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皇帝といえば絶対的権力の主、という印象が強かろうが、それは帝国建国から八百年ほどまでのことに過ぎない。
帝権は神から与えられた物として中央集権化が一時進んだが、版図の広大さを主要因とする、その崩壊に伴って貴族官僚が幅を利かせる現在において事実は全く異なる。
皇帝の命令は絶対ではなく枢密院によって制御されるし、その枢密院もある程度は三部会のご意見を伺わなければならない。そして、その三部会はもともと課税の是非を問う、つまり税を取られる側へのご機嫌取りとして設置された。
故に、理不尽な命令が下されようが、馬鹿な布告が発布されようが、それが全て皇帝の責任とは限らないのに一番憎まれるのが現在の皇帝という役職である。
「………………」
「お嬢様!?」
軍営にて兵士と同じ黒パンを囓り、カフェオレではなく僅かな砂糖を入れたコーヒーを啜っていたガンメルゼフィーアは、日課として取っていた帝都で出回っている全ての新聞を一息に引き裂いた。
縦に裂き、横に裂き、滅茶苦茶に丸め、それでも満足がいかなかったのか丸めて焚火に叩き込む。
「イレーヌ! 今すぐ騎兵隊に召集をおかけなさい! 枢密院に擲弾ぶち込みに参りますわよ!!」
「どうかご冷静に! 何がありました!!」
「いいから擲弾と拳銃をありったけ寄越しなさいな!!」
婚約破棄を申し渡された時よりも激怒している彼女の灰目は怒りに爛々と輝いており、つり目は視線だけで人を斬り倒せそうなほどに険しくなっていた。
普段ならば絶対にしない、淑女らしくないせわしなさで鋭剣の柄を指で何度も叩きながら、彼女は苛立ちを腹に納めるように熱いはずのコーヒーを一気に飲み干した。
「何があったんですか……」
「枢密院からの提案で、三部会での投票改正の議題が上がりましたわ。それぞれの身分毎に票の重みを変えると!!」
主人の激昂に何事かという顔をしていたイレーヌも、それを聞いてあまりのことに表情をなくした。
「それは、まさか大昔に廃案になった物を再興させろと?」
「大方、宮廷雀に泣き付いた貴族議員がいるのでしょう。このままだと自分達の案が何も通らないと」
新聞で報じられていたのは、信じがたいことに一議員一票という、三部会を開催するにあたって時の皇帝が定めた則を変えようとしている動きがあるということだった。
三部会は法によって定められた組織であるため、その前提は三部会の内部からではなく外部、つまりより強力な権力を持つ枢密院でなければ変更することができない。
つまりは、何処かの馬鹿が宮廷貴族に働きかけたのだ。
「……それはいよいよ擲弾が必要かもしれませんな」
「12ポンド砲を三十門並べて建物ごと木っ端微塵にしない分、わたくしは随分と奥ゆかしいと思わなくって?」
「まったくその通りです」
これはとんでもないことだ。宮廷内の政治が全てだと思っている連中は、特に深く考えることもなく自分達に利する者達にとって有利な政治工作をしかけをした程度に考えているのだろうが、これによって怒る者達のことを全く考慮していない。
それこそ三ヶ月前、サン・キュロットのみならず富裕層までもが怒りに駆られ、ヴェルセーヌ宮を囲んだことを誰も覚えていないのかと。
きっと今頃、擲弾を用意させようとしていたのは何もガンメルゼフィーアだけに限ったことではないだろう。
「どこのどいつか知りませんが、こんな馬鹿を言いだしたヤツを探し出して首を切り落とし、セン川に叩き落としてやりたい気分ですわ」
「……何を物騒な話をしているんで?」
天幕を開けながら入って来た人物は、赴任と同時に聞こえてきた物騒極まりない言葉に顔を顰めていた。
「ナブリオ!」
「お久しぶりです、ラインランテ大佐。第88半旅団長として着任いたしました」
