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凄まじく基本的な話であるが、この時代においては、貴賤問わず恋愛結婚というものは成立しない。
全ては国と家のために婚姻関係とは締結されるものであって、根本的な問題として好き勝手に子供達が恋愛をすると様々な〝こじれ〟が生まれる。
啀み合っている名門二家の男女が好き合ったとしても、親戚付き合いが確実に破綻するのが目に見えているように、国や家の繋がりを強くするため結婚とは行われる。
それを分かってやっているのかと、ガンメルゼフィーアの右手は無意識に鋭剣を求めていた。
「……失礼ですが殿下、その意味をご理解なさっていらっしゃるのでしょうか?」
「わ、分かっている……ぼ、僕は……正直、き、君に耐えられない……」
つまり、婚約を一方的に破棄するというのは手袋を顔面に投げつけるが行いであるに留まらず、あろうことかこの男はガンメルゼフィーアに非を求めてきたのだ。
「……わたしく、斯くあるべしという理想の淑女であると満天下に自慢できるほどではございませんが、できる限りはやってきたつもりですが」
「その、それでも……それでもだ……君は、僕には……苛烈過ぎる」
そんな理由で国家を左右することを、こんな人目のあるところで碌な説明もなしに、しかも新しい女を連れてやるのかとガンメルゼフィーアは思いっきり怒鳴りつけてやりたくなった。
貴様、それでも分別あるはずの皇太子かと。
いや、もし自分が男であったならば、前歯を全部へし折る勢いでぶん殴っているところだろう。
正直、この場で面目が丸つぶれなのはガンメルゼフィーアの方だ。婚約を破棄された上に新しい女が〝金遣いの荒さに定評のある〟オーハン女? それも、帝室の生まれではあるものの嫡出を認められず、ギリギリで貴族籍を与えられた娘など。
それと比較されて婚約を破棄されたなど、家のメンツに泥を塗るどころか火を付けて燃やすような蛮行だ。世が世なら、それこそラインランテ公爵家は一族郎党を誘ったフェーデを宣言して古帝国エイマール朝からの離脱もあり得る。
しかし、それだけ血の気が多かったのは500年くらい前のことだ。今は私戦など許されていないし、況してや皇家に刃を向けたとあったら、肥大した古帝国の諸侯が切り取り自由だと襲いかかってきて物量で押し潰される。
まだダメだ、まだ殴ってはいけない。
「それに、あ、新しい婚約は皆がより良い方に向かうと信じている」
「それはオーハンとの関係改善でして?」
「そ、そうだ……大国同士が二度と戦争をしないように、鎹になれると……」
また要らぬことを吹き込まれた物だ。馬鹿と風船ほど良く膨らむとは言うが、それっぽい理由という免罪符を得て飛びついたフランツェルスは、余程にガンメルゼフィーアがいやだったのか。
だとしたら、手順を踏んだら周りを説得して、こんな形でなく円満に婚約を解消してやったのにと呆れつつ、自分を落ち着けるためにすぅっと一息吐いて、ガンメルゼフィーアは上等だと嗤った。
「では、このガンメルゼフィーア、婚約破棄の件、承ってございますわ、親愛なる殿下」
「そうか」
ここでゴネられるか、怒鳴られるとでも思っていたのだろう。嫌にすんなりと引いた元婚約者に対してフランツェルスは露骨に安堵して見せた。
一方でオーハン女ことシオレーネは純粋に微笑んでいる。恐らく、自分が惚れた男と順当に婚約ができそうで喜んでいるのだろう。
これだから近親婚と野放図な婚姻外交によって帝国を作った〝若造〟共は信用ならないとガンメルゼフィーアは内心で舌打ちをした。
いくらフランツェルスが夢見がちな年頃といえど、たった一人でラインランテ公爵家と、その郎党を敵に回す決断はできなかっただろう。
どうせ親二重帝国派の宮廷雀やラインランテ家が更なる伸張を遂げることが赦せなかった政敵が後ろについて要らぬことを吹き込んだに違いない。
ならば、せめて意趣返しはしてやると軍人令嬢は腹の前で腕を組んだ。
右手は左の裾に潜り込ませつつ、目を伏せて精一杯悲しそうな顔をする。
「では殿下、元婚約者となる身として、最後のお慈悲をいただきたく存じますわ」
「……なんだい」
「髪の毛を一房、いただけないでしょうか」
婦女が髪の毛を欲するのは、主としてロケットペンダントなどに納めて相手を想うためだ。
