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フランツェルスにとって父との繋がりは薄い物であった。
幼少期に言葉を交わした記憶は少ない。
それは、フランコルム古帝国において皇帝の長子として生まれた者は、乳母の手によって育てられ、その後は数多の教師に囲まれて過ごす物と相場が決まっているからだ。
この慣例は数百年変わっておらず、幼くて言葉を覚えたばかりの彼は、周囲にいる金髪の男性に片っ端から「貴方は僕の父上ですか?」と訪ねて聞いたことがあるほどである。
父の顔を知らず、母の愛も碌に受け取れず、しかし知識だけをねじ込まれて育った青年は酷く鬱屈した自我と引き籠もりがちな精神を身に付けた。
それは本人に資質があったのは勿論だが、環境がそうさせたとしか言いようがない。
斯くして寄せ木細工と静寂を愛する皇太子は、今正に真逆の行動を取ろうとしていた。
皇帝と、その近衆が逃げ込んだバルバラ宮は、僅か一千の兵が守っているばかりの非常に頼りない物であった。
立地も帝都西部、市街地から最も離れているというだけで、普段は高位貴族が茶会や夜会を催すために貸し出される物であって、防御力という観点においては皆無だ。
僅かな兵が守る、立て籠もるにはあまりに頼りない宮殿を見てガンメルゼフィーアは舌打ちを我慢しきれなかった。
帝都から遠く離れたかったのは分かるが、だからといって、こんな攻め寄せられたら五分と保たず陥落しそうなところを選ぶヤツがあるかと。
それこそ、もう少し足を伸ばせば軍事要塞もあるのだ。外からの救援が期待できない状況でもあるまいに、もっと場所を選ぶだけの能がある者はいなかったのかと、彼女の手は無意識に鋭剣を求めていた。
無能という罪を治療するには、最終的には刃しかない。
ただの失策や失敗なら構わないが、この非常事態において悪手しか打てない者は、みなシテ塔なり流刑地なりに放り込んでしまえば良いのに。
「何者か! ここは何人たりとも……」
「この軍旗が見えませんこと!! 古帝国皇太子にして元帥閣下、フランツェルス様のお成りでしてよ!!」
誰何の兵がやって来ると、ガンメルゼフィーアは苛立ちを声の張りに変えて道を空けさせた。絶望的な状況に衛兵達は援軍が来たのかと期待したようだが、その後に続くのが僅か五十騎の竜騎兵であることを知って明らかに落胆しているようだ。
「情けない連中ですわね。この軍旗を見てやる気を出せないとは」
「……無理もないさ、ガンメルゼフィーア。彼等も訳が分からないまま、ここまで陛下を護衛して脅えているんだ」
「相変わらずお可愛らしいこと」
「……僕はもっと早く気が付くべきだったんだろうな。君がそう言って笑う度、甘いヤツだと指摘されていたことに」
自嘲気に言う皇太子に令嬢は意外そうな顔をした。
この国難の場において、よもや自分が言う〝可愛らしい〟という表現に侮蔑が混じっていたことを。
実際、フランツェルスは様々な面で甘かった。助けを乞われれば断るべき場面でも断れないし、演技だと分かるような困窮した顔にも胸が締め付けられる思いをする。
そして、その度に馬鹿を見て後悔してきたからこそ分かるのだ。
今はそれではいけないと。
「ガンメルゼフィーア、僕はこれから少し大胆な行動に出ようと思う。だから……」
「古帝国存続のためになる、そう判断したらラインランテの名を以て、全力で支援いたしますわ」
問うまでもないだろうと食い気味に答える元婚約者に頼もしさを覚えながら、フランツェルスは案内役の衛兵に通されて実父と久方ぶりに顔を合わせた。
「フランツェルス……」
ルイ・ヴァランタン・グウェナウェル・イポリート・ド・フランコルム。古帝国の名を冠する唯一の皇帝は、急拵えの玉座に腰掛けて近衆に囲まれながら憔悴していた。
小さな男だとフランツェルスは思った。しょんぼりと縮こまっていて、自分より少し低いくらいの背が何倍にも小さく見える。
