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ナブリオにとって世界は思い通りにならないし、つまらないことだらけだった。
コールシガの裕福な家庭に生まれた彼は、小さい頃に兵隊を志した。故郷を占領しに来た図々しい貴族に媚びへつらって、周りや一族からさえ〝変節漢〟と後ろ指をさされる父親のような人生ではなく、一端の男として認められたかったからだ。
故に彼は戦争ごっこではなく、兵隊ごっこをした。
裕福な家だから食べられる白パンを敢えて食べず、貧民のところに持って行って黒パンや怖ろしく硬いビスケットと交換したり、雨の中何時間も突っ立ってみたりした。
だが、夢を叶えてくれたのは、何とも皮肉なことに変わった遊びをしている息子の真意をただ一人見抜いた、変節漢であると嫌っていた父親であった。
兵隊になりたいなら、ちゃんと学校に行けと、自分のコネを使って態々古帝国の本土にある兵学校に送ってくれたのだ。
だが、そこで待っていたのは属州出身者であること、コールシガ訛りが酷いこと、様々な理由を付けてのイジメだ。
下手に才能があったため、周りより一廻り小さい10歳で入学したのもイジメを加速させ、彼は酷い学生時代を送ることとなった。
友は一人二人できたが広い交友関係を作ることができず、鬱屈した学生時代の後に待っている軍隊生活も明るいとは言えなかった。
士官学校上がりとして尉官から始まった砲兵少尉の軍歴は芳しくない。
なにせ、彼が仕官する頃には主立った戦乱は終わっていたからだ。
待っているのは演習と警戒の日々。先任には殴られ、兵卒からはチビだのなまっちろいだのと侮られ活躍の機会などない。
たまに軍務があったとしても買い占め人に怒って集まった暴徒を散らすようなつまらない任務で、それも性質の悪そうなのを一人二人撃ち殺すか、砲を天に向かって放てば散るような物。
上官の命令を能く聞いたことと数本の論文を執筆したこと、あと最大の要因である最先任の大尉が横領をやらかして10年の鉄鎖系に処されたため、繰り上げで大尉に昇進できたが、世界はつまらないままだった。
いっそ軍の近代化を進めるために海外士官を求めている中東の国にでも行ってしまおうかと考えている時、やっと起こったのだ。
戦争が。
ピレネアを警戒するだけの任務だと聞いた時は落胆したが、現地についてみれば現場指揮官の独断専行で交戦状態にあるというではないか。
この戦場を、馬鹿が阿呆で下手くそな戦争をやらかしたせいでドロドロになった戦場をひっくり返せば、自分は憧れていた英雄に、誰にも馬鹿にできない男になれるんじゃないだろうかと期待してナブリオは進んだ。
だが、行く先で待っていたのは栄達への階ではなく、気に食わない女であった。
小柄なことを気にしているナブリオより上背が高いだけで気に入らない理由は十分であったが、何よりも自分が気付いたことを先にやっている。しかも上等な立地で。
女なんて物は美人よりも気が利いて寡黙であればいいと思っていたナブリオにとって、彼女は全てが鼻についた。
騎兵服を着ている癖して――しかも尉官用だ――砲兵に対して異様に詳しく、陣地の砲台配置は完璧そのもの。試射を行っている砲兵達の命中精度も怖ろしく良い。自分がしごき上げてきた大隊のソレに劣らないほどだ。
それに戦術眼も凄まじい。
地形を眺め、最適だと思った場所を具申しようと思って天幕に入ったならば、彼女は既に自分で作ったこの辺りの地図に配置を書き込んでいるのだ。
そして、ナブリオが驚いた表情を見せると、やはり貴方もここに塹壕が必要だと思って? と嬉しそうに語りはじめるのである。
