『陽炎(かげろう)の季節』
『陽炎の季節』
プロローグ 電話
深夜の電話が鳴ったのは、三日前のことだった。時計を見ると午前二時を回っている。こんな時間に誰が、と思いながら受話器を取ると、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「悪い、起こしちゃったか」
達也だった。六十年来の親友である彼からの深夜の電話は珍しいことではなかったが、その日の声には妙な切迫感があった。
「久しぶりに二人で旅行しない? 昔みたいにさ」
唐突な提案に戸惑いながらも、私は承諾した。最近の達也は離婚の傷が癒えず、一人暮らしの寂しさから酒に溺れがちだった。気分転換が必要だろうと思ったのだ。
しかし今思い返すと、あの電話には不自然な点がいくつもあった。まず、なぜあの時間だったのか。そして、旅行先を決める際の達也の異様なこだわり。
あ「温泉地がいい。できれば、学生時代によく行ったあそこがいいんだ」
まるで、特定の場所でなければならない理由があるかのような口調だった。
第一章 再会
そして今、私は特急列車の車窓から流れる風景を眺めながら、あの電話での違和感を反芻していた。
なぜ達也は急にこの旅行を提案したのだろうか。そして、なぜあれほど具体的な場所にこだわったのか。
古びた駅舎、まばらに建つ家々、広がる田園風景。これらの光景は確かに昔と変わらないが、向かいの席に座る達也の表情には、記憶の中の彼とは異なる何かがあった。
「なあ、覚えてるか?」
達也が突然口を開いた。彼の横顔には懐かしさと、説明のつかない緊張感が混在していた。
「あの時の冒険旅行のこと」
「そうそう。行き先も決めずにな」
私は答えながらも、達也の様子をさらに注意深く観察した。小学校時代から六十年以上の付き合いだ。
彼の些細な変化も見逃すはずがない。確かに離婚してから元気を失っていたが、今日の達也は明らかに違った。
まず、服装だ。普段の達也はカジュアルな格好を好むのに、今日は1970年代のアイビールックに身を包んでいる。白いポロシャツにベージュのチノパン、ローファーという夏のアイビースタイル。まるで学生時代にタイムスリップしたかのような装いだった。
「懐かしい格好だな」と私が言うと、達也は少し照れたような表情を見せた。しかし、なぜ今日に限ってそんな昔のスタイルを選んだのだろうか。
そして話し方。いつもの達也なら、昔話をする時はもっと饒舌になるはずなのに、今日は言葉を選んでいるような印象を受ける。
「あの頃は無茶したよな」達也が続けた。「中学の時、夜中に学校に忍び込もうって言い出したのも俺だったっけ」
「バカ言うな。あれはお前が言い出したんだよ」
私がそう返すと、達也は一瞬、本当に一瞬だけ困惑した表情を見せた。まるで記憶を確認するような、そんな表情だった。
夏の陽射しが車内に差し込んで、達也の顔を照らしている。
人懐っこい笑顔は昔と変わらないが、その目の奥に、私がこれまで見たことのない何かが潜んでいるように思えた。恐れなのか、それとも決意なのか。
「早く年金もらえる歳になりたいよ。そうすれば楽に暮らせるのに」
達也がいつもの口癖を言う。しかし今日のその言葉には、いつもとは違う響きがあった。まるで、それが最後の願いであるかのような、切迫した響きが。
第二章 移りゆく風景と疑念
列車は次第に山間部へと入っていく。窓外の景色が平野から丘陵地帯へと変わるにつれて、達也の様子にも微妙な変化が現れた。
「このあたり、変わったな」
彼がぽつりと呟く。確かに新しい建物や道路が増えているが、達也の言葉には単なる感慨以上のものがあった。まるで、何かを確認しているような口調だった。
「そういえば、この旅行のことを他の誰かに話したりしてないよな?」
唐突な質問に、私は眉をひそめた。
「なぜそんなことを聞く?」
「いや、なんとなく...二人だけの旅行っていうのもいいかなと思って」
説明になっていない説明だった。達也は視線を窓の外に向けたまま、私の目を見ようとしない。
列車は山間の小さな駅に停車した。数人の乗客が降りていく。夏休みも終盤で、観光客の姿もまばらだった。
