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時を遡ること三年前。
帝都北方、ブランデリーの地は適度に鄙びていることもあって、貴族の療養地としても秀でているが、もう一点の用途があった。
「火薬の匂いですわね」
古帝国が束ねる大陸軍の演習場だ。
砲声が木霊する砲兵陣地にて、伊達に騎兵の制服を着こなしたガンメルゼフィーア・レイテ・エーリカ・ゲルトルート・エルヴィーナ・ドゥ・ライランテは、硝煙の香りを嗅いでご機嫌そうに微笑んだ。
傍らには轟く音色にも脅えない彼女の愛馬、艶のある黒毛も勇ましいカイゼリンが暇そうに下草を食んでおり、同じく騎兵銃を各々の愛馬にぶら下げたむくつけき竜騎兵達が屯している。
「ああ、心が洗われますわ。この音色の何と心地好いことか」
「変わっておられますなぁ、お嬢様は」
「軍服を纏っている時は半旅団長と呼びなさい、イレーヌ」
困った物だと初老の竜騎兵が頭を振った。彼の名はイレーヌ。古帝国東部出身の騎兵士官でありながら、40歳を超えて未だ軍務を続けている傑物だ。
大陸軍には、このような言葉がある。
30歳以上の騎兵は臆病者か、本物の勇者のいずれかだ、と。
これは騎兵突撃が戦局をひっくり返すに値する非常に勇敢であると同時、怖ろしく危険な行為であるからだ。時に戦場においては何度も繰り返されるそれを乗り越えて、30歳を超えて長生きできる者は殆どいない。
そして、叩き上げの彼をガンメルゼフィーアが副官に据えている理由は、紛れもなく後者であるからだ。
「それに、わたくしにも乙女らしいところはありましてよ? 幼い頃は花輪を作って遊んだりもいたしましたわ」
「月桂樹で冠を作り、棒きれを元帥笏のように振るっていらしゃいましたね……」
変わらないお方だと呆れながらも、イレーヌは公爵令嬢の振る舞いを窘めようとはしなかった。
少なくとも余人からどうこう言われて態度を改める、いや、好まざる方向へ進む変節漢ではないため、どうあってもこれが彼女なのだ。徹頭徹尾、青い血が流れる者として、民より前にと立つことを決めた旧き血統の末葉。
「砲架が大きく動くまで砲撃を続けなさいな。それと、二番砲台は仰角を二つ! 命中率が甘いですことよ!!」
「はっ!!」
計算尺でも頭に詰まっているような正確さで砲撃軌道を計算する令嬢は、自らの直卒である竜騎兵の次に愛している砲兵隊の訓練に的確な檄を飛ばすと、弾着が修正されたことを確かめて満足げに頷いた。
しかし、その笑顔は直ぐに曇ることとなる。
遠くから馬蹄の音が響いたからだ。
「軍馬の音ではありませんわね……」
鋭敏な聴覚から、砲声に脅えて乱れる音が鍛えられた戦馬の物でないことを見抜いた彼女は、乗り手が誰かも薄々察していた。
そして、肋骨服の合間より銀の懐中時計を取り出すと、時間を見て舌打ちをする。
「お嬢様、お行儀が悪うございます」
「これくらい許してくださいな。ああ、面倒くさい」
溜息を吐いて懐中時計をしまった彼女は、おっかなびっくりやってくる面々を見て渋面を作った。
普段からついてきているが、軍務には同行させていない侍従長が数名の従僕を連れて駆けてきた。そして、砲声に堪らぬと耳を押さえながら跪く。
「ガンメルゼフィーア様、そろそろ仕度の刻限にございます」
「はぁ……分かりましたわ。まったく、あの〝お可愛らしい〟お坊ちゃまは」
「お嬢様!」
「はいはい、殿下殿下、分かってますわよ」
ああ嫌だという顔を隠しもしないでガンメルゼフィーアは渋々とカイゼリンに跨がり、イレーヌに後事を任せると告げた。
そして、一袋の銀貨を投げ寄越すことも忘れない。
最も命中率の良かった砲座の班員には、特別給与を支払うのが第51旅団の常なのだ。他の軍団では軍人への給料遅配も多いと聞くが、少なくとも彼女と彼女の父ジョルジュの軍団では兵士への給金が滞ったことはない。
人は責務を負うと同時に報酬を得る権利があるからだ。いざとなれば身を砲弾と銃弾の前に晒す兵士達は、訓練でさえ命を落とす可能性があるのだから、その対価を一瞬とて送らせてはならない。
これは家訓であると同時に摂理だ。これを弁えない家は早々に没落すると分かっているが故、ラインランテの家は古帝国成立時から続く名門であり続けられているのだった。