二回りも三回りも年上であろう大佐達が唯々諾々と命令に従うのもよく分かる。自分と同じことを考えて実行に移す才能に伴った権威は、唇を噛み破りそうになるほど羨ましい。
貴族の娘だから周囲が言うことを聞いて、色々と面倒を見てやっているのだろうと思えた初日の方が嫉妬もマシだっただろう。
だが、七日も一緒に陣地構築をやり、方々を油断なく視察する姿を見ていると斯様な思い違いもできなくなる。
彼女は正しく天賦の物を持っているのだ。軍人の才も、それを活かす環境も。
そは正しく、効率的に人を殺すためのもの。
「大尉、ここの陣地は最重要でしてよ。対砲伯射撃陣地であると同時に、準備砲撃が効かなくて敵が押し寄せた時、あの殺し間に……」
「この最新式12ポンド砲を叩き込む、ですな」
ゴンとナブリオが殴るのと撫でるのとの中間の力で触れたのは、最新の多用途野戦砲だ。前装式の砲身に通常弾と葡萄弾だけではなくキャニスター弾や榴弾まで装填することができる恐るべき汎用性を誇る砲は、迫り来る戦列歩兵や騎兵の粉砕は勿論、対砲迫射撃まで熟す優れもの。
しかし、余りに高価故に試験的な配備で終わっていたはずのそれが、何故師団規模で充実しているのか。
要は金だ。ある所にはあるものだと嫌にさせられる。
「ええ、貴方ならお分かりでしょうけど、あの態と開けた空間は味方が逃げ込んである退路であると同時に敵の突撃を誘引する罠。迫ってきたならこの子で挽肉にしてさしあげなさいな」
「了解いたしました大佐」
愛らしい子犬を撫でるような手付きで大量殺人を可能とする大砲を撫でる女というのも奇妙な構図だ。それも伊達な騎兵服を纏って鋭剣をぶら下げているとなれば尚更。
「じきに崩壊した味方が雪崩れ込んでくるでしょうね。その後に敵も来る。あわよくば帝国の南を囓り取ろうとして」
「……どの程度とお思いで」
「一緒に言いませんこと?」
まるで子供が遊びに誘ってくるような気軽さで戦略のことを語るので、ややムッとして外れれば良いと思いつつ予想を口にしたナブリオだが、言葉は綺麗に重なった。
三日と。
思わず舌打ちが溢れそうになる。だが、ガンメルゼフィーアが方々に放った斥候や、ミランですら安全ではないと逃げ出してきた避難民から聞いた情報を整理すると、正にそれくらいなのだ。
事実として、翌日には脱走兵が陣地に飛び込んできた。
ガリガリに痩せて服はドロドロ、髭もぼうぼうの伍長が語るのは、怖ろしい地獄と化したミランの惨状であった。
元々、彼の街は戦争になど備えていなかった。サヴォイアへの領土欲など持たない古帝国に近いこともあって戦争になる可能性は少ないし、仮に戦となっても、最悪無防備宣言をして富の幾らかを差し出せば酷い目には遭わないと思っていた。
そこに北サヴォイア軍団が駆けつけたのだ。恐れる物はもうないと皆が安心した。
だが、予想は悉く裏切られる。
救世主だったはずの軍勢は靴すら碌に履けていないほど困窮しており、あまつさえ自分達に略奪を働く始末。
そして、彼等がいるだけで勝手に引いていくはずだった敵は包囲すると見せかけてはサヴォイア軍団を誘引し、野戦に持ち込んで滅多打ちにする。
酷い戦いだったと脱走兵は語る。一日に千人は戦死か餓死をして、餓えきって死んだ市民の亡骸が街路にゴロゴロと転がる。市場ではネズミが信じられない値段で取引され、忌避される油虫でさえ潰して食べるほど。
そして、遂に戦線が崩壊して兵の逃亡が始まったと、自分の部隊が全員餓死して嫌気が差し逃亡してきた伍長は涙ながらに語った。
ガンメルゼフィーアは厳しい顔付きで話を聞いていたが、やがて膝を突いて彼の肩を掴むと、クソのような指揮官の下で酷い戦場にも拘わらず一月以上もよく頑張ったと褒め称え、粥を渡した。
