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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

ネクロマンサーの匣(はこ):死と再生の館

作者: TEKA
掲載日:2025/11/20

1997年6月。マクシミリアン・グレイヴスは、世界的な科学者としての冷徹な理性と、「父」としての焦燥の間で引き裂かれていた。

机上の診断書が示す、愛する息子トーマスの余命。その事実は、彼の誇る知性を無力なものに変えた。彼の防衛機制は、既に成熟的な抑制や昇華の段階から、現実を拒絶する「否認」へと滑り落ちていた。

彼は、自分の人生の失敗、妻との冷えた関係、そして学者としての「不完全さ」を、全てトーマスを救うという「成功」で覆い隠そうとしていた。

その時、ジョナサン・クレイヴンが書斎のドアを開けた。ジョナサンは、マクが抱える「救世主願望」と「自己満足の追求」という深層の欲求を、鋭く嗅ぎ取っていた。

ジョナサンはデスクにファイルを置き、冷酷に告げた。

「教授。あなたは、自分の力で世界を変えることができると信じていたはずです。この研究は、科学的な昇華ではありませんか? それとも、無力な自分から目を逸らすための否認ですか?」

マクは激しくファイルを叩き返したが、ジョナサンの言葉は、彼の内側で「救済者」逆転移の核を直撃していた。マクは、トーマスという「無力な被害者」を救うことで、過去に救えなかった「理想の自己」を満たそうとしていたのだ。

「…費用は?」

マクは郊外の広大な屋敷を購入し、地下に「乾杯トーストの部屋」という名の研究施設を設けた。それは、彼の「秘密と狂気」の象徴であり、同時に「救済者」としてのマクの舞台だった。


数週間後。マクの元教え子、エイクマン・スコットが屋敷を訪れた。エイクマンは、マクを「尊敬すべき父のような師」と理想化する、陽性転移に近い感情を抱いていた。

「先生、大学の同僚は、先生が非倫理的な研究に手を出しているのではないかと、心配しています。」

マクは、エイクマンの懸念を、彼の「無力さ」に対する投影として受け取った。

「倫理? エイクマン、お前には私の『情熱』が理解できないのか。お前は、いつも安全な場所から、私の挑戦を批判するだけだ。まるで、私の父のようだ。」

マクの言葉は、エイクマンの心を突き刺した。エイクマンの父は、彼の進路を厳しく批判し続けた冷徹な人物だった。マクは、エイクマンにとって「理想の父」の転移先であったが、今、マクは自ら「批判的な父」という役割をエイクマンに「演じさせよう」としていた。

エイクマンは、マクに対し、怒りと失望を感じた。それは、マクの非倫理的な行動への怒りであると同時に、「尊敬する師(理想の父)」が崩壊していくことへの、逆転移的な失望でもあった。


マクの研究は泥沼化していた。彼の髪が抜け、皮膚がただれて炎症を起こしたのは、単なる副作用ではなかった。それは、倫理的な自己と狂気の自己との間の激しい葛藤が、身体化として現れたものだった。彼は、自分の罪悪感を否認し、その代償を体で払っていた。

ある深夜。マクは鏡の前で、ただれた皮膚に軟膏を塗っていた。鏡に映る自分は、もはや威厳ある科学者ではなく、病的な執着に取り憑かれた亡霊のようだった。

その時だった。

『……助けて……寒い……』

耳元で、誰かが囁いた気がした。マクは振り返ったが、部屋には誰もいない。

『……あっちへ行け……』『……なんで僕を……』

声は一つではなかった。老婆のようなしゃがれ声、子供の泣き声、怒号。それらが不協和音となって、マクの脳髄を直接揺さぶった。

マクは頭を抱え、洗面台に崩れ落ちた。

「くそっ……! ついに、幻聴まで聞こえるようになったのか。私の無意識が、罪悪感を『他者の声』として投影しているに過ぎない……!」

彼は震える手で精神安定剤を掴み、水もなしに飲み込んだ。

「これは私の弱さだ。脳のエラーだ。科学的な現象ではない……」

マクは必死に、その声を「自分の内側の狂気」だと結論づけ、無視することに決めた。

だが本当は違った。それこそが、彼が集めた死者のエネルギーが生体に干渉し始めた証拠――実験の成功を示すデータだったのだ。しかし、理性を保とうとする彼の自我は、その真実を「幻聴」として切り捨て(否認)、引き返す最後のチャンスを逃してしまった。


ジョナサンは、マクの心理的な不安定さを利用し続けた。マクにとってジョナサンは、自身の「影の自己(目的のためなら手段を選ばない非道な自分)」の投影先として機能していた。マクは、ジョナサンに汚い役割を負わせることで、自分自身は「愛する父」という役割を保とうとしたのだ。

エイクマンは、マクへの逆転移的な失望を昇華させようと、ジョナサンの金の流れを徹底的に追跡した。彼は、マクを「批判する父」としてではなく、「救うべき師」として再定義し、行動に移した。

夜中、エイクマンは地下室へ降り立った。「乾杯の部屋」で、砂袋に詰められた死体を見た瞬間、エイクマンは激しい嫌悪と怒りに襲われた。

「なんてことだ!先生、あなたは最低だ!」

マクは、治療から戻り、エイクマンの存在に気づいた。

「お前は、いつも私の『弱点』を暴こうとする。まるで、私の父のようだ。」マクは、再び投影した。

「先生!いい加減にしてください!私はあなたの『父』ではない!私はあなたの弟子だ!その非道な行いを止めに来た!」エイクマンは、マクの投影を跳ね返し、現実を突きつけた。

ジョナサンは、最後の素材を設置しながら挑発した。

「教授、もう引き返せない。あなたの救済者としてのアイデンティティは、この実験の成功にかかっている!」


その時、トーマスが地下室のドアを開けた。

トーマスは、装置と死体を前に、震える声で尋ねた。

「お父さん、僕、解らなくなっちゃった…お父さんがやっていることは、良いことなの? それとも…」

マクは、息子の「純粋な目」に、自分の狂気の投影が跳ね返されるのを感じた。

ジョナサンは、トーマスの存在を無視し、起動ボタンを押した。

ヴウウウウ――!