フラれた女が、せめて最後の慈悲として欲する物としておかしなものではないだろう。
何せ今からガンメルゼフィーアは婚約者のみならず、国母となり得た将来の地位さえ奪われるのだ。求める物があるとするのならば、あまりに細やかといえよう。
「……分かった。一房だな」
「有り難う存じます」
では、と自分で髪の毛の端っこを摘まみ、護剣に手を伸ばそうとするフランツェルスよりもガンメルゼフィーアの方が早かった。
「殿下のお手を煩わせるまでもありませんわ」
「ガンメルゼフィーア、何を……」
鞘走った裾の護剣が、並々ならぬ事態を察して楽団が演奏を止めたせいで静まり返っていた会場に響き渡った。
そして、眉に掛かる程度であった巻き毛の一本が綺麗に斬り飛ばされる。
自分の目の前を、それこをあと僅かに指の動きが狂っていれば両の眼球を割段されていた位置を刃が抜けて行ったことに遅れて気付いた皇太子はぺたんと尻を突いた。
「で、殿下!?」
しゃがみ込んで自分の顔が無事であるか触って確かめているフランツェルスにシオレーネも腰を屈めて無事を確認していたが、毛筋ほども傷がついていないことは明白だ。
ふんと一つ鼻を鳴らし、凄まじい斬撃によって一本の毛髪もついていない護剣を払った後に納刀してガンメルゼフィーアは歩き出した。
「たしかに一房、ちょうだいいたしましたわ」
「あっ、貴女! 何をするの!? 殿下に刃を向けるなんて!」
顔を真っ青にして未だ動けぬ皇太子の代わりに新たな婚約者となるだろう女が、元婚約者となった女に食ってかかるが、山千海千の士官や将軍を相手にしてきた軍人令嬢にとっては子犬が吠えているようなものだ。
「一房は一房、そして許可をなさったのは殿下。何か異論が?」
「だとしても普通は殿下が……」
「だから、お手間を省いただけですわ。元婚約者からできる最後の奉公ですわね」
のらりくらりと躱されて、帝室に刃を向けたという事実は有耶無耶にされていく。
後に残るのは婦女の剣を受けて尻餅を突き、しばらく起き上がれなかった〝情けのない〟男が一匹いたという特大の醜聞だけだ。
自分が受けた仕打ちにはまだまだ足りぬが、多少は溜飲が下がったガンメルゼフィーアは参列者の方に向き直り、完璧な貴族の礼を取った。
「楽しい夜会を騒がせて失礼いたしました。どうやらお邪魔なようなので、この辺りでお暇いたしますわ」
これで参列している貴族達もガンメルゼフィーアが一方的にしてやられたと喧伝することはなかろう。むしろ、醜聞の大きさで言えばフランツェルスの方が上だ。
貴族とはナメられたらお終い。それは皇帝や皇太子などの帝室が相手であっても変わらない。ここで引いては何を言われても反論一つできない哀れなお嬢様で終わってしまう。
それだけは容れてはならないのだ。さすれば、組み易しと見た愚か者共が寄ってくるのみならず、市井で小唄の一つも謡われるようになりかねない。
唖然とした参列者達を置いて颯爽と会場を去ったフランツェルスは、とりあえず〝お可愛らしい〟皇太子の思い通りにコトを運んでやらずに済んだことに満足して従僕を呼ばせた。
そして、馬車に飛び乗ると鬱陶しいとばかりにゴテゴテと装飾のついた帽子を脱ぎ捨て、踵とつま先が痛いヒールも放り捨てて窓外に叫ぶ。
「長靴!!」
「はっ」
すると、僅かに開けていた窓からイレーヌが長靴を差し入れた。護衛として随伴していた彼は、帰り道には必ず淑女らしい靴に主人が嫌気をさすことを知っているため常に用意してあったのだ。
「さぁて殿下、どう踊るか見物ですわね」
窓際の脇息に肘を突き、暗い夜空を眺めて笑うガンメルゼフィーア。
ラインランテを甘く見た者は、必ず相応の報いを受けるのだ。
今の今までラインランテに類する者はは約束を破ったことはないし、裏切り者は一度たりとて許したこともない。
大方、フランツェルスは脳内にお花畑を咲かせて計画を練ったのであろう。社交の休閑期に暇をしている貴族を集めて、そこで強く婚約破棄を伝えて噂が緩やかに広がるのを待ち、そして次の社交期に改めて新たな婚約者を紹介する。
まぁ、引き籠もりがちの社交嫌いにしては頑張って捻り出した案のようだが、まだまだ考えが足りない。相手がガンメルゼフィーアであること、つまり反撃される公算が極めて高いことを計算に入れていないのがよくない。