「はぁ、やれやれ、落ち着きませんわね」
「お嬢様、締めますよ」
「ええ、どうぞ……うっ!?」
軍人という鋳型は窮屈かもしれないが、この淑女ならば着せられて当たり前のコルセットの方がよっぽどキツいだろうとガンメルゼフィーアは常々思っていた。
これの上に纏うドレスも重いくせに防刃性など皆無な癖をして、一着で平民家族が数年豊かに暮らせていける銀が出ていく。
必要なのは分かっている。この界隈、ナメられたらお終いであるが故に下手な格好はできないものだ。特に被服に金をかけるのは、訪ねる相手をそれだけ尊重していると示す第一の所作であるが故、ここで手抜きをすれば自分の格が落ちるだけでなく、主賓を貶めることにもなるからだ。
しかし、分かっていたとしても気に食わないのは仕方がない。似合いもしないと自分では思っている淑女の武装を纏ったガンメルゼフィーアは、大きな姿見で瑕疵がないことを確かめて鼻息を吐いた。
「ああ、もう、軍人の正装と言えば軍服でしょうに。どうしてこんな格好をしなければいけないのやら」
どうしても落ち着かぬ。長靴もなくば鋭剣もぶら下げられず、万が一の時に携帯を許される護剣は敵を倒すためというよりも、辱められる前に死ぬためのもの。それこそ軍人であることを自負している令嬢は、この上なく厚着をしても素っ裸にされたような心細さを感じた。
「お嬢様、今日はフランツェルス殿下臨席の夜会なのですよ! 婚約者の貴女様が色気の欠片もない格好では困ります!」
侍女に叱られて、仕方がなしに化粧を施された彼女は、騎兵服の色香が分からんとは可哀想な子だと憐れむ。この世にあれほどに伊達で奢侈で格好良い服などあるものか。第一、最も危険な場に身を置く栄誉として刺繍の自由が許された、豪華な服は子女の憧れだ。騎兵服を纏った将校を見たいがために、馬揃えにどれだけの若い乙女が群がってくるのやら。
自分主催の夜会であれば、誰憚ることなく軍服で挑めるというのに、社交とはまっこと面倒なものだ。
「しかし、殿下も何だってこんな保養地に足を運ばれたのでしょうね。今の帝都を離れて〝慰安〟に精を出す時間などないと思うのですが」
「どのような方にも休息は必要なのですよ、お嬢様」
あまりきついと未来の旦那様に嫌われてしまいますよと言われても、好いていない相手に嫌われたところでだからなんだとガンメルゼフィーアは嗤いたくなった。
皇太子フランツェルス。見た目だけは帝国の後継として民に愛されそうな美貌を持ってこそいるが、あれは為政者の器かと言われれば微妙なところだ。
まぁ、趣味として細々とした組み木細工造りを愛するのは良かろう。だが、それに没頭して民の前に出てくることも希で、年に数度の祭りでさえ顔を見せる時間が少ないというのはいただけない。
皇帝とは遠いようで近しくなければならないのだ。常に威厳を持って民を率い、同時に慕われて愛されねばならない。そういった難しい綱渡りの上に君主制は成り立っている。
少なくとも彼女の父、ラインランテ公ジョルジュのように決して軽んじられることはないが、尊敬を持って〝我等が厳父〟と呼ばれるようになれるくらいの器でなければ治世は上手く行かない。
とはいえ、最近の皇帝は殆ど枢密院の良いなりみたいなもので、半ばお飾りと化しているが、それはそれで良いのではないかと会場に向かう馬車に揺られながらガンメルゼフィーアは思案を巡らせる。
無気力な低能力者は、働き者の無能に勝る。
世に暴君は多いが、その多くは過大な権力に溺れた無能だ。しかし、権力を目の前にしても興味を示さない、為政者としては無能なれど、何もしないで担がれているだけの方が比較すればずっとずっとマシだ。
民草には無害という一点において。
少なくとも、貴族が働く暴政というのは都市一つか領邦一つが精々で、国を傾けるのには足りないのだから。
その点、今上帝のルイは優れていると言えた。他国となぁなぁに付き合って戦争を上手いこと収めたし、人柄の良さで外交を乗り切れる希有な才能の持ち主だ。
無駄な出費を重ねる愛妾を抱えることもなくば、出不精でもないので外遊を頻繁に行って国内で畏敬を集めると同時、親しみやすい王としての地位を盤石にしている。
さて、その地位をあの皇太子殿下が真っ当に継げるであろうか?
