表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ステータス『0』の観測兵 ~クラス転移を離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~  作者: ハルキーノ
第三章 ”自己”

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

92/128

五章一話 名簿にない場所

《王録》 五章 一節

『名簿にない場所にも、戻る音を待つ小さな祭壇がある。』


 朝の西詰所は、昨日より少し狭く見えた。


 人が増えたわけではない。


 荷が増えたわけでもない。


 ただ、受付机の端に小さな木箱が一つ置かれていた。


 白い板。赤い線。


 曲がりかけた字。みちしるべ。


「……これ、何ですか」


 僕が聞くと、受付職員は顔を上げずに答えた。


「仮置き箱です」


「仮」


「正式な備品棚に入れるには、まだ名簿上の所属がありません。ただ、毎回こちらで探すと手間です」


 言い方は事務的だった。


 でも、箱はもう置かれている。


 手間。


 その一言で箱が置かれるなら、世の中の居場所は意外と手間でできているのかもしれない。


 いや、さすがに言いすぎだ。名簿にはない。棚にもまだない。


 それでも、机の端にはある。仮置きのままでは、依頼のたびに人と道具を借り直すことになる。この箱を正式な棚へ上げる。そのために、まず今日の共同作業を終える。僕は箱の前で、少し立ち止まった。


「……邪魔でしたら、どこか別の場所へ移しますよ」


 僕が恐る恐る提案すると、受付職員は羽ペンを走らせる手を止め、一度だけ顔を上げた。その視線は箱の中の、まだ整理されていない道具の山を数秒間だけなぞり、それから僕の目を見た。


