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僕らはきっと、間違っている

作者: タクモ蕣
掲載日:2025/11/19

 ナーム・バズルスは天才だった。ナーム・バズルスの出現によって、歴史上のあらゆる天才と呼ばれた偉人たちがただの賢い凡人だったのだと思い知った。

 ナーム・バズルスは宇宙の起源を解き明かした。たった157文字の数式で解き明かした。それは拍子抜けするほど単純な仕組みだった。その数式はこの世の全てを見事に表してみせた。人々は人類の最高到達点に歓喜し、そして衰退していった。


 終末図書館。人々にそう呼ばれるこの建造物は、ナーム・バズルスが解き明かしたこの世の全てが保管されている人類叡智の全てである。ナーム・バズルス没後まもなく、人々はその功績を後世に伝えるため、拡張の必要がない完全無欠の図書館を作った。それがこの終末図書館である。

 終末図書館に一人の子供がいる。子供は机に向かい、分厚い本を読んでいる。読み終える。子供は立ち上がる。そして、次なる本を求めて歩き出す。

 窓際の棚に子供は現れる。既に読み終えた本はその手に無く、新たな本を物色している。その時、子供の頬を風が撫でる。子供はその違和感に気付く。館内の窓は閉め切られている筈である。子供は風が吹くほうを見る。窓のほうを見る。そこには、もう一人の子供がいた。年齢は同じくらいの、髪を長く伸ばした子供がそこにはいた。長い髪を風に靡かせた子供と、本を物色していた子供は目を合わせる。子供は目を見張る。子供はこの図書館で人と会うのが初めてだった。

