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1-4

 アルトワアラスは古帝国の中でも古い街であり、人口数万を抱える巨大なものだ。


 その朝は早い。まるで斯く動くように決められた機械のような正確さで、朝を報せる大時計塔の鐘がなる一時間前に寝台で薄い毛布に包まっていた人物は目を覚ました。


 むくりと体を起こし、昨夜の内に用意してあった水盆で顔と口を清め、公の場に立つのだからこれくらいは持っておきなさいと贈られた不相応な手鏡を見ながら髪を整える。


 そこに映っていたのは、白皙の美青年である。些か顔付きが硬いものの目鼻は均衡が取れており、やや冷酷そうな印象を受けるが整っていることに違いはない。


 しかし、その最大の特徴は眼底が薄ら透けるような赤い瞳であった。


 彼は軽度の白変病(アルビノ)なのだ。幸いにも肌は常人の白さであり、髪も艶のある栗毛なれど、目だけは幼い頃から赤く光に弱かった。日中は眇めなければ表も歩けないようなそれを、彼は枕元に大事に置いてあった黒くて丸い色眼鏡で隠す。


 眼鏡は貴種の特権だ。レンズの研磨に大変な手間が掛かる上、向こうが透けて見えるが色はきちんとついている代物など、それこそ家が一軒建つようなもの。


 自分の身に余る過分な贈り物を何度も辞退しようとしたが、陽が昇りきる前か夜でなければ真面に目も開けられないのは勉学に差し支えがあろうと言われて、成長する度に新しい物を寄越されるため、最早体の一部に近い。


「おはよう、シャルロット」


「おはよう、にいさん」


 洗練された帝都言葉を喋る彼と違って、妹シャルロットは酷いアルト訛りのある娘であったが、兄より早く起きて竈に火を入れる勤勉さを持っていた。


「はい、朝ご飯」


「ありがとう」


 そういって卓に並んだのは、弁護士にして臨時判事でもある彼が食するにはあまりに貧相なものであった。


 内容は牛乳が一杯に杏子が一つ。清貧を志し、出費を最低限に抑えようとするがための粗食はあっと言う間に胃の腑に収まり、彼は仕事道具である分厚い手帳や法典集を抱えて家を出ることにする。


「行ってくるよ。後は任せるね」


「ええ、がんばりすぎないでね」


「行ってくるぞ、鳥たちよ」


 彼が唯一の趣味らしい、居間で飼っている雀の籠に声をかけると、ぴちちと可愛らしい声が返って来る。最小の、豪華という言葉が似合わない食事で生きることを良しとする彼は、ほんの一つまみの雑穀で生きていける鳥類を殊更に愛していた。


 朝の鐘を聞きながら誰より早く市庁舎に出勤した青年。誰もいない中で自分のデスクに座って届いた弁護の依頼や、判事として参加する裁判の資料を読み込みつつ忙しい時間を過ごす。


 合間合間に陳情の手紙を書いたり、愛するコーヒーを啜ることはあっても手が止まる時間は一瞬たりとてない。


 それもそうだ。彼は常に十六時間働く男であり、休日という概念を持たない。市庁舎が閉まっている時は貧民の弁護のため貧民窟にまで出向いたり、遠くの家族に手紙を送りたい者に代筆や代読をしてやったりと私的な時間は眠っている時だけというほど。


 そんな彼が珍しく集中を乱されたのは、そろそろ昼休憩で同僚達が捌けていくだろうという時間であった。


 嫌に騒がしく、視線がこちらに集中している。のみならず、おい! とか、後ろ! という言葉も聞こえるではないか。


 もしかして自分に言っているのかと思って振り返ると、彼はそこに女神を見た。


「ガンメルゼフィーア様……」


「仕事をしていると他に気が回らなくなるのは変わりませんわね、マクシミリアン」


 背後に立っていたのは軍服姿の女美丈夫であった。彼女は困ったこと、と全く困っていないようにくすくすと少女の如く笑いながら口に手を添えている。


 そう、彼の名はマクシミリアン。ガンメルゼフィーアから後援を受けている、都市随一の科学擁護者にして啓蒙思想家と名高い弁護士兼臨時判事。そして、次の秋から三部会の議員に当選した若き俊英である。