ホームには地元の人らしき老人が一人、ベンチに座って列車を見送っている。
その時、達也が急に身を乗り出した。
「あの人...」
「どうした?」
「いや、見間違いだった」
しかし、達也の顔は明らかに動揺していた。あの老人に見覚えがあるような反応だったが、それにしては不自然な動揺ぶりだった。
車内販売のワゴンがやってきて、私たちはビールを注文した。平日の昼間から飲むビールには独特の背徳感があったが、達也は異様に急いでそれを飲んでいる。
「体調は大丈夫? 最近、顔色が良くないようだが」
「ああ、大丈夫だよ。ちょっと夏バテ気味だっただけ」
そう言いながらも、達也の手が微かに震えているのに気づいた。室温は適度に保たれているし、緊張のせいでもないだろう。では何が原因なのか。
ビールを飲み終えた達也は、今度は頻繁に時計を確認し始めた。まるで何かの時間を気にしているように。
「急いでいるのか?」
「いや、そんなことはないよ。ただ、久しぶりの旅行だから、スケジュールを確認してるだけ」
またも曖昧な答えだった。達也は昔からスケジュールにはルーズな性格だったはずなのに。
第三章 到着と最初の謎
温泉駅に到着したのは午後三時過ぎだった。小さな駅だが、観光地らしく綺麗に整備されている。私たちは荷物を持って改札を出た。
駅前のバス停で温泉街行きのバスを待ちながら、私は達也の行動をさらに注意深く観察していた。
「久しぶりだなあ、この景色」
達也が駅前の風景を見回している。しかし、彼の視線は懐かしさに浸っているというより、何かを探しているようだった。
まるで、特定の変化や特定の人物を探しているような、そんな視線だった。
バスが来るまでの間、達也は何度も駅舎の方を振り返った。そして、そのたびに安堵したような、それでいて落胆したような複雑な表情を見せた。
「誰かを待っているのか?」
「え? いや、そんなことはないよ」
しかし、達也の答えは明らかに動揺していた。
バスに乗ると、達也は窓際の席を選んだ。普段の彼なら通路側を好むはずなのに。
そして、バスが動き出すと、彼は外の景色を異常なほど熱心に見つめ始めた。
「変わったところもあるけど、基本的には昔のままだな」
私がそう言うと、達也は首を振った。
「いや、結構変わってる。あそこにあった民家がなくなってるし、あの橋も新しくなってる」
確かに達也の指摘は正しかった。しかし、彼がそこまで細かく覚えているのは不自然だった。私たちがここを訪れたのは、もう二十年以上前のことなのに。
第四章 温泉宿での奇怪な出来事
予約していた旅館は古い建物だったが、趣があって落ち着いた雰囲気だった。チェックインの際に、最初の決定的な異変が起きた。
「田中達也様のご予約ですね」
仲居さんがそう言った瞬間、達也の顔が血の気を失った。彼は一歩後ろに下がり、まるで自分の名前を聞くことを予期していなかったかのような反応を見せた。
「何か問題でも?」と私が尋ねると、達也は慌てたように首を振った。
「いや、何でもない。ただ、久しぶりに本名で呼ばれたから、ちょっと驚いただけ」
奇妙な説明だった。旅館の予約は当然本名でするものだし、達也がそんなことで驚くはずがない。
部屋に案内される途中、仲居さんが何気なく言った。
「以前にもいらしたことがおありでしょうか? どこかでお見かけしたような...」
その時の達也の反応は、さらに奇妙だった。彼は明らかに慌てて、
「いえ、初めてです。人違いでしょう」
と答えたが、その声は震えていた。
部屋に入ると、達也は窓から見える景色を長い間見つめていた。
山の緑、遠くに見える川、点在する民家。美しい眺めではあったが、達也の表情は複雑だった。
「荷物を置いて、早速温泉に行こうか」
私が提案すると、達也は一瞬躊躇した。
「そうだな...でも、その前に少し休憩しないか?」
不自然な提案だった。達也は昔から温泉好きで、到着するとすぐに湯に浸かりたがる性格だったはずなのに。
第五章 温泉での発見
それでも結局、私たちは温泉に向かった。平日の夕方ということもあって、浴場には他に客がいない。
久しぶりに二人だけでゆっくりと湯に浸かることができた。
「気持ちいいなあ」
