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婚約が解消されたという話が出回る頃、ガンメルゼフィーアは郷里でのんびりと兵法書を読みながら穏やかな日々を過ごしていた。
破棄は皇太子の身勝手でありながら、それを痛快な方法で意趣返しした公爵令嬢の話で社交界は盛り上がっており、新しい婚約の問題点よりも取り立たされるほどだ。
そして、ラインランテは帝室の奔放な振る舞いを許す代わりに、新しい鉄路敷設事業を根こそぎ自分達の物にするという快挙を上げ――顔を真っ赤にしたラインランテ公ジョルジュが「どういうこと?」と改めて乗り込んだのだ――皇帝やその近衆から大きな譲歩をもぎ取ったことによって〝ラインランテは必ず応報する〟と民は持てはやした。
要するに、全てガンメルゼフィーアの計画通りだ。
帝室の名は多少落ちたが、それはいつも通り市民が小唄にして笑う程度に収まっており、大きな政治的動乱には繋がっておらず、同様にラインランテとガンメルゼフィーアの名前にも傷は入らなかった。
そして、新しく着工された救貧院や改装され待遇改善が決まった廃兵院からの噂も後押しして、全ては良い方に動いている。
帝国よ安寧なれ、そう願いつつ外国から輸入された兵法書を読んでいた彼女の時間は唐突に終わりを迎えた。
力強いノック。本から意識を戻した彼女が顔を上げると、入室の許しを与えたところ入って来たのは侍従長ではなく一部の隙もなく軍装を纏ったイレーヌであった。
「読書中、失礼いたしました」
「ええ、いいのよ。面白い本でしたわ。貴方も後で読むといいわ」
「はっ。どのような内容で?」
「東の軍略彼の本でね。なんて書いてあったと思う?」
皆目見当が付きませぬと素直に応えた副官に、令嬢はニヤッと笑った。
「戦争をするな、ですって」
「ははは、それは至言でございますな」
軍隊とは基本的に戦争をすれば損耗するもの。そして、動かすだけで金と物資を消耗する。であるならば、最も良い使い方は他国が手を出せない量を用意して馬鹿をやらないように牽制すると同時、戦争をチラつかせることで譲歩を引き出すことだ。
ただ、ガンメルゼフィーアはこれに大きな一つの欠点を見出していた。
基本的に相手が馬鹿でない場合にのみ成立するものだなと。
「で、要件は?」
「はっ、軍に非常呼唱が掛かりました。南の係争地に動きアリと」
ピクリと強い眼差しを更に強く魅せる釣り上がった眉が動いた。
よもや、相手が馬鹿ではない恵まれた状態でしか成立しない兵法書を読んだ直後、何処かの馬鹿が動き出すなどと。
「また馬鹿共がぞろやりだしましたか。まったく、サヴォイアなんぞ地理上の概念に過ぎないというのに」
寝椅子に上体を預けて東方渡りの兵法書を読んでいた彼女は、栞を挟むと勢いよく起き上がって部屋の片隅に置かれた大きな机に挑んだ。
そこに広がっているのは広大な大陸西方域の地図である。この時代において精密な地図とは軍事機密であり、取扱は非常に繊細な物が求められるが、常に軍略を練っているこの令嬢は父親におねだりして一枚を私物化しているのであった。
地図上には部隊を意味する無数の駒と要塞などを指す針、そして補給線を示す紐が張り巡らされていて、現在の軍事状況を事細かに再現してある。
ラインランテ家子飼いの密偵が持ってくる機密や、軍に所属していれば普通に手に入る情報から彼女自身がより正確であろうと推察した状況が模されており、事実としてそれは陸軍大臣の幕僚団が作っている物よりも現状に即していた。
「南、南……シチリー王国! ピレネアの連中ですわね!」
「ご賢察です。シチリー王国の巨兵に合わせて、ピレネア合議王国が南の係争地に手を伸ばそうと義勇兵部隊を派遣しました。枢密院はこれを重く見て、南の護りを固めようとしております」
「チッ、だからわたくしもお父様も、継承戦争時にオーハンも教皇の仲介なんぞも無視して、叩き潰し占領してしまえと申し上げましたのに」