「邪魔ならば、そもそもここには置きません。……まだ名簿にないものは、目に見える場所に置いておくしかないのです。消してしまわないように」


 言い方は事務的で、どこか突き放すようでもあったが、彼女の指先が箱の縁をかすめる動きだけは、驚くほど丁寧だった。


 それで話は終わりだった。


 終わりのはずなのに、僕はまだ箱を見ていた。


 ニコの字は、昨日よりまっすぐになっている。


 まっすぐになったせいで、少し寂しい。


 いや、何を考えているんだ僕は。


「曲げ直した方が……いいですか」


 昨日のような『歪さ』が欠けていることに、僕はどうしようもない居心地の悪さを感じていた。思わず漏らした問いに、受付職員は帳簿から顔を上げずに応じた。


「わざわざ歪ませる必要はありません。昨日と同じことを言わせないでください」


「……すみません。昨日のことも、覚えているんですね」


「名簿には載っていませんが、私の仕事は昨日起きたことを忘れないことです。あなたが成長しているのなら、それを記録するだけです」


 成長。それでいいのだろうか。


 たぶん、いい。ラドさんが奥から出てきて、箱を一瞥した。


「看板屋になったか」


「仮看板です」


「仮の看板屋か」


 ラドさんは訂正を聞き流し、白板の縁を指で叩いた。


「違います」


「似たようなもんだ」


 そう言いながら、ラドさんは一枚の依頼票を僕の前に置いた。


 依頼票には、北二番水場の案内札確認とある。


 雨天後に矢印の視認不良が出たため、保守組立会いで確認。危険度は低。ただし夜間通行あり。


 低。


 低い、はずだ。


 でも、旧木炭道も最初は軽い依頼だった。


「受けるか」


 ラドさんが聞く。昨日は、すぐ受けなかった。


 今日は、すぐ答えなかった。依頼票を見る。水場、矢印、雨、夜間通行。


 見間違えた誰かが、水を探して違う道へ進む。


 それだけで、十分に面倒なことになる。


「受けます。ただ、夕方の見え方も確認したいです」


「朝に行って、夕方にも行く気か」


「一回で分かるなら、昨日の白板も一回で終わっていました」


 ラドさんは鼻を鳴らした。


「言うようになったな」


 返事は、椅子のきしみのあとに来た。

「すみません」


「謝るところじゃない」


 受付職員が依頼票に短く追記する。


 午前確認。


 夕方再確認。


 仮置き箱より白板一枚、赤線二本、予備杭一本を持出。


 仮置き箱。


 その文字が、紙の上に載った。


 名簿にはないのに、箱の名前は書かれるらしい。


 少し、秘密基地の備品欄みたいだと思った。


 思った直後に、受付机の奥で羽ペンが走る音がして、その考えは引っ込んだ。ここは遊び場ではない。持ち出したものが戻らなければ、誰かが探しに行く場所だ。



 北二番水場は、街道から少し外れた場所にあった。


 旧木炭道ほど危なくはない。


 道は広い。


 足元も固い。


 水場の周りには低い石組みがあり、通行人が水を汲めるようになっている。


 ただ、案内札が二つあった。一つは街道側。一つは水場の脇。


 どちらも矢印がある。街道側の札は、右。水場脇の札は、戻る方向。


 普通に見れば、問題はない。普通に見れば。普通という言葉は、現場ではよく外れる。


 最近、それを何度も見ている。できればそろそろ当たってほしい。


「雨の後だと、ここの石が光るんです」


 保守組のイラが、石組みの縁を指した。


「水が乗ると、矢印の赤が反射して、逆向きにもう一本あるように見えます」


「逆向きに」


 僕はしゃがんで、石の表面を見る。薄く水が残っていた。朝の光が、そこに斜めに入っている。


 赤い線が、石の中で少し伸びて見えた。頭の端に、数字が浮く。2。


 二、のはずだ。たぶん。四章の迷宮ではもっとすぐ形が決まった気がするが、今日はやけに輪郭がゆるい。


 札の数。矢印の数。


 反射した線の数。どれかは分からない。


 でも、二つに見えるということだけは合っている。


 僕は手帳を開いた。


 北二番水場。朝、晴れ。水面反射あり。


 矢印が二重に見える。数字、2。断定不可。


「また断定不可ですか」


 保守組のイラが覗き込む。


「便利なので」


「逃げ道って言ってませんでした?」


「便利な逃げ道です」


 言ってから、少ししまったと思った。


 でも、彼女は笑った。


 笑ってから、すぐ真面目な顔に戻る。


 その切り替えが、少し羨ましかった。僕はまだ、軽口を言ったあとで、それが軽口で済むのかどうかを一拍遅れて確認している。


「どう直します?」


 僕は札と石を見比べた。赤い矢印は目立つ。でも、水に映ると増える。


 旧木炭道では、赤が黒に沈んだ。ここでは、赤が水で増える。目印は、場所によって嘘をつく。


 いや、嘘ではない。見え方が変わるだけだ。


「矢印を一本足すより、反射しない位置に白板を置きます。水場の脇には、矢印ではなく文字で戻り方向を書いた方がいいです」


「文字を読む前提ですか」


「夜間通行者には弱いです。だから街道側に先に大きい白板を置いて、水場脇は補助にします」


「予備杭一本で足りますか」


 僕は持ってきた杭を見る。一本。


 足りない。足りないのに、依頼票には一本と書いた。


「足りません」


 口に出すと、軽かった。


 保守組のイラは頷いた。


「じゃあ今日は仮処置ですね」


「はい。午前は仮処置。夕方に見え方を確認して、追加杭を申請します」


 手帳に書く。


 追加杭二本、白板一枚。赤線ではなく黒文字。


 夜間用に小型反射石、要相談。相談。


 自分一人で決めないための言葉だ。たぶん、今はそれでいい。