装置が作動し、トーマスの細い体へ、黒いエネルギーが吸い込まれ始めた。トーマスは、激しい苦痛に顔を歪ませ、頭を抱えた。

「う、あああ…!うるさい!たくさんの声が聞こえる!」

その叫びを聞いた瞬間、マクは戦慄した。それは、自分が深夜に聞き、薬でかき消した「あの幻聴」と同じだったからだ。

(あれは幻覚ではなかった…! 私は、死者たちの叫びを、本当に受信していたのか!)

マクは、自分の「否認」が、息子を地獄へ突き落としたことを悟った。

「ああ…私は、何を…」

トーマスは、虚ろな目でマクを見つめ、静かに言った。

「やめて、お父さん。僕はもう大丈夫だよ。僕のために…悪いことをしないで。」

トーマスの言葉は、マクの「救済者」としての役割を完全に否定した。マクは、愛という名の自己満足を息子に押し付けていたことを認めた。

マクは、鉄の棒を掴み、装置の中枢回路へと向かった。

ジョナサンが発砲したが、マクは怯まなかった。彼は鉄棒を回路に叩き込み、装置を破壊した。

バチバチバチ! 激しいショートとともに、地下室は炎上を始めた。

「エイクマン…トーマスを連れて、逃げろ!これは、私の罪だ。私が招いた災いだ。」

マクは、エイクマンがトーマスを抱えて外に出るのを見届けると、燃え盛る炎の中、静かに目を閉じた。彼の心には、救済者としてではなく、贖罪者としての「自己覚知」が広がっていた。


事件は「研究室の事故」として処理された。

数年後。エイクマンは、マクの屋敷の敷地に新しい家を建てた。彼は、自身の研究を「人を支配する」ためのものではなく、「人を助ける」ための昇華として再定義していた。

そして、トーマス。彼は病から回復し、健康な体を得ていた。

トーマスは、エイクマンを「新しい父」として信頼していたが、ある日、エイクマンが彼の将来について少し「押し付けがましい」助言をしたとき、トーマスは激しく拒絶した。

「エイクマンさん!僕の人生なんだ! お父さんみたいに、僕を自分の思い通りにしないで!」

エイクマンはハッとした。それはトーマスからの陰性転移であり、同時に、エイクマン自身がマク(古い父)と同じように「救済者」逆転移に無意識に陥りかけていたことへのサインだった。

エイクマンは、すぐに自己覚知した。

「トーマス君。ごめん。君の言う通りだ。私は、君を『救うべき存在』として見すぎていた。私が、君のお父さんと『同じ過ちを繰り返そうとしている』ということに、君が気づかせてくれた。」

トーマスは、驚いた顔でエイクマンを見つめた後、ふっと穏やかな笑みを浮かべた。彼は、エイクマンが「過去の父」とは違うこと、自分の感情を純粋に受け止め、解釈し返してくれたことに、深い安堵を感じた。

「ありがとう、エイクマンさん。……でも、僕が『お父さんみたいにしないで』って言ったのは、単に支配されたくないからだけじゃないんだ」

トーマスは視線を外し、夕日が沈む窓の外、かつて地下実験室があった場所を見つめた。

「僕、わかるんだよ。お父さんが、最期にどんな音を聞いていたのか」

「音?」エイクマンは怪訝な顔をした。

「うん。……エイクマンさんには聞こえないでしょう? でも、僕には聞こえるんだ。夜になると、頭の中で大勢の人が叫ぶ声が。泣き声、怒鳴り声、助けを求める声……。お父さんが集めた『死者たちのノイズ』が、僕の体の中で反響しているんだ」

トーマスは自分の胸に手を当て、淡々と続けた。

「きっとお父さんも、研究の途中でこの声を聞いていたはずだ。でも、お父さんはプライドが高いから、それを『自分の弱さ』や『狂気』だと思い込んで、耳を塞いだし、薬で抑え込もうとしたんだと思う。……その『否認』が、お父さんを本当の狂気へ追い込んだんだ」

エイクマンは息を呑んだ。マクが晩年、しきりに頭を抱え、独り言のように「黙れ」と呟いていた姿が脳裏をよぎった。あれは精神の崩壊ではなく、現象との遭遇だったのだ。マクは、科学者としての理性を守るために、目の前の真実から目を逸らしていただけだったのか。

トーマスは、エイクマンの目を見て、力強く言った。

「でも僕は違う。僕は、このノイズを否定しない。追い出しもしない。だって、これは僕の命の一部になっちゃったから。彼らの痛みも、未練も、全部ひっくるめて、僕が生きていくエネルギーに変えてみせる」

彼の瞳には、かつてのマクにはなかった、現実を受容し、清濁を併せ呑む強靭な光が宿っていた。

「お父さんは『救済者』になろうとして、自分と僕を壊した。でも僕は、この騒がしい体を使って、お父さんができなかった本当の『昇華』を成し遂げてみせるよ。……だから見ていて、エイクマンさん。僕は、お父さんの失敗作じゃない。この『呪い』を飼いならした、最初の成功例になるんだ」

かつてネクロマンサーが作った地下の匣は燃え落ちた。しかし今、死と再生を封じ込めた本当の「匣」は、少年の姿をして、未来へと歩き出そうとしていた。


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