古帝国南部に張り出した細長いサヴォイア半島は、かつて大帝国と呼ばれた国家の中心地であったが、様々な要因が重なって崩壊、分裂した後に――この時に暦が現在の神聖歴に改められた――力を喪い、小さな諸侯が跋扈する土地と化した。
一時期は国家の草刈場となっていた時代もあるような場所だが、中央大陸と南方大陸に挟まれた穏やかな緑の内海の中央を貫通し、南方大陸まで泳いで行けそうな地理は、鉄や貴金属こそ出ないものの豊かな食料生産と海運による経済的な豊かさを持つが故、常に大陸の国家から狙われている。
その中でも半島南部を中心地とするシチリー王国は、ほんの十年前に王が子供を残せず夭折したせいで継承権問題が発生し、複数いる王の親戚を古帝国と二重帝国がそれぞれ擁立しようとして紛争手前になった土地だ。
しかし、この時に皇帝は財政面の問題と軍の建て直しが済んでいないことから、外交的な譲歩で国境際の小都市を幾つか帝国領とすることで譲歩しシチリー王には、二重帝国が押した王が就いた。
その結果、反発した北の諸侯が分裂して北サヴォイアは自由州連合として独立して未だ取り返すことができておらず、争いの種として燻り続けている。
「大方、シチリー王国の連中が泣き付きましたわね。未回収の北方領域を回復するために」
「でしょうな。向こうにとっては悲願とも言えます。しかし、何故合議王国に?」
「新婚約のせいでしょう」
基本的にガンメルゼフィーアはフランツェルスから興味を既に失っていたが、国政に関わるであろうとしてシオレーネのことを少しは調べていた。
正式名はシオレーネ・アンネリーゼ・ミシア・フォン・アイクシュテット。空位の男爵位に押し込んで貴族籍を無理矢理与えたオーハン二重帝国皇帝の非嫡出子であるが、個人的にかなり愛されているらしく、交換留学の枠でもって古帝国に外交要員として送り込まれた。
それが皇太子の目に叶って新しい婚約者となれば、オーハンお得意の婚姻外交が知らぬ内に成功したようなものだ。噂レベルでは、嫡出を認めて帝室に迎え入れ、正式な帝室同士の婚姻に繋げようという動きも見えると聞く。
つまり、今の二重帝国は古帝国とコトを構えることを嫌っているだろうから、シチリー王国は係争地と直接接している両国にはおねだりできないだろうと判断し、緑内海を通じて繋がっている最西方の亜大陸に助力を願った訳だ。
「オーハンは現状、腸詰めでベーコンが買えたとばかりに古帝国との縁故を深くするのに必死で、自由州連合に手を出すのを嫌ったのでしょう。国境に軍を寄せれば、それだけ家は反応するほかありませんもの」
「軍は帝室の確執よりも、戦場で殺し殺されあった恨みがある故、偶発的戦闘が避けられませんからな。賢い選択かと」
この時代ではよくあることだ。憎悪から、あるいは戦勲を上げたいという欲求に駆られた指揮官が独走し、上層部からは睨み合うだけで良いと命令されてしまっても口火を切ってしまうことが。
特に古帝国とオーハン二重帝国は断続的な休戦期間を挟みつつ五十年ばかし戦争をしていた時代もある上、近々即位が噂されている皇太子が軍を木っ端微塵にされた上で軍旗まで奪われる恥辱を馳走された記憶は薄れていまい。両軍が100km圏内に布陣したならば、恨み骨髄の現場が「勝ったら文句言われんだろう」の勢いで戦端を開いても不思議ではない。
その可能性を根から断ちたいのであれば、そもそも軍を派遣しないことだ。この点、二重帝国は賢い動きをした。軍人の精神を分かっているブレーンが帝室についているに違いない。
「しかし、今になって? 貧乏所帯のピレネアが動く動機……動機……」
対価は何か知らないが、山が多いせいで産業に乏しい合議王国は、ここが好機とばかりに半島付け根を影響下におければ美味しいとでも思って船を出し出兵したのだろう。
そして、古帝国は戦乱が長靴半島に収まらなかった時のことを考え、緊急動員を行って南の戦線を再構築しようとしている訳だ。