達也が大きく息を吐く。しかし、私は彼の背中に複数の古い傷跡があることに気づいた。
線状の傷跡が何本も走っている。自傷の跡のようにも見えるし、事故の傷のようにも見える。
「その傷は?」
「昔の怪我だよ。気にするな」
達也は慌てて湯に身を沈めた。しかし、その傷跡は明らかに最近のものではない。十年以上は経っているように見える。
「事故だったのか?」
「まあ、そんなところかな」
曖昧な答えだった。達也は話題を変えようとするように、
「そういえば、真理子とはもう連絡取ってないの?」
と聞いてきた。
「ああ、もう三年以上連絡してない。向こうも新しい生活を始めてるみたいだし」
達也の表情が曇った。しかし、その表情には単なる寂しさ以上のものがあった。まるで、何かを隠しているような、罪悪感にも似た表情だった。
「離婚の原因は何だったんだ?」
私が踏み込んで聞くと、達也は長い間沈黙した。そして、ようやく口を開いた。
「俺が...俺が弱すぎたんだ。真理子に迷惑ばかりかけて」
その言葉には、深い後悔が込められていた。しかし、同時に何か重要なことを隠しているような印象も受けた。
第六章 夕食と50年カレンダーの記憶
夕食は部屋食だった。地元の山菜や川魚を使った料理が並んで、どれも美味しそうだった。しかし達也は、料理にほとんど手をつけなかった。
「食欲がないのか?」
「いや、美味しいよ。ただ、ちょっと緊張してるのかな」
「何に緊張する必要がある?」
達也は答えなかった。代わりに、窓の外を見つめていた。夕闇が迫り、山の稜線がシルエットになっている。
食後、私たちは近くの川沿いを散歩した。夜風が涼しくて気持ちがいい。川のせせらぎが耳に心地よく響く。
しかし達也は、歩きながらも頻繁に後ろを振り返った。
「誰かに追われているのか?」
「そんなはずはないよ」
しかし、その答えには確信がなかった。
月明かりに照らされた川面を見つめていると、ふと高校時代のことを思い出した。
達也の部屋の壁に貼ってあった50年カレンダー。
当時人気だった雑誌の付録で、世の中を斜めに見ているような風刺の効いたイラストが各年に描かれていた。
「覚えてる? お前の部屋にあった50年カレンダー」
達也の表情が急変した。月明かりの下でも分かるほど、顔が青ざめた。
「ああ、あれか...」
「あの時、俺が言ったんだ。『このカレンダーの最後の年は66歳になるなあ。その時はお互い何してるのかなあ』って」
達也は黙っていた。しばらくして、震え声で答えた。
「そんなこと言ったっけ?」
明らかに覚えているのに、なぜそんな反応をするのか。
「『きっと年金もらって、のんびり暮らしてるよ』って答えたんだよな、お前は」
その時、達也が崩れるように川辺の石に座り込んだ。
「もう...もう疲れたよ」
突然の告白だった。
「何に疲れた?」
「すべてに。生きることに」
達也の言葉には、深い絶望が込められていた。そして私は、この旅行の本当の目的を理解し始めた。
第七章 深夜の調査
旅館に戻って、同じ部屋のそれぞれのベッドで休むことにした。
しかし私は眠れなかった。達也の行動に不審な点が多すぎる。そして、川辺での彼の言葉が気にかかっていた。
達也の寝息が聞こえ始めた頃、私はそっとベッドから抜け出した。彼のバッグを調べてみることにしたのだ。
プライバシーの侵害だが、友人として彼の身を案じての行動だった。
バッグの中から、最初に出てきたのは大量の薬だった。睡眠薬、抗うつ剤、そして見慣れない薬品がいくつも。どれも大量に処方されている。
次に出てきたのは、古い新聞の切り抜きの束だった。そして、その中に私の血を凍らせる記事を見つけた。
15年前の日付。小さな記事だったが、その内容に私は愕然とした。
「会社員 田中達也さん(55)が自宅で死亡しているのが発見された。自殺とみられる。離婚後の一人暮らしで、発見が遅れた。遺書には『親友に迷惑をかけたくない』という内容が記されていた」
私の手が震えた。これは一体何を意味するのか。
さらに調べると、同じような記事がいくつも出てきた。すべて「田中達也」の死亡記事。
日付も場所も異なるが、すべて自殺として報じられている。
その時、背後で声がした。
