低く、何重にも重なっているように聞こえるそれは、優しい響きをしていて、沙羅は思わず黒竜に駆け寄った。
世羅や周りの女官たちが慌てたが、沙羅はそのまま竜帝の前脚に取りついた。硬いけど柔らかい、冷たいけど温かい、そんな不思議な触り心地だった。竜帝が顔を寄せてきたので、小さな手でぺちぺちと叩いたところ、焦った世羅に引き離された。
黒竜に怖くないのかと聞かれ、どうして、と聞き返した覚えがある。尖った牙も、鋭い爪も、縦長の瞳孔をした目も、何一つ怖くはなかった。子どもは怖がって必ず泣き出すのだと言われて、沙羅には不思議に思えた。人型の竜帝と同じで、その姿をとても綺麗だと思っていたのだ。
何度目かに黒竜の姿で会った時、黒竜が背に乗ってみるかと言った。それは冗談だったのだが、沙羅が目を輝かせて喜んだので、本当に乗せてもらえることになった。
幼子を一人で乗せるわけにもいかないと、他に誰か乗らないかと黒竜は聞いたのだが、畏れ多いと誰しもが固辞し、結局沙羅が一人で乗ることになった。転がり落ちでもしたら、と周りは心配していたが、黒竜は落とさないと言ったし、沙羅には全くその不安はなかった。
それから何度も沙羅は黒竜の背に乗せてもらうようになった。まだ一人で梯子を上れない沙羅のために、竜帝は人の姿で沙羅を背負ってから竜の姿になった。誰からも恐れ畏まられる竜帝は、その瞳を恐れずに真っ直ぐ見返してくる沙羅を面白がり、よく遊んでくれた。
沙羅が筆頭専属薬師となるのは、生まれた時から決まっていた。父親の杜南は宮廷で専属薬師を務めていたから、沙羅も専属薬師となることになっていたし、であれば順繰りに筆頭専属薬師にもなる。沙羅と最も歳の近い従姉と歳が離れていたため、長いお勤めになると考えられていた。
だから沙羅は当たり前のように薬についての知識や技能を叩き込まれたし、そのことを当然のように受け入れていた。それ以外の選択肢を考えたことすらなかった。
沙羅がはっきりと自分の意思で薬師として竜帝のためになりたいと思うようになったのは、筆頭専属薬師になってからだ。そのとき沙羅はまだ十四歳だった。先代が後宮にいられなくなってしまったため、若くしてお役目を継いだのだ。
筆頭専属薬師になってから最初に黒竜の背に乗って下界を見渡している時、黒竜に「この国を守るために沙羅が必要だ」と言われた。竜帝への想いはそれ以前から持ってはいたが、それはただ好きだという気持ちだった。それが、竜帝のために生きたい、という思いに変わった。
十六になったとき、そしてその歳で花嫁選定の儀を竜帝の側に控えて見ていたとき、選ばれなかったことで沙羅はひどく落ち込んだ。もしかしたらと淡く抱いていた希望は砕け散り、自分がただの薬師でしかないことを思い知った。
それでも竜帝のために毎日を過ごしていられたのは幸せだったのだ。竜帝が、沙羅、と名前を呼ぶだけで嬉しかったし、背中に乗って色々な話をするのは楽しかった。平伏しなくても咎められず、軽口を叩く。そんな特別扱いがくすぐったかった。そしてずっとそんな日が続くと思っていた。
それが突然の終わりを迎えたのは、あの日、延珠が来た時だ。
竜帝自身から直接それを告げられた時、沙羅は驚きショックを受けながらも、竜帝に祝いの言葉を送った。それは確かに本心からの言葉だったのだ。沙羅は竜帝が待って待って待って、花嫁選定の儀のたびに落胆しているのを知っていた。二百年も待ち続けて、ようやく魂の片割れに出会えた喜びが、体全体からあふれていた。
なのに、それから一年以上もたち、竜帝と離れるという段になって、今さらまた落ち込んでいる。何なら延珠が見つかったときよりもショックを受けていた。沙羅が結婚してしまったら、本当にもう全ての希望が潰えてしまうと思った。
竜帝と一緒になれないことは、十六の時にとっくに判明していたのに。もう五年以上も前のことだ。
子供を産み、白家を存続させるのも竜帝のためにできることの一つだ。子供ができないならともかく、作る選択肢を取らないなんて、白家の娘に許されることではない。
香瀬とならいい家庭を築くことができる。香瀬は子供の面倒をよく見るいい父親になるだろう。それは期待ではなく確信だ。長く共に過ごしてきたのだから間違いない。
だけど。だけど――。
竜帝が延珠に触れる所を思い出して、ずくりと胸が痛んだ。
延珠を呼ぶ柔らかな声。熱を持った視線。つややかな髪を優しく梳く手。
どれも沙羅には向けられたことのないものだ。
どうして。どうして私ではないの。絶対に私が一番竜帝さまを想っている。花嫁様よりもずっと――。
押し込めようとすればするほど、泉のようにこんこんと湧いてくる。つらいばかりの想いだった。
一人ではやり過ごせないほどに苦しくなってしまった沙羅は、また話を聞いてもらおう、と結亜の元に行くことにした。想いを言葉に出してしまえば、少しは楽になるかもしれない。二日連続になってしまうが、きっと結亜は許してくれるだろう。
その辺を散歩して時間を潰し、仕事終わりの時間まで待って部屋に行くと、結亜は嫌な顔一つせず、快く沙羅を迎えてくれた。
結亜はお茶を飲みながら沙羅の結婚の話を聞くと、そっか、と一言だけ言った。