 夕方、もう一度水場へ戻ると、朝よりずっと分かりにくかった。


 赤い矢印は暗い石に沈み、白板だけが先に浮いた。


 仮処置としては、たぶん悪くない。


 ただ、水場脇の古い札は、やっぱり迷う。


 ラドさんが腕を組んで言った。


「どうする」


 紙の角が、指の腹で押し戻された。

「今日は外しません」


「理由」


 短い問いに対して、僕の返事だけが少し長くなった。


「水場の場所を知っている人には、古い札も使われています。急に消すと、逆に迷うかもしれません」


「じゃあ残すのか」


 古い札の釘穴が、板の端に黒く残っていた。


「残したまま、補助を足します。朝と夕方の見え方を両方書いて、保守組で決めてもらいます」


 ラドさんは少し目を細めた。


「お前が決めたいわけじゃないのか」


「決めていいことと、決めたら駄目なことがある気がします」


「気がする、か」


「はい」


 言い切れない。


 でも、言い切れないことを言い切るよりは、たぶんましだ。


 ラドさんはそれ以上言わなかった。


 帰り道、革鎧の男とすれ違った。


 彼は僕の持っている白板を見て、口の端を上げた。


「今度は水場か、看板屋」


「仮看板です」


「はいはい、仮看板屋」


 からかいは残っている。


 でも、彼は腰の袋から古い釘を二本取り出して、僕に投げた。


「曲がってるが、打てる」


 答えは、靴底の擦れる音より遅かった。

「いいんですか」


「使えなきゃ捨てろ」


 釘は錆びていた。でも、頭は潰れていない。


 僕は受け取って、礼を言おうとした。その前に、男は背を向けた。


「雑用組は、釘くらい持っとけ」


 雑用組。その言い方は変わっていない。でも、今日は釘が二本増えた。


 何かが変わったのかもしれない。何も変わっていないのかもしれない。


 とりあえず、釘は使える。僕はそれを荷袋の端に入れた。



 西詰所に戻ると、仮置き箱の横に小さな札が増えていた。


 みちしるべ。持出中。


 その下に、受付職員の字でさらに小さく。返却確認、羽黒。


「僕の名前が」


「返却者欄です」


「所属名簿ではなく」


 紙面の上で、欄の線だけが妙にはっきり見えた。


「違います」


 受付職員は、いつもの調子で言った。


「正式なクラン名簿には載っていません。審査中です」


「はい」


「ただ、備品の所在は記録します」


 備品の所在。


 人の居場所ではない。


 道具の場所だ。


 でも、白板を戻す場所があり、釘を入れる袋があり、紙に僕の名前がある。


 それは、不思議だった。


 ニコが荷置き場から顔を出した。


「看板、見た?」


「見ました」


「字、まっすぐでしょ」


「まっすぐでした」


 白板の字は、確かにまっすぐだった。釘穴の方が少し曲がっている。


「曲げなくてよかった?」


「はい」


 ニコは満足そうに頷いた。


 それから、少し声を落とす。


「ここ、みちしるべの場所?」


 僕は答えに詰まった。


 ここだと思った。


 受付机の端、仮置き箱、持出中の札。白板と、曲がっていない字。


 正式な場所ではない。


 名簿にもない。


 でも、誰かがそう呼んだ。


「まだ、たぶん違います」


 そう言ってから、箱を見る。


「でも、ここに戻すものはあります」


 ニコは少し考えてから、頷いた。


「じゃあ、戻す場所じゃん」


 戻す場所。


 その言い方は、少し乱暴だった。


 でも、分かりやすかった。


 受付職員が報告書を受け取り、控えを一枚こちらへ戻す。


「北二番水場、仮処置完了。追加資材申請。夕方視認記録あり。みちしるべ、二件目の共同作業として保留記録に入れます」


「保留記録」


「正式記録の前段階です」


 また仮だ。


 また保留だ。


 それでも、前段階はゼロではない。


 仮と保留ばかり集めたら、いつか正式になるのだろうか。


 ならない気もする。


 でも、ゼロよりはずっと音がする。


 僕は控えを受け取り、仮置き箱の横に重ねた。


 一枚目。旧木炭道。


 二枚目。北二番水場。


 紙が二枚になると、箱の中で少し音が変わる。


 軽い。


 でも、空ではない。


 ラドさんが扉の横で手袋を外していた。


「これで満足か、代表候補」


「満足かどうかは、まだ分かりません」


「じゃあ何だ」


 僕は箱を見た。王城の部屋ではない。西詰所の椅子でもない。


 正式なクランの事務所でもない。机の端の、小さな木箱。


「戻すものが増えました」


 ラドさんは一瞬だけ黙った。


 それから、短く笑う。


「なら、なくすな」


「はい」


 外では、夕方の鐘が鳴っていた。名簿には、まだない。看板も、まだ仮だ。


 保証人欄も、空白のままだ。それでも、明日ここへ来れば、箱がある。


 箱の中には、白板と赤線と、曲がった釘が二本ある。


 旧木炭道と北二番水場の控えもある。


 誰かが道を間違えそうになった時、そこから一枚取り出せるかもしれない。


 僕は仮置き箱の蓋を閉じた。軽い音がした。


 戻る場所の音にしては、小さすぎる。でも、今はそれくらいでよかった。



 宿へ戻る途中、荷馬車の集配所に、澄人の字で書かれた短い紙が届いていた。


 先輩、元気にしてますか。希望が、また誰かの位置を探してます。今度会えたら、ちゃんと顔を見せてください。


 それだけの内容だった。用件と呼べるほどのものはない。


 でも、僕は紙を畳んで、荷袋の内ポケットへしまった。仮置き箱には入れない。ここに置く紙とは、種類が違う気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