顔はあまり似ていない。掘りが深いが心労から頬が痩けており、祖父譲りの鷲鼻も相まって酷く骨張っている。母親に似た美貌を持つフランツェルスが唯一受け継いだ金髪も、汗をじっとりとかいたせいでボリュームがなくなり、寂しくなっている頭皮が僅かに透けていた。
この人は、これだけ頼りない人だっただろうか。皇太子は記憶を探ってみたが、出てくるのは無言で囲むたまの食卓と、跪いて見上げた玉座に座る姿だけ。
大凡、父親と呼ぶに相応しい記憶を持たない皇帝に対し、皇太子は堂々と立ち、道中で練った案を提案するべく余人を廃して話したいと提案した。
「……分かった。皆、下がれ」
「陛下! 重要事を決めるのに我々がいなくては……」
「聞こえませんこと? 陛下は下がれとお命じでしてよ」
取り縋ろうとする近衆の声は、甲高い音と冷厳な声によって遮られた。
ガンメルゼフィーアが鋭剣の鍔を鳴らしたのだ。
皇帝の声は絶対の命令、ということに古帝国ではなっている。つまり、名目上、それに否を唱えて従おうとしない者を斬り殺す権利が臣下にはあるのだ。
「何をラインランテの小娘が! 軍人ごっこで少し功を上げたからと図に乗って……」
「あら、ジョスラン侯、貴殿こそ陛下の命に抗うとは大した度胸ですわね。抗命の咎でこの手で斬り捨ててもわたくしは一向に構わなくってよ。いいえ、むしろ……」
すらりと鋭剣を抜き放ったガンメルゼフィーアは、満面の笑みを浮かべて軍靴の音も高らかに、さも楽しそうに歩み寄る。
「その髭、昔から気に食わなかったからそぎ落としてみかたったんですの」
「なっ、きさ、何を……」
「陛下の命を聞かぬどころか、安全欲しさに政局を不安定にする近衆など百害あって一利なし。醜の御楯、帝室の藩屏として取り除いて差し上げましょうか」
鋭剣の柄を弄んで刃と峰を交互に入れ替える様は、隅に追い詰められた鼠を猫が如何にして弄ぼうか考えているかの如く残虐性が香る。
「ガンメルゼフィーア」
「これは失敬、閣下」
しかし、その悪趣味な遊びをいつまでもさせておくつもりはなかったので、フランツェルスは一言名を呼ぶだけで刃を納めさせた。
本気で斬り殺しそうな、いや、陛下に血がかからないよう気を付けて斬り捨てようとしていた令嬢が殺気をおさめたことで、正に命の危機にさらされていたジョスラン侯爵は地面にへたり込んだ。
「そういうわけだ、皆、下がってくれ」
逆らえば狂った公爵令嬢に斬られると思ったのか、近衆達は慌てて去って行った。ジョスラン侯も引き摺られていったが、その股ぐらが湿っていたことを気にしている余裕はなかったらしい。
「……君、本当にジョスラン侯を斬るつもりだったのか」
「奸臣の見本にして筆頭みたいなお人でしたもの。処刑人の手間を省いてさしあげようかと」
眇めに睨まれようと、反省も後悔もするつもりなど毛頭なさそうなガンメルゼフィーアは首を竦めた。
そして、改めてフランツェルスの三歩後ろに控える。
あとは勝手に話せと言われていることを理解し、皇太子はは皇帝に進言した。
「陛下、この度は不肖の息子として退位していただきたく参上仕りました」
「退位……?」
「正直に申し上げます。古帝国は揺らいでいます。国体を成す民を納得させるため、目に見えた改革が必要なのです」
父と思おうとしても難しい皇帝への奏上は、フランツェルス自身が驚くほど淡々となされた。
皇帝とは国家の象徴だ。全ての功罪を背負う者であり、多くの国民が今回の問題を奸臣が引き起こした暴政ではなく、皇帝が失策を続けたことだと認識していることが良い証拠である。
なにせ、多くの学がない国民は議会の仕組みも政治の仕組みも知らないのだ。全ての命令が最終的に皇帝陛下のご意志として発される現在において、全ての咎は皇帝にあると考えるのが無学な者達の思考様式なのである。
故に、現在の皇帝が退くことが民の不満解消に最も効果的なのだ。