いっそ軍務だと嘯いて第51半旅団ごと遠方に飛ばした上、手紙か何かで一方的に切り出せばよかったのだ。さすれば義理を果たさなかったことを責める言葉が涌いてくるだろうが、大恥を掻かずには済んだろうに。
長い足を組みながら、きっと今頃立ち去った会場は面白いことになっているだろうとガンメルゼフィーアはくつくつ笑った。
残念ながら頭の回転がそこまで早くないし、弁が立つとも言えないフランツェルスでは事態の収拾を完璧にすることは不可能だろう。せめて自分を擁護する役割の口が達者な宮廷雀をダース単位で随伴させるか、肯定してくれるような面子だけで場を作っていれば話は別だったろうに。
そして、新婚約者たるシオレーネも人柄と器量は良いが、毒蛇の巣窟たる宮廷で踊りきれるだけの女ではない。
彼女が貴族子弟の通う学校で多くの男児を骨抜きにしたのは、その幸薄そうな美貌と愛らしさからであったが、残念ながら狭い学校で大いに役立っただろう武器も社交界では鍍金の鈍らだ。
可愛いだけでは、愛らしいだけではやっていけない場所もある。
新カップルはさぞ苦労するだろうが、もう自分の知ったことではないと頭の中から放り出す。溜飲は下がったし、彼女は何時までも他人の失態を嘲って悦に入る質ではないから。
「さて、問題はお父様をどうするか、ですわね」
今一番の懸案事項は自分の進退というよりも――いっそ誰ぞの幕僚にないって大陸軍元帥でも目指そうか――一人娘を酷い形で袖にされた父親の方だ。
正直、ガンメルゼフィーアとしては元々どうでもよい婚姻であったし、子供の一人二人産んでやったら、後は金遣いの荒くなさそうな愛妾の一人二人宛がって冷えた婚姻に入る気満々であったから、それが潰れたところで惜しくも何ともない。
国母という地位よりも元帥笏に憧れを持つ彼女にとっては、自分の子が皇帝になるかどうかは些事なのだ。むしろ、優秀な将軍に育つか否かの方が気に掛かっていたくらいなのだから。
されど、フランツェルスの半ば暴挙とも言える婚約破棄は確実に当人同士の問題に納まらず、今上帝とラインランテ公の問題に発展する。
此度の婚約は国内の安定を図るために外国との婚姻を結んで外交を安定させるよりも、連続した戦争によって疲弊した国内事情を慮って結ばれた物だ。
金も資源も軍事力もあるラインランテが次代の皇帝と結託し、安定した治世を取り戻すと同時に疲弊した国力を回復させ、喫緊の問題である国庫も潤わせる。そして、生まれた子供をオーハンに嫁がせるか娶らせるかして外交問題を片付けるという算段であった。
国家首脳部が綿密に練った婚姻計画であったものの、如何せんフランツェルスの不義理によって全ては潰えた。
「今回の一件、明らかに皇帝陛下は関与なさってませんわね」
古帝国の政情を俯瞰するのであれば、婚約破棄騒動は今上帝ルイが承認していることではなかろう。
ラインランテ公ジョルジュは現在九名いる元帥の中でも、名誉称号として元帥笏を授かったお飾りではなくオーハン二重帝国との戦争で功を上げて皇帝直々に任じた元帥だけあってお互いに人柄は知っている。
そして、娘を溺愛して女だというのに軍人をやらせていることも分かっているため、此度の仕儀を知った彼がどれだけ激怒するかなど深く考えるまでもない。
いや、激怒で済めば良い方だ。それこそガンメルゼフィーアの新たな婿としてオーハンの有力貴族か帝室の男児を引っ張ってきて、明確な反エイマール朝派閥を形成してもおかしくない。
しかし、それは貴種にして愛国者でもあるガンメルゼフィーアの望みではない。
彼女は曲がりなりに帝室に敬意を払っているし、この国を愛している。だからこそ軍人を志したし、気紛れお嬢様の遊びなどと言われないように不断の努力を行っていた。
国が荒れるのは本意ではない。
では、どうするか。
「お父上を上手く宥められるかしら。わたくしには甘い方ですけど……一度火が付くとどうしようもない方ですものねぇ……」
ほうと溜息を吐き、自分の婚約が破棄されたのによもや一番の懸案事項が身内とはと公爵令嬢は自嘲気に笑った。
とりあえず、もう中世ではないのだからフェーデだけは避けなければならないと話術を組み立てて、彼女は無責任な噂が出回る前に夜っぴいて馬を走らせ、帝都に戻らねばならないと計画を練った…………。
貴族の本懐とは、ナメられたら殺す!!(バンディッド並の感想)
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