などと少し前に読んだ大論の内容を思い出していると――最悪、己が尻を蹴り飛ばして外に連れ出さねばならぬのかと考えると憂鬱だった――陽が暮れる頃にブランデリーの閑静な郊外にある館に着いた。
小高い丘の上に聳える豪華な離宮にも負けぬ巨大さの別邸は、七代前の皇帝が公共投資も兼ねて造ったものであり、必要とあれば直ぐに軍事拠点に改築できるよう設計されているため心強い外見をしていた。
塀は高くて厚く、諸所に装飾に紛れた銃眼が設置され、花壇と植え込みに隠された空堀は水路から水を引いて水堀にすることもできる。
ここで催されている出し物が、館に見合うだけのものであればどれだけよいかと考えながら、ガンメルゼフィーアは社交用の笑顔を仮面の如く貼り付けた。
「ネアンデル子爵でありマインツ城伯にしてラインランテ公爵令嬢! ガンメルゼフィーア様の御来入です!」
テノールの扉番が自分の来訪を報せる声を上げてから、大きすぎる扉を開けば、そこには贅沢な晩餐の場が整えられていた。
広いパーティーホールの中には幾つもの卓が並び、そこには無数の料理が軽く摘まめる物からきちんと腹を満たせるものまで豪勢に並んでいるし、主賓が来たら切り開くのであろうパイは無数の鶉を使ったとても贅沢で高価な物だろう。
演奏している楽団も素晴らしい腕前で、一座を呼ぶのに非常に金が掛かる帝都でも御用達の面々ではないか。
更に、配られている発泡白葡萄酒や普通の葡萄酒も全て一級品であり、一本あれば家が建つような代物ばかりであることは貴族として養われた観察眼で直ぐ分かる。
そして、無意識の頭の中で計算盤が弾かれて、たった一夜の享楽に使われる金の額を悟り、彼女は表面的な笑みを崩さぬまま内心で大いに呆れた。
ほんの十数年前まで東の二重帝国と係争地争いで戦争をし、南方の戦乱と継承劇が止まぬサヴォイア半島の私戦に権益目当てで手を出したりして、国庫はすっからかんに近いはずなのによくぞまぁ……。
今も再戦を懸念して貼り付けられている南方軍団は給料の遅配が多いと聞くし、碌に物資もなくて兵士が農家へ盗みに入るほどらしい。この金を国家鎮護のために命を捧げた益荒男に配れば、情勢が幾分か安定しようにと侮蔑しつつも表情には一切出さず、公爵令嬢は完璧に社交を熟した。
貴族でもある彼女は、国庫が厳しかろうが〝コレ〟が一応は必要であることも分かっているのだ。
着替えの時にも考えたが、貴族とは見栄を張ってナンボの商売。なめられた瞬間に価値があっと言う間に落ちる。
そこれこそ、少し見回せば国外の爵位を持っている参加者もいれば、比較的友好的な大陸東北部の偃月半島から来た来賓や、五十年前に独立した新大陸貴族もいる。
ここで貧相な持て成しをしたならば、あっと言う間に皇太子の名誉のみならず、古帝国の国威が落ちるだろう。
なんだ、アイツら金持ってないのか、と侮られるだけで、国家とは強豪相手から貪るべき標的に姿を変えるのだから。
要は予算を付ける均衡であることは分かっても、軍人が餓えるのは忍びない。少なくとも自由な時は黒パンを囓り、葡萄酒ではなくエールで喉を潤している自分ほどに全員が清貧であればなと公爵令嬢は高い発砲葡萄酒を呷った。
「ガンメルゼフィーア嬢、今日も麗しくあられる」
「あらあら、モンテロッサ侯爵、今日も詩歌の腕に負けずお口が上手なこと」
手を取って触れないようにする接吻を交わす若い侯爵を相手にしつつ、彼女は今日会った人間と話した内容を全て記憶すると同時に、それとなく視線を方々に飛ばして自分の反応を見る。
悪くはない。数年前に現皇帝であるルイが国政安定のため、半ば父に縋り付くようにして結んだ王太子との婚約は好意的に受け容れられているようで、こちらを眺める視線に嫉妬などの感情は浮かんでいても暗い物はそう見つけられない。
アレは正しく起死回生の一手であった。国庫に余裕のない王家が、肥沃なラインランテを治めている公爵家と深く繋がれば財政支援を手厚く受けられる。現に公爵家は数百年ぶりに外戚となれるメリットを勘案して多額の支援金を国庫に放り込み、長年の悩みであった天領の高税率を引き下げることに成功していた。