そして、無惨な死に方をした味方の仇を討てと言えば、一刻も早く軍服など脱ぎ捨てたいという顔をしていた逃亡兵が、再び兵士の顔に戻ったのだ。
粥を食い、顔を洗い、髭を剃った彼は痩せこけているが精悍な顔でマスケットを手に塹壕に入った。
このような者達が日増しに増え、部隊ごと落伍してきた者達を受け容れているといつの間にやら防衛戦の人員は増強師団程度にまで増えていく。
ナブリオは考える。果たして、自分にあの逃亡兵を再び兵士にすることができただろうか。漢に戻してやることができただろうかと。
悶々とする中、予想していた三日目、遂に敵がやって来た。最初は小規模な騎兵隊だが、これは落ち首を狩って手柄にしようとしてきた驃騎兵に過ぎない。彼等が後方に戻ると同時にミランを脱した連隊規模の兵達が命からがら逃げ込んできた。
ナブリオは、二個軍団がたったこれだけしか残らなかったのかと困惑する。一体どれだけ敵に戦果を与える才能があれば、斯様な無様を晒せるのであろうか。
その中には比較的顔色の良いドナシアン将軍の姿もあった。
彼は何の悪びれもなく自分達が脱出できた最後の部隊だと宣い、あまつさえ現場を掌握しようとしたが……ナメてるのかとナブリオが激発するより前に公爵令嬢の憤怒が漏れ出た。
鋭剣が抜剣され、首を叩き落とす勢いで添えられる。
「将軍、貴方を告発いたしますわ」
「こ、告発!? 私を!? 何の罪でだ!?」
「強いて言うなら無能、ですわね」
独断専行の上に軍団二つを融かし、おめおめと逃げてきた彼は正しく無能の咎を負っているとしか言いようがない。将軍は自分の副官達に救いを求めたが、鋭剣を抜いたガンメルゼフィーアの気迫に抗える持ち主はおらず、彼は拘束されて簡易な穴に放り込まれた。
正直、ナブリオからするとそのまま埋めてしまえと思ったが、ちゃんと国に持ち帰って軍事法廷で裁かせてやると意気込むガンメルゼフィーアに逆らうつもりにもならなかったので好きにさせた。
そして、またチラホラと逃げ延びた兵や部隊がやってくる中で――あの将軍は嘘まで吐いていた――敵軍が姿を見せる。
「ま、一個軍団ってとこですわね」
「……ですな」
いつの間にやら当たり前の顔をして、自分の砲陣地に居座って望遠鏡を覗く彼女は数倍以上の敵を前にけろりとしていた。まるで数など何てこともないというように。
いや、実際ナブリオの見立てでは、この十日ほどで作った急造の陣地は数倍程度の数を軽々と跳ね返す力がある。ただ一つ。
土嚢程度の野戦築城であれば、薄紙も同然に蹴散らす砲の破壊ができればであるが。
「大尉、頼みますわよ」
「……相手はえっちらおっちら地平線の向こうから押してくるしかないんです。丘を取っている砲兵が負けたら恥です。そうなったら俺は自分で頭を撃ち抜きますよ」
「宜しい。私の仕事はこっちですからね」
ポンポンと鋭剣を叩くガンメルゼフィーアにナブリオは不思議に思って問うた。
公爵令嬢ともあろう女が騎兵突撃? 汚い平民の血になど触れたくもないと言うのが貴族なのではないかという考えが僅かに漏れたのだ。
すると彼女は何を今更と笑った。
「血濡れになることを恐れる女なんていませんわよ。殿方と違って、月に一度は必ず血塗れになっているんですもの」
凄まじい下ネタに男ながらドン引きしたナブリオは、まぁそこまで言うなら止めはしないと去って行く背を見送る。
戦端が開かれたのは、その十数分後のことであった。
まるで全てを見通しているように、敵軍が整然と攻撃態勢を整えようとする中で、発砲をはじめた砲座は半数に満たない。
ガンメルゼフィーアは敵がサヴォイア軍団の砲を奪って膨れ上げさせたであろう砲兵隊の到着を待っていたのだ。戦列歩兵が前進することで砲陣地の注意を惹き付け、その隙に配備を終えようとする敵の戦術まで読み切って。