しかし、あの亜大陸の国家が継承戦争時への口だしをしなかったわりに今動く理由が不明瞭であったが、地図を見ていたガンメルゼフィーアは、ここだと指を刺した。
「コールシガ!!」
それは長靴半島の西にある大きな島。フランコルム古帝国領コールシガ。
県として認められていない植民地属州であり、継承戦争後の資金繰りに古帝国より困っていたシチリー王国が、当座を凌ぐ端金欲しさで古帝国に売り渡した僻地だ。鬱蒼とした伐採を拒む槙の森が生い茂る開拓困難な土地で平野も少なく、耕作可能面積は島自体の巨大さと比べて怖ろしく狭い。
そして、特産品は葡萄酒やチーズなどが上げられるが、どれも交易品として高い価値を持つ物ではない。
その上で東は遠浅、西は絶壁と軍港を作るのにも適していない、人呼んで「人間が生きている以外に特に価値のない土地」とは能く言ったもの。こんな所を領有しているのは、古帝国も「まぁ、この値段で貰えるなら貰っとくか」くらいの理由で買い取ったからに過ぎない。
要は見切り品の馬鈴薯と同じだ。
海の玄関口は別にも持っているし、自由州連合との今上帝が作り上げたナァナァな付き合いによって陸路の安全は確保されている。つまるところ、古帝国にとっての価値は低い領地なのだが……。
「ピレネアがコールシガを? あそこは蛮族の島みたいなものですぞ」
「産業が貧弱な分、交易で外貨を稼いでいるピレネアは緑青海中央に有力な中継港を持っていませんわ。海運と貿易が命綱の国。高い薪水料を古帝国と二重帝国に払って利益が目減りしている現状、好きに使える港は欲しくてたまらないはずですわ」
そして、古帝国がコールシガにアクセスするためには、今のところ独立を認めている自由州連合が潰れると連絡路が大きく限られる。現在のシチリー王国と古帝国は継承戦争のゴタゴタで国交が断切しているため――擁立しようとした候補が処刑されたのだ――北方が奪回されればコールシガは物理的にも政治的にも孤島となる。
そして、そこに恩着せがましくピレネアが独立させてやった、という形で元は独立国だったコールシガを立て直すのであろう。
「ない頭捻って考えましたわね、これじゃあ下手すると帝国は指を咥えて緑内海への影響力を失うだけじゃないですの」
「そのための南方軍強化ですか」
「これはピレネアとの戦争になりますわね、まったく」
どいつもこいつも要らんことにばかり精力的で困ると腕を組んだガンメルゼフィーアは、地図上の駒を眺めて呟いた。
「再編中の大洋艦隊は今のところ動かせないでしょうし、二重帝国との仲は小康状態となることが予見されるから、東方鎮護の軍団から引き抜いて陸戦戦力を増強、という訳ですわね」
「はい。第一線は変わらず北サヴォイア軍団ですが、予備軍を編成すると。それに伴い東方軍団に非常呼唱がかかりました」
「これはお父様にお願いして、我が第51半旅団も組み込んで貰う必要がありそうですわね」
「……それは何故ですか?」
「考えてもご覧なさいな、北サヴォイア軍団は給金遅配が発生するくらいの弱体。予備軍に下手な指揮官がついて、神聖なる帝国領土が侵されたらどうするつもりで?」
自分ならば予備軍幕僚に食い込めると踏んだガンメルゼフィーアは己の能力をかなり高く見積もりすぎているとみるべきか、それともそれだけの自信があるのか。
副官は間違いなく後者であろうなと判断し、そして娘に蜂蜜より甘いラインランテ公は認めてしまうのだろうなと読んだ。
「行きますわよ、南に。そして、馬鹿が馬鹿やる前に何とかしましょう。戦争は根回しですわ」
「畏まりました半旅団長。まずは何を?」
「各商会に根回しを! 私の軍は何があろうと餓えさせませんわ!!」
長靴を蹴立てた令嬢は、すぐさまジョルジュの元に向かって参陣を希望した。
そして、軍人令嬢は南に下る…………。
軍人令嬢南へ。
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