民の不満が鎮まれば貴族は自由に動けるし、大手を振って優しい殿様面ができる。公爵家は正しく全ての家に恩を売ったのだ。
とはいえ、王太子主催にして臨席の夜会だ。ここに呼ばれる貴族は全て一級品であり、社交という名の戦場で纏う甲冑は全て玄人の職工が造った胸甲並の頑丈さ。決して甘く見てはいけないと意識を改めつつ、喋り疲れた喉を葡萄酒で潤していると扉番が一際大きく声を張った。
「ノルマンディア王でありウッェサピア大公にして神聖なるフランコルム古帝国皇太子であらせられるフランツェルス様、ご入来でございます!!」
仰々しい幾つもの称号に飾られた――王太子は帝国内の王位や公爵位を私領として政務経験を積むのが慣例である――王太子が現れた。
今日は皇帝色の華美な紫ではなく、国色である鮮やかな青に白百合紋の刺繍をあしらった装束に黒貂の外套を纏った姿で現れた王太子フランツェルスの外見は、絵画から飛びだしてきたかのように整っていた。
喩えるのならば、正しく白馬の王子様だ。
古帝国では最も良いとされる巻き毛の金髪に透き通るような蒼い瞳。顎はすっとシャープで上品とされる小口であり、鼻は高いが尖りすぎない婦女好きのする甘い顔付き。
しかし、威厳が足りないんだよなと自らの婚約者にフランツェルスは辛い採点を下した。
彼女の好みは豊かで丁寧に整えた髭が似合う、巌のような偉丈夫だ。あんななよなよとしていては驃騎兵の槍どころか貴種の嗜みである鋭剣さえ真面に扱えるか怪しい。実際、小物造りに精を出した手はそれなりに硬くなっているようだが、剣士の手ではなかった。
楚々と立ち入った彼が酷く緊張しているのに驚いたが、この場で位が高く、同時に真っ先に声をかけるべき立場なのは自分かと思い前に出た。
「お久しぶりにございます、フランツェルス様」
「あ、ああ……久しいなガンメルゼフィーア……君はいつも忙しいから……」
「貴種として、帝国の藩屏として責務を果たしているため、中々ご尊顔を拝謁できず寂しく思っておりますわ」
コイツの面を見ているよりは歯抜けも多い兵士達の面を眺めながら、無礼講で酒を振る舞っている時の方が幾分も楽しいという本音をおくびにも出さず、王太子のエスコートを受けるべく手を差し出すフランツェルス。
しかし、その手は中々取られなかった。
何やってんだよと軽く眉を潜めたが、彼はやや目を左右にやったり、手をもじもじさせたりした後に口を開いた。
「その、だな、ガンメルゼフィーア」
「はい、何でございますの殿下」
「その、君、君……君と……」
何やら勇気を振り絞っているようだが、聞いている方からすると非常に間怠い。言いたいことがあるなら男らしくキパッと言い切れよと思っていると、勢い余ったのか会場中に響くような声でようやくフランツェルスが言った。
「婚約を、解消する!!」
「…………は?」
さしもの彼女も、脳髄が言葉をキチンと咀嚼するのに時間がかかった。
今、この男は何を言ったのだろうか。一世一代の大勝負をやってのけたと言うような安心した面をしているが、口にしたことの重要性を分かっているのか?
あまりの事態についていけなかったガンメルゼフィーアであるが、会場の隅っこから一人の少女がやってきて王太子の隣に並び、手を取るのは分かった。
彼女の名はシオレーネ。オーハン二重帝国から来た留学生であり、皇帝の血を引きながら嫡出を認められなかった薄幸の美少女として、貴族の子弟が通う公学校にて男子の耳目を大いに集めた人物として見覚えのある顔だった。
婚約解消の宣言、儚げで見目麗しい異国の令嬢と手を取り合う皇太子。
この構図を見て何が起こったかは明らかだ。
ガンメルゼフィーアは、手元に鋭剣がなくて良かったと心底思った。
この野郎、よりにもよって最悪のタイミングでやりやがったとコトの重大さが理解できるが故、いっそ斬り殺した方が国のためになるのではないかと考えてしまったのだから…………。
FAをちょうだいした嬉しさのあまり続きました。
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