結亜もいつかそうなると思っていたのだ。しかし今まで、その可能性を一度も沙羅に指摘することなく、ただ沙羅が竜帝を想う気持ちを聞いてくれていた。
その優しさに、沙羅はまた涙をこぼしそうになった。ここのところ泣いてばかりだ。涙腺が緩んでいる。
「子供を産むことも、沙羅が竜帝様にして差し上げられることの一つだよ。立派なお役目。とびきり頭のいい女の子を産んで、腕のいい筆頭専属薬師に育てないと!」
杜南に言われたときや、自分で言い聞かせたときよりも、ずっと心に響いた。沙羅の想いを聞き続けてくれた結亜の言葉だからこそ、そう思える。
「そうだね。竜帝さまのために、たくさん子供を産むよ」
沙羅は頷て、小さな声ではあったがしっかりと言った。
その後は二人で寝台に潜り込み、たわいもない話をした。後輩の失敗談を結亜が話すと、それ結亜もやってたよね、と沙羅が突っ込み、二人でくすくすと笑った。
そろそろ寝ようか、という話になったとき、急に結亜が頭を押さえて呻き出した。
「う……うぅ……」
「え、ちょっと結亜、大丈夫?」
沙羅が慌ててランプに火をともす。
結亜の額には脂汗が浮かんでいて、顔は痛みにしかめられていた。歯を食いしばり、ただただ唸り声を上げている。
沙羅はこの症状を良く知っている。これまで何度も見てきた。
「誰かっ! 誰か来てっ!」
部屋の扉を開けて叫ぶ。
結亜を急いで後宮の外に出さなければならない。
この頭痛は、竜気の毒によるものだ。
後宮の外、宮廷の医務室に運び込まれた結亜を、沙羅自身が診察した。最初の推測通り、竜気に長くさらされたことによるものだった。
苦しむ結亜には、沙羅が毎日飲んでいる薬の薬効を強めた物が与えられ、症状は落ち着いた。副作用による頭痛と吐き気はあるのだが、頭が割れるようだという強い痛みからは解放される。
こうなってしまうと、昼間はよくとも、夜はもう後宮で過ごすことはできない。結亜が後宮を去る時が来たのだ。
沙羅は愕然としていた。
いずれ自分も出て行けるのだから――かつてホームシックにかかった結亜にそう言ったのは沙羅だ。こうやって何人もの女官や妃嬪が後宮を出て行くのを見て来た。
だが、自身の結婚と同じで、漠然と思っていただけで、現実になるとは考えられていなかったのだ。
自分の愚かさに、沙羅は打ちのめされた。
結亜の退職はその夜のうちに決まった。というか、これ以上後宮にいられないのだからそうするしかないし、今までの他の女官や妃嬪もそうだった。
次の日の昼間に自室の荷物を取りに行き、これまで貯めていた給金と、しばらく帝都にいられるだけの宿泊費、そして郷里に帰るための交通費を与えられ、宮廷を後にするのだ。
沙羅は当たり前に結亜を見送りに行った。専属薬師でなくなっていなければ仕事で来られなかったかもしれない。初めてお役目を外されたことに感謝した。
「沙羅、今までありがとう!」
宮廷の門の前で、私物の入った大きな鞄を地面に置いた結亜は、沙羅を抱きしめて言った。
「沙羅がいてくれなかったら、あたし、最後までいられなかった! このお給金を持って帰れば家族にいい暮らしをさせてあげられるわ。弟たちにたっくさん美味しい物を食べさせてあげられる。妹をお嫁に出してあげることもできる。本当にありがとう!」
「私の方こそ、ありがとう。結亜にたくさん話を聞いてもらって、気持ちの整理ができた。今までずっとそうだった」
「もう! 泣かないの! あんた普段は澄ました顔でいるくせに、意外に泣き虫よね。笑って送り出してくれないと! 二度と会えなくなるわけでもないんだから。帝都に来るときには絶対に連絡するし、沙羅もあたしの村に遊びに来てよ」
「うん……」
沙羅は鼻をすすり上げた。
「手紙、書くわ! たっくさん! うちの村からじゃ、結構時間かかるけど。せっかくここで文字も覚えたんだから」
「私も書く。たくさん」
「幸せになりなさいよ!」
どきっと沙羅の心が跳ねた。
幸せに、なれるだろうか。
「大丈夫よ! お相手の従兄――香瀬って言ったっけ? 優しい人なんでしょ? 大丈夫。沙羅なら絶対に幸せになれる。あたしが保証するから!」
結亜は沙羅の表情から気持ちを読み取って、沙羅を励ました。ぽんぽん、と優しく沙羅の背中を叩く。
「ありがとう……。結亜も、幸せになってね」
「当ったり前よ! この美貌をもってすればイイ男なんて釣り放題なんだから! ――ちょっと、今笑ったわね!?」
そう言う結亜も沙羅と一緒に笑う。
「本当に結亜なら絶対いい人が見つかると思うよ」
「当然よ!」
二人は体を離して両手を握り合い、見つめ合った。
「沙羅、本当にありがとう。またね」
「結亜もありがとう。また」
結亜は後ろを向いて鞄を持つと一、二歩足を進めた。
かと思うと、くるりと振り返ってどさりと鞄を落とし、沙羅をもう一度ぎゅっと抱きしめた。
「ごめんね」
耳元で小さく呟かれた言葉。
それはこんな状態の沙羅を置いていってしまうことへの謝罪の言葉だったのだろう。どこまでも優しい結亜に、沙羅の心が温かくなった。
鞄を拾い上げた結亜は沙羅に泣きそうな笑顔を見せた後、今度こそ真っ直ぐ歩いて行った。一度も振り返らなかった。
沙羅はその背中が見えなくなるまで見守ってから、後宮へと戻った。