「五分近く立っていても気付かないんですもの。よっぽどですわね」


「ごっ、ご無礼を!!」


「いいのよ、分かっていてやったんだから。何分くらいで気付くかと思って遊んでいただけ」


 全く気にした様子がない彼女は、近くに立っていたマクシミリアンの上司に――大貴族の娘が急にやって来た上、五分近く待たせたことに相当気を揉んでいた――部下を借りて良いか問うと、二日でも三日でも、何なら一ヶ月でもと相当お安く売り飛ばされて市庁舎の外へ強引に連れ出された。


「さ、馬車に乗りますわよ。貴方、乗馬の心得はないですからね」


「が、ガンメルゼフィーア様、なんで急にこんなところへ……」


 馬車の中で恐縮しきって、はじめて籠に入れられた小鳥のようになっているマクシミリアンにガンメルゼフィーアは特に気負った様子もなく、下見だと答えた。


「下見、ですか?」


「ええ、救貧院を一件拵えようと思いまして。貧民窟に詳しい貴方の意見が欲しかったのですわ」


「自分は……その……てっきり……」


「後援を打ちきられると思いまして?」


 図星を突かれてマクシミリアンは一瞬固まった。


 彼は弁護士という職についているが、生活に余裕がある訳ではなかった。


 幼い頃に母とは末弟の出産で死別しており、母を心から愛していた父は子供達を見ていると母を思い出して辛いという勝手な理由で家を出て行方知らず。その後、伯母や叔父達のおかげで学校まで出して貰って大人になったが、まだ幼い弟妹達を学校にやったり、恩のある伯母達に仕送りをすれば財布には小銭も残らない。


 そんな中で、夢でもあった代議士になれるという好機をやっと掴んだ彼だが、肝心の帝都に滞在する費用どころか旅費もなくて困り切った末に後援者に増額を頼んだのだから、何を勝手なと思われても仕方がないと覚悟はしていた。


「馬鹿ねぇ、わたくしが貴方を見捨てる訳がないじゃないですの。わたくしの可愛いアン・ラペロー」


「こ、子兎扱いはやめてください。自分も立派な男です」


 これは失礼と言いつつも、顔が笑っているガンメルゼフィーアは全く悪びれもせず改めるつもりもないようだ。


 幼い頃、貴方兎みたいでとっても可愛いわねと言って以来、彼女はマクシミリアンを子兎扱いしてやめないのだ。


 彼が今年二三になった立派な男だったとしても。


「手紙を読んで、視察ついでに丁度良いかと寄ったのですわ。家族の生活はお任せなさいな。何不自由ないよう支援いたします」


「それは、本当にありがとうございます。勝手なお願いだというのに……」


「それと、帝都での下宿先も探しておきましたわ。本当なら別邸に食客として迎え入れてもいいのですけれど……」


「それは!!」


 分かっていますとも、とガンメルゼフィーアは言葉を止めさせた。


 マクシミリアンは清貧な男だ。貴族の邸宅に部屋を借りて、使用人に囲まれた生活など半日とて我慢できまい。況してや民の代弁者として三部会に乗り込もうという男が貴族の屋敷に囲われていては、どのような噂が立つか分かった物ではないのだから。