「撃て! 砲を壊せなくていい! 砲架と人員を狙え!!」
砲が現れると同時にナブリオは自分の陣地に斉射を命じた。弾種は榴弾、砲そのものを全損させられずとも、操る人員が死ぬか砲架が壊れてしまえば大砲など扱いづらくて重たい鉄の筒に過ぎない。
陣地を破壊し得る砲さえ抑えてしまえば、たとえ十倍の敵でも怖くないことを彼は知っていた。
崇めよその名を。戦場の女神、砲兵の放つ轟きは福音であり告死の音色だ。
気合いの入った本当の男達が押す砲が数発撃ち返してはくるものの、碌に試射もできていない弾が当たる道理もなし。勇者の献身も挺身も榴弾は洗い流していく。
砲兵が一向に射撃体勢に入れないことに業を煮やした敵は、肉薄しての射撃を命じて散兵と戦列歩兵を突入させようとしたが、全ては塹壕と土嚢でできた壁から除く銃丸からの射撃と、歩兵の粉砕に専念するよう命じられた別陣地からの攻撃で排撃されて逃げ散っていく。
無為な戦が一刻ばかし続き、これは無理だと敵が退いていき味方の歓声が上がった。
これでいいのか? 戦争がこれほど簡単に片付いてとナブリオはまた世界のつまらなさを感じる。
全ては先に取られ、自分がやろうとしたことより好い形で決着が付こうとする。
ガンメルゼフィーアが率いているのが師団だったから、資金力があって最新式の砲を持っていたから、工兵中隊なんて贅沢な部隊を運用していたから……言い訳を並び立てても虚しくなるばかりだ。
しかし、彼は輝かしい物を見ることとなる。
翌日の日の出前、もう脱出できた部隊はないだろうと思っていたが、数十からなる兵達が纏まって逃げてきたのだ。敵から追われつつ。
彼等はきっと、分散して何とかかんとか戦域を脱したのだろう。夜陰に紛れて敵陣地を通り抜け、あと一歩のところまでやってきた。
ナブリオの冷静なところは、あれを追ってきた騎兵隊を餌に砲を撃てば、いい戦果が上げられるだろうと思ったが、ガンメルゼフィーアはそうしなかった。
前線の塹壕を見舞っていた彼女は、鋭剣を抜いて一人駆けだしたのだ。
「地獄を生き延びた味方を見捨ててはなりませんわ! 我に続け! 我に続け!!」
騎兵に向かっていくことがどれほど怖ろしいかは、全ての軍人が演習を通じて知っている。寸止めしてくれると分かっている演習でさえ漏らす者がいるのだ。それが本物の殺意を以て襲いかかってくることがどれほど怖ろしいだろう。
しかし、ガンメルゼフィーアが臆さず突撃したことで、塹壕の兵達は慌てて銃剣を差し込み後に続いていく。
貴族は先頭を行くべしと教範にはあるが、慌てて横列を構成した戦列歩兵の一五歩も前を疾走できる者がどれだけいるだろうか?
兵の心を動かすのは美しさでも弁舌の巧みさではない。
全てをねじ伏せて命令に従わせ、後を追わせるクソ度胸なのだとナブリオは学んだ。
そして、それがどれだけ困難であり、崇高で美しいか。
鋭剣を掲げるガンメルゼフィーアと、その背後に続く百以上の兵に脅えて追討の騎兵は逃げ散り、朝日の向こうに去って行く様は絵画でさえひれ伏すだろう。
「はっ、はははは、はは……なんだ、いるんじゃねぇかよ、英雄ってやつは」
ナブリオは思わず呟く。
そう、いるのだ、英雄は。激しい光の中に。
そして今、悔しいが、それは自分ではない。
欲しいと思った。あの光景が、あの中心が、あの中に行きたいとも思った。
自分がガンメルゼフィーアの位置にいるのでもいい。
だが、だがだ。
最も思ったのは、あの女さえいれば戦争に負けはないのではと。
あの女を組み伏せるような男になることができれば、自分は世界の王になれるのではないかと。
光の中で鬨の声を上げる英雄に、砲兵は何時までも見惚れていた…………。
今日は夜に用事があるので朝と昼の二回更新ですわ。