「見つけちゃったんだな」
振り返ると、達也がベッドに座っていた。しかし、その姿は薄っすらと透けて見える。
第八章 真相の告白
「達也...これは一体...」
「ああ、俺は死んでるよ。15年前にな」
達也が淡々と答える。その姿は昨日と変わらないようでいて、確かに実体感に欠けていた。
「でも、どうして...なぜここに...」
「お前の無意識が俺を呼んだんだ。俺の死を知った時から、お前はずっと自分を責めてただろう?」
確かにそうだった。達也の死を知った時の衝撃、自分がもっと気にかけてやれば良かったという後悔。それが15年間、私の心の奥底に沈んでいた。
「新聞記事を何度も読み返して、俺への想いを募らせていた。その罪悪感と愛情が、この奇跡を起こしたんだ」
「でも、お前は確かにそこにいる。話もしているし、食事も...」
「食事は手をつけなかっただろう? ビールも実際には飲んでいなかった。お前の記憶が、俺が飲んでいるように見せただけだ」
言われてみれば、確かにそうだった。達也は食事にほとんど手をつけず、ビールも実際には減っていなかった。
「温泉宿の仲居さんが『お一人での旅行』と言ったのも...」
「そう。最初から俺はいなかった。お前一人の旅行だったんだ」
すべての謎が解けた。達也の不自然な行動、記憶の曖昧さ、人との接触を避ける態度。すべてが一つの真実を指していた。
第九章 最後の対話
「なぜ死んだ? なぜ相談してくれなかった?」
私の声が震える。
「お前に迷惑をかけたくなかったんだ。いつも俺の愚痴を聞いてもらってばかりで...これ以上、重荷になりたくなかった」
「バカ野郎...俺たちの関係で、迷惑なんてあるわけないだろう...」
涙が込み上げてくる。15年間抱えていた後悔が、一気に溢れ出した。
「でも、お前がこの旅行を企画してくれたおかげで、最後に一緒に過ごせた。本当にありがとう」
「この旅行は俺が計画したんじゃない...」
「違う。お前の無意識が企画したんだ。俺への罪悪感と愛情が、この機会を作ってくれた」
達也の姿が朝日に透けて見え始めた。
「15年間、お前はずっと自分を責めてただろう? でももういいんだ。俺が選んだ道なんだから」
「でも...もし俺がもっと...」
「違う。お前は十分すぎるほど俺を支えてくれた。俺が弱すぎただけだ」
達也が悲しげに微笑む。
「66歳になる前に逝っちゃったけど、この旅で年金をもらった気分になれたよ。お前との時間が、何よりの宝物だった」
「達也...」
「もう大丈夫だ。お前も俺も、この旅で区切りがついた。もう自分を責めなくていいんだ」
エピローグ 解決と新たな始まり
達也の姿が薄くなっていく。朝の光に溶けるように。
「また会えるかな?」
「きっとな。でも今度は、お前が年金をもらってからにしろよ。そして俺の分まで、人生を楽しんでくれ」
達也が最後に笑顔を見せて、完全に姿を消した。
部屋には私一人だけが残された。しかし不思議と寂しさはなかった。代わりに、心が軽くなったような、清々しい気持ちが広がっていた。
窓の外では蝉が鳴いている。それは寂しい鳴き声ではなく、新しい季節の始まりを告げる力強い声に聞こえた。
チェックアウトの時、フロントの女性が微笑みかけてきた。
「お一人での旅行でしたが、いかがでしたか?」
私は深く息を吸った。やはり達也は最初から存在しなかったのだ。
「ええ、とても良い旅でした。大切な友人と一緒でしたから」
私がそう答えると、女性は少し困惑したような表情を見せたが、何も言わなかった。
帰りの電車で、私はすべてを理解した。死者と生者の境界、記憶と現実の境界。
それらがぼやけた不思議な体験だった。まさに真夏の世の夢とでも言うべき、幻想的な出来事。
私の心が作り出した達也との最後の旅。それは現実ではなかったかもしれないが、確かに意味のある体験だった。
15年間抱えていた謎と後悔は、ようやく解決した。そして私は決めた。
達也が夢見た年金生活を、私が代わりに楽しもう。それが親友への最高の供養になるだろうから。
夏の終わりの謎めいた旅路は、こうして真実の発見とともに幕を閉じた。しかし同時に、新たな人生の始まりでもあった。