「ですから、人柄の良い靴職人に下宿を頼んでおきましたわ。いつも私の長靴を作ってくれている、良い腕の人達でしてよ」


「ガンメルゼフィーア様のお靴を。ということは軍靴職人ですか」


「腕が良いから何でも作りますわよ。……というか貴方、仕事にその服で行っているの?」


 そうですが、と答えた彼は、呆れたような溜息を吐いた公爵令嬢に軽く叱られた。


 身なりは武装。洗濯もしてあるようだが、着古した安い服で壇上に上っても、法という見張り番がいる法廷と違って、弁舌が全ての議場では誰も話など聞いてくれないと。


「一緒に昼食をと思ってましたけれど、色々揃える方が優先ですわね。御者、行き先を変えますわ」


「そんな! 自分の身にはあまりに……」


「お黙りなさい」


 ぴしゃりと言って口を封じると、指を立ててガンメルゼフィーアは懇々と服装の重要さを説いた。


 これは贅沢というものではない。身分を示すため必要最低限の武装であると。


 そして、後援している代議士が見窄らしい格好で議場に行こうものならマクシミリアンのみならず、彼を議員に推薦した街の人々や、自分の格も落ちるのだから黙って良い服を着るように言い付けた。


 これくらいの〝常識〟を弁えられないなら、議員など務まらないと言われ、彼はようやっと納得した。


 貴族が使ってもおかしくない食堂に向かっていた馬車が、街で一番の仕立屋に行き先を変える中、恐縮しきりのマクシミリアンにガンメルゼフィーアは忘れていたと祝いの言葉を発した。


「議員当選本当におめでとう。夢を叶えましたわね」


「ありがとうございます。でも、まだです。議員になるのは第一歩、これからですから」


「そうね。議員になって、国を動かして、理想を叶えてこそですわね」


 貴方の夢、その行き着く先は? と問われ、マクシミリアンは少し悩んだ後、彼女になら言ってもいいかと思い、素直に打ち明けた。


「コーヒーテラスに」


「ん?」


「皇帝陛下や私、そして貴方が自然と腰掛けて理想を語り合う……そんなことができる、自由で柵のない社会を作りたいのです」


「……ああ、それは素敵ですわね。とても、とても」


 窓外を眺めながら、素敵だろうが、それは適わないだろうな、などと貴族視点で物を見るガンメルゼフィーアであったが意見を口にすることはなかった。


 以前送りつけてきた論文にあるように、彼は理想主義者なのだ。求めるのは公平で公正で格差のない社会。


 しかし、人間が理想ではないというのに、理想の社会などどうやって作れるというのだろうか。


 第一、このどうしようもない“ヒト”という生物なんてものは生まれた時点で格差があるのだ。ガンメルゼフィーアのように金のある名門家庭に生まれる者、マクシミリアンのように困窮する定めにあった者、酷い場合では産み捨てられて直ぐ死んでしまう者までいる。


 よしんば大人になれたとして、背の高さ、足の速さ、頭の良さ、全てで差が付く。それら全てを公平に扱うのは土台無理な話。むしろ、優れた者が埋もれる逆の差別が生まれるだけ。


 この世に絶対の公平があるとすれば、それは生きていれば必ず死ぬという道理のみであろう。


 だが、甘い夢を見るのは良いことだ。そして、その夢がこの古帝国を少しでも良い方に運んでくれれば。


「期待していますわよ、マクシミリアン」


「はい、ガンメルゼフィーア様。自分は、自分は貴女様の期待にだけは何があっても応えたいのです」


 純朴にして清廉な青年の目を見て、ガンメルゼフィーアは軍人の精悍な目も良いが、こういう目も悪くないと思った。


 そして、ふと思い出す。


「あ、そういえば手紙で言う内容じゃないと思って直接来たんですけどね」


「はぁ……」


「わたくし、婚約解消いたしましたわ。正確にはフラれてしまいましたの」


「はぁ……は……はぁぁぁぁぁぁ!?」


 滅多に大声を上げることのない青年の、捻り出すような凄まじい声に馬車が大きく揺れた…………。

共和主義者のエントリーだ!

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― 新着の感想 ―
 平等と公平そして公正は全部違いますものね。寄って立つ視点によって変化もしますし。
いやはやこれはこれは 甘やかで青い若木のような青年でありますな。 この若木がいかにして奇果を実らせるのか楽しみであります。
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