長い髪の子供もまた、珍しそうに子供を見つめている。二人は暫く見つめ合う。

『おはよう』

髪の長い子供が先に口を開いた。その口調は友好的で、吹き込むそよ風のように柔らかだった。

「おはよう」

子供も返す。子供の声には戸惑いが滲んでいる。

『ここで人に会うなんて思わなかったよ。名前は?』

髪の長い子供の問いに、子供は答える。

「ムイ」

『私はソラ。最近引っ越してきたんだ』

ソラは穏やかな微笑みを浮かべた。ムイの表情も綻ぶ。

『ムイはここで何してたの?』

「本を読んでた」

ソラは首を傾げる。

『何で?これがあれば本を読む必要はないのに』

ソラは自分の頭部に取り付けられた機械を指差す。

『そう言えば、ムイは付けてないね』

「外したんだ」

『何で?』

「嫌だったから。僕は自分の力で知識を得たい」

『何で?時間の無駄じゃない?』

「そうかもだけど……、無駄な事をしたいのかも?」

『変なの。面白いね』

「じゃあソラは何でここにいるの?」

『静かで快適だから。昼寝に丁度いいんだ』

「ソラのほうが変な理由だね」

『そうかな?そうかも。私たち、二人とも変だね』

「そうかもね」

それから二人は、ここで一緒に過ごすようになった。といっても、互いに干渉することはなく、隣り合って過ごして、時々一言二言交わす程度だった。

『ムイは、ずっと本を読んでいて飽きないの?』

「飽きない。たまに気分転換に小説を読んだりはするけど。僕には知りたいことがあるんだ」

『それなら、これを取り付ければいいのに』

ソラは頭部の機械を指差す。

『これがあれば、この世の全てが脳内に流れ込んでくるのに』

「その機械には分からないことなんだ」

『そんなことあるの?』

「ある。ソラはナーム・バズルスが最期に遺した言葉を知ってる?」

『えーっとね』

ソラの頭部の機械が点滅する。

『“私は間違えたかった”』

「そう。それ」

『どういう意味だろう?』

「僕はそれを知りたいんだ。この世の全てを正しく解き明かしたナーム・バズルスが、何故そんな言葉を遺したのか。僕はその真意が知りたい」

『それと本を読むことに何の関係があるの?』

「ここの本の全部読んで、この世の全てを僕の体に染み込ませたら、ナーム・バズルスの気持ちが分かるかもしれないと思ったんだ。だから僕は本を読む」

『そっか。面白いね』

「うん。面白い」

『私も少し、本を読んでみようかな?』

ソラは頭部の機械を取り外した。


 ソラはムイの近くで本を読むようになった。ソラは小説を好んで読んだ。ムイはそれが嬉しかった。初めて仲間ができた気がした。二人はよく話すようになった。

 ある日、ソラは酷い顔をして現れた。

「ソラ、どうしたの?」

『両親が死んだ』

ムイは言葉を失う。

『心中した。私、逃げてきちゃった』

「そっか」

『こうなるしかなかったのかな』

ムイは何も言えなかった。何か言ってあげたかった。でも何も言葉が見つからなかった。

『ムイ、私これからどうしよう』

ソラは震えていた。今にも消えてしまいそうだった。

『私、生きていていいのかな』

涙は枯れていた。ムイは初めての恐怖を知った。

「いいに決まってる」

『でも私、もう一人ぼっち』

「僕が隣にいる。僕が一緒にいるから」

ムイはソラの手を掴んだ。どこかに消えてしまわないように。ソラの手は震えていた。冷たかった。

「生きて、ソラ」

ムイの手も震えていた。

『うん』

ソラはムイに寄り掛かった。ムイはソラを包み込んだ。


 二人は終末図書館で暮らし始めた。二人は朝から晩までずっと一緒で、生きる為の時間以外を読書に捧げた。

『はぁ』

「どうしたの?」

『何だか、小説を読むと寂しい気持ちになる』

「何で?」

『私のことが書いてあるようで、そう思った途端に、私のことを置いて行くの。それが寂しい』

「そうなんだ」

『うん』

「それならソラが新しく小説を書けばいい」

『書けるかな、私?』

「分からない。でも僕は読みたい。ソラの小説」

『ムイがそう言うなら、書いてみようかな』

その日から、ソラはあまり本を読まなくなった。


 ムイはため息を吐く。

『どうしたの?最近ずっとそんな調子』

「最近、読書が楽しくないんだ」

『どうして?』

「もう少しで、終わっちゃうから」

『すごい。あと少しなんだ』

「でも、僕は何も掴めてない。ナーム・バズルスの気持ちが、これっぽっちも分からない。このまま読み終えて、その先で何も掴めなかったらどうしよう」

『ムイなら大丈夫だよ。今は分からなくても、きっと分かるよ』

「そうかな」

『そうだよ』

でもムイは、その日からあまり本を読めなくなった。


 ムイは外出から、暗い顔をして帰ってきた。

『おかえり。ムイ、大丈夫?』

「実は、ソラには内緒で、ずっと親に会ってたんだ」

『そうなんだ』

「でもさっき帰ったら、僕の親も死んでいたよ。乾いて、蛆が湧いていた」

『そっか』

「何で?何で、人は生きていられないの?この世の全てを解き明かして、生命の起源も、脳の仕組みも、心の正体も解き明かしたのに、何で人は」

『ムイ』

「こんな世界おかしいよ。何で僕らは生きているだけで、絶望しなくちゃならないの?全ては解き明かされた筈なのに」

その日から、ムイは本を読まなくなった。図書館の本を読み干すのに、あと一冊だった。


 ムイは窓際で寝転がって過ごすようになった。

『ムイ』

ソラが呼んでも、ムイは返事をしない。ソラのほうに振り向きもしない。

『もう本は読まないの?』

「もういい。全部馬鹿馬鹿しくなったんだ。全てを解明したところで、僕らは生きられないんだ。今ならナーム・バズルスの気持ちが分かる気がするよ。きっとこんな気持ちだったんだ。だからあんな言葉を遺したに違いない。それだけの、たったそれだけの話だ」

『ムイ』

ソラはムイに近付けなかった。


 ソラはムイに尽くした。ソラは願った。でもムイは日に日に離れていった。その日、ムイは最後の一冊を読んだ。それは、ナーム・バズルスの本だった。

『どうだった?面白かった?』

「くだらない。こんな物の為に、僕は今まで必死になっていたのか。馬鹿らしい。どうでもいいよ、もう。この世の全ては理解した。宇宙の起源、脳の仕組み、心の正体。でも、それが何だって言うんだ。無駄だ。何の意味もない。結局は全て、何の意味もないんだ」

ムイは窓の外を見た。風が通り去っていった。

「ここから飛び出したら、楽になるのかな。そうしたら、全てが終結したら、意味が生まれるのかな。ナーム・バズルスもそうだったように。ねえ、ソラ?」

ムイはソラを見た。その時だった。ソラはムイを力づくで窓際から引き剥がした。目一杯の力で床に投げ飛ばした。ソラは怒っていた。

『ムイは何も分かってない』

「僕は何が分かってないというの?この世の全てを僕は知ったって言うのに。僕は何が分かってないの?」

『私の気持ち』

「何を言い出すんだよ。気持ちなんて、結局僕らの錯覚に過ぎないんだよ。それだけのことなんだよ」

『違う』

「何が違うって?」

『気持ちは錯覚なんかじゃない。心の正体が何だってどうでもいい。私たちの中に確かにある。そして私たちに世界を見せてくれるんだ。私は今のムイは嫌い。帰ってきてよ。ムイ。消えないで。私を置いていかないで』

ムイの瞼が僅かに動く。ソラの言葉から滲む気持ちにムイは覚えがあった。その気持ちをムイは知っていた。その気持ちがどんな気持ちか、ムイは知っていた。ムイはソラを見つめた。

「ソラ?」

『ムイ。やっと帰ってきた』

ソラはムイを抱き締める。ソラはずっと泣いていた。ムイはそのことに気が付いた。ソラの気持ちに気が付いた。ムイは涙が溢れた。

「僕、どうして。ごめん、ソラ。なんか、どうかしてたよ、僕」

『いいよ、そんなの。ムイが帰ってきた。私は今、それがどうしようもなく嬉しい』

「ソラ。ありがとう。僕も、ソラが手を引いてくれたことがとても嬉しい」

ムイとソラは手を取り合った。

「意味なんてどうでもいいんだ。僕たちから見える世界が、正しくても間違っていても、一緒に無意味に、空虚な日々を楽しく生きていたい」


 ムイとソラは終末図書館を出た。手には空のポリタンクとライター。二人は図書館に礼をする。

「今までありがとう」

『本当にこれでよかったの?』

「うん。きっと僕らは、これでいい。僕らは間違えるくらいがいいんだ。正しさと意味に支配されないように、核心は分からないくらいがいい。今ならナーム・バズルスの気持ちが少し分かる気がするよ。ナーム・バズルスはきっと後悔していたんだ。この世の真相を解き明かせたばかりに、それに呑まれてしまったんだと思う。だから、僕はその呪縛を永遠に隠す」

ムイはライターを終末図書館に投げ入れた。この世の真相は一時的に失われた。もう誰もいない街を背に、ムイとソラは初めて歩み出すことを許された。




『人が生きるのに意味はいるか?

  では、私たちは意味もなく生きていられるのか?

    私たちはあまりに脆弱である』


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