彼女が好きなのは リベンジ
恋をしてみたい。
幼いころから、わたしは恋バナというものに憧れていた。
女の子たちは、小学校の低学年あたりからもう色めき立つ。
クラスの男の子がどうだとか、ドラマに出ている俳優がかっこいいだとか。
きゃあきゃあ笑い合う輪のそばで、わたしはいつも少しだけ距離を感じていた。
同い年で、同じ「女の子」のはずなのに。
どうして理解できないのだろう。
どうして胸がときめかないのだろう。
わからないまま悩んで、もがいて、ある日、母に打ち明けた。
すると母は微笑んで言った。
「そのうち、わかるよ」
——もう二十五歳だ。
わたしの「そのうちは」、いつやって来るのだろう。
二十七歳の夏、駅前の居酒屋で、その「そのうち」はやって来た。
金曜日の夜。
仕事の疲れが消えないまま、同僚と小さなテーブルを囲んでいた。
店内は油と笑い声の匂いで充ちている。
そこへ同僚がスマホを覗き込み、顔を上げた。
「もう一人、呼んじゃっていい? 家、近い子がいてさ。今からなら来れるって」
「いいよ、来て来て」
しばらくして、引き戸が開いて、少し息を切らした誰かが入ってきた。
「遅くなってごめんね」
「はじめまして」
その声だけで、わたしの胸がぎゅっと締めつけられた。
鼓動が、まるで自分とは無関係に速くなっていくのを感じる。
風邪のときみたいに頬が熱い。
鏡を見なくても、自分の顔が赤いのがわかった。
——ああ、これが恋というものか。
恋を味わえたことは、嬉しかった。
同時に、少しだけ怖かった。
自分が同性愛者なのかもしれない、という事実を、すぐには飲み込めなかったからだ。
それからわたしたちは、自然と何度も会うようになった。
仕事の愚痴をこぼすと、広は真剣に耳を傾けてくれた。
上司の理不尽さを話せば、自分のことのように怒り、
仕事のミスを打ち明けると、「それはつらいよね……」と、代わりに泣いてくれた。
感情を表に出すのが苦手なわたしにとって、
彼女と過ごす時間は癒しだった。
ある冬の夜、駅前で立ち止まっていたとき。
「寒そう。カイロいる?」
わたしが遠慮すると、広はカイロを握ったまま、わたしの手を包んだ。
「こうすると、ふたりとも温かいね」
その笑顔はずるかった。
受け入れ難い自分を、受け入れたくなる輝きを放っていた。
たまに喧嘩もした。
本当にどうでもいい、食の好みで。
「私、おしるこにはお麩を入れるの。美味しいよ」
「え!?おしるこにお麩とか正気?合わないよ〜ふやけちゃうじゃない」
わたしは笑いながら、本気で眉を寄せた。
「お麩の方がさ、ふわっとして、甘さとあうんだって」
広は真顔で譲らない。
結局その夜は、どちらが正しいか決着がつかず、互いに意固地になるだけだったが、
不思議と気まずくはなかった。
喧嘩のあとの仲直りは、距離を縮める役割を果たした。
何度か家を行き来するうちに、
わたしは自分の心の姿を少しずつ許すようになった。
彼女の手の温度、寝起きの顔、ふとした仕草の柔らかさ。
それらはすべて、わたしにとって新しい「居場所」だった。
ある夜、やけに酔ったわたしは決めた。
もう隠すのはやめようと。
目の前の空気を全部吸い込み、自分に活を入れる。
はっきりと言おう。
「広……あのさ、私、その、好きかもしれない。友人としてではなく……」
広は驚いたように目を見開いた。
笑いながらも、手が一瞬固くなるのが見えた。
彼女は顔を伏せて、小さく笑った。
「……ありがとう。そう言ってもらえて、嬉しい」
その言葉に、胸が満たされると思った。
けれど次の瞬間、広の表情に微かな戸惑いが浮かんだ。
話題が別の方向に滑り、彼女はどこか、よそよそしくなった。
そこには、これまで一緒に笑っていた広が、いないように感じられた。
数日後、わたしは広の「素の姿」を知る。
仕事帰り、同僚が男性と歩いているのを見かけた。
後日、冗談交じりに聞くと、同僚はあっさりと言った。
「え?広だよ、あの人」
そのとき初めて、広は「女装をしている男性」だという事実が、
ふいに目の前に現れた。
記憶の中の広は、今まで気づかなかったのが嘘かのように、肩の骨格、細かな、身体の色々なところが男性だった。
わたしの中で、何かが静かに崩れた。
「そうだったんだ……」
その言葉は声にならなかった。
鼓動はまだ早いのに、胸の奥が冷たく、空洞のようになっていくのがわかった。
好きだと思っていた感情が、
広の「素の姿」には反応しなかった。
身体が、心の奥が、正直に離れていく。
わたしは愕然とし、同時に罪悪感と哀しさに襲われた。
嘘をついていたわけではない。
わたしの心は、本当に広に向いていた。
ただ、その向き先は、
「女性としての広」だったのだ。
翌日、わたしは広と会うことを決めた。
胸は張り裂けそうで、それでも確かめなければならなかった。
自分が変わったのか。
それとも、今まで見えなかった何かが現れただけなのか。
喫茶店の窓際。
広は静かに座っていた。
午後の光がテーブルを照らしている。
わたしは震える手でカップを握り、深く息を吐いた。
「話があって……」
「え? あー……うん。いいよ」
一瞬だけ、広の表情が曇った。
覚悟していたような、どこか残念そうな顔だった。
広はゆっくりと、自分のことを話してくれた。
女装が好きなこと。
その姿の方が自分らしくいられること。
けれど生物学的には男性であること。
そして、好きになるのは女性だということ。
わたしは黙って聞いた。理解しようとした。
理屈の上では、きちんと理解できたと思う。
胸の奥は、理解することに全力を注いでいた。
でも、理解と「好きであり続けること」は、どうやら別物だった。
感覚は理屈に抗う。
わたしのときめきは、
見た目や立ち振る舞い、その柔らかさの総体に
反応していたのだと、冷たく腑に落ちた。
白昼に差し込む強い光みたいに、
自分の心の輪郭が、くっきりと浮かび上がる。
「私……ごめん。びっくりしちゃって。
たぶん、……えっと……違う、みたい」
言葉にした瞬間、胸がずきりと痛んだ。
広の目に、一瞬だけ驚きと傷ついた色が走る。
けれどすぐに、微笑もうとする。
それは誰かを安心させるためというより、
自分を守るための笑顔に見えた。
「そっか。正直に言ってくれてありがとう。
つらい思いをさせてごめんね……」
広は静かにそう言った。
その声には、妙に慣れた強さがあった。
それから広とは距離を置いた。
会えば、軽く会釈を交わす程度だ。
互いの居場所をこれ以上傷つけないための、
静かな選択だったのだと思う。
人を傷つけてまで知る恋なら、
知らないままの方がよかった。
ごめんなさい。