その際に貴族側には奸臣達の蠢動によって陛下は正常な判断ができない状態に貶められたと説明し、不穏分子は閉門蟄居か領地換えによって左遷して始末する名目も立つ。
三部会の閉会という暴挙、革命という段に至って皇帝をバルバラ宮まで逃げさせた判断の誤り。全て能力不足として糾弾すれば、上のポストが空くことを喜ぶ者達は誰も非難をするまい。
そして、皇太子が国民の声を聞いて立ったと言えば、あくまで帝室が自分の意志で改革を行おうとしたとの名目が立つため諸外国からの不興も僅かに抑えられるはずだ。
「……そうか、弱腰であった余の尻拭いをしてくれるというか」
「僕は……僕は覚悟を決めました。自覚もなく好きにしてきた分、帝室としての責務を果たそうと思います」
息子の真っ直ぐな目に見据えられて、皇帝は瞑目して数分考え込んだ後、随分と痩せて骨張った手で重そうな帝冠を外した。
かつては教皇からの祝福によって与えられ、今では親から子に継がれるようななった冠は大粒の青玉を中央に据えたものであり、細身の純金でできた針金を複雑に縒り合わせた構造をしている。
当時、古帝国が持つ最高の技術を持って作られた帝冠は被り心地を考慮して軽量化が施されているが、それを持つ皇帝の手は酷く重そうであった。
いや、事実として彼には酷く重かったのだろう。
帝冠は全ての責任と義務が形になったような物。発言一つ誤れば数万から人が死ぬような責務に耐え続けるには、人間の精神は脆すぎる。
どれだけ強かろうが老いもするし衰えもする人間に国の命運は重量過多であったのだ。
「余も若い頃は諸侯の不満をねじ曲げて政策を推し進め、二重帝国に対抗し、豪腕を振るうことができた。だが、老いと共に貸しを作りすぎた……」
訥々と喋る様は告解でもしているかのようであった。
事実としてルイは決して愚帝ではない。二重帝国との戦に勝ち、三部会を慣例通り招集し、枢密院の既得権益を削って国民軍を強化した。現在の古帝国軍がより市民軍的な色合いを濃くしたのは、間違いなく彼の功績であったのだ。
それを知っているからこそ、どれだけ切れ味が鈍ろうが往事の冴えを喪おうがラインランテ公もガンメルゼフィーアも皇帝への尊敬だけは忘れなかった。
「引き際には丁度良かろう。愚帝として国に幕を引くよりは、自ら進んで表舞台より退き、息子に任せる方が良い」
「ありがとうございます、陛下」
「ああ、余こそ礼を言うぞフランツェルス。そうさな、退位した暁にはシャンポール領でも貰おうか。あそこは猪も取れるし、雉を放っても面白かろう。まだジョルジュは、余の誘いに応じてくれるであろうかの」
「父上の狩猟好きは変わりありませんわ、陛下」
そうかと笑う実年齢よりずっと老いて見える皇帝の目にやっと光が戻った。この失態の末、断頭台に送られることも覚悟していたルイだが、希望の光が見えて萎みきった精神に空気が僅かに送り込まれたのだろう。
「だがな、覚悟するが良いぞフランツェルス。この椅子は座り心地が悪いし、帝冠は首がもげそうになるほどに重い」
「重々承知の上で申し上げました。僕も……何時までも工房に引き籠もってはいられないと、今回の一件で嫌というほど思い知りましたから」
「分かっておるならよい。ならば、余は帝位を退く。内定という形になるが、フランツェルス、其方が次の皇帝だ」
「謹んで拝命仕ります、陛下……いえ、父上」
重荷が下りたとばかりに背もたれに預けていたルイの体が僅かに下にずり落ちた。痩せた腹の前で組んだ手からはこわばりが抜け、安堵が滲む。
「して、民を宥めるにどうするつもりだ。皇帝が変わっただけで全て解決とはいくまい」
「そこは私から幾つか助言がございますわ」
申してみよと命じられ、ガンメルゼフィーアの血化粧が施された唇が一つの言葉を紡ぎ出す。
憲法、帝権を自ら制限することによって革命家達が立った大義名分を潰せると…………。
フランツェルスくん覚醒。