軍帽を斜に被り、相当に扱き回されたのか元々お古だった軍服が更に擦り切れて、雨に打たれた犬のような印象を受けるナブリオがやって来たのは、新編の半旅団が編成を終えたため、帝都勤務をしていた別の旅団と交代で送り込まれたからであった。
彼の半旅団はミランの戦いによって軍人に憧れた新兵と古参兵が良い塩梅で編成されており、ラインランテの資金力を生かしてマスケットも砲も最新式という充実っぷり。その中で、服装に無頓着な旅団長だけが周りから浮くほどに見窄らしかった。
「ようこそ地獄へ! わたくしの砲兵大尉!」
「は?」
歓迎の言葉にはあまりにもあまりだろうという言葉を冗談だと打ち消すガンメルゼフィーア。頼りになる戦力の到来は、悪いニュースばかり聞かされ続けていた彼女にとって福音に等しい。
軍務に忠実で鉄火場に放り込まれても脅えず、尚且つ砲兵の扱いに長けた指揮官ほど頼り甲斐のある物はない。
少なくとも、まるで刃の上で踊っているような危険を侵している帝都に勤務する上では。
「馬車鉄路にねじ込まれて到着したばかりなので、帝都の状況が何も分からないんですが、何かよくないことがあったのでしょうか」
「ええ、まぁ、急に三部会を閉会するとか言い出すよりは一歩くらいマシな状況ですわね」
「それもう普通に地獄門潜ってるじゃないですか」
今すぐにでも帰りたいという顔をしたナブリオであるが、いや帰ったら帰ったで命令不服従で死罪かと思い返し、進むも地獄、戻るも地獄の今に嘆いた。
胃癌で早世した父親は自由に生きろと言ったが、その自由の果てがコレかと一発ぶん殴りたい気持ちであった。
「しかし、思ったより早かったですわね。父様はなんと?」
「帝都がキナ臭いので、いざとなれば大佐の盾になって死んでこいと申しつかっております。それ以外は大体鋭剣でドツかれていたので特に何も」
「ああ、懐かしいですわね、あれはキツいですわねぇ」
士官が突撃を行うのであれば鋭剣を使うのが基本であるが、ナブリオの軍学校における白兵戦術は下から数えた方が早かった。
というのも、彼にとって鋭剣も拳銃も、逃亡兵や命令不服従の兵を斬り捨てるためのものくらいの認識で、こんな物を抜いて敵陣に突っ込むつもりではなかったからだ。
しかし、常に前線を住処とせよをモットーとするラインランテの下で、その考えは通用しない。
「え? ラインランテ公は、あの扱きを実の娘にも……?」
「そりゃもう何度も地面に転がされましたわ。でも父様は優しいのですわよ? 顔に傷一つ残っていないでしょう?」
肋は二、三本折れたことがございますけど、などと宣っておほほと笑う先任士官を見て、この親子は気が狂ってるのではいかとナブリオは思った。
歩兵同士の戦闘は概ね射撃線ではなく銃剣突撃によって決着が付くとはいえ、血の繋がった娘にそこまでやるかと。
さて、人間という生物の精神性は適正射程での――相手の白目と黒目の区別が付く距離とされる――撃ち合いに耐えられる構造をしていない。
銃声が響き、硝煙が立ち上れば隣の誰かが死ぬ。それがもしかしたら自分かも、そう考えれば、確率論的な効率は撃ち合いを続けた方がよいと分かっていても射撃戦など継続できないものである。
早く決着を付けたい、そして人類が元々持っている棒状の物で敵をぶん殴っている方が気が楽という精神性により、大抵の決定打は銃剣突撃によって決まる。
だからこそ、どの国においても銃撃戦を延々と続けられる散兵はエリートなのだ。
その構造的欠陥に基づき、戦列歩兵を指揮する場合、ほぼ確実に白兵戦を行うこととなる。故に指揮官には鋭剣の扱いが必須なのだとしても、よくも娘にあんな仕打ちができるなと、ナブリオは至極常識的な恐怖を抱いた。
それを笑って愛情表現だと受け容れられている娘にも。
「横に振るな、縦で斬るか突け、反吐が出るまで教え込まれたでしょう」
「ええ、戦場に立てば両隣の仲間が邪魔になる。公学校でのやり方なんぞ何も役に立たない物だと理解できるくらいこっぴどく叩き込まれましたよ」
「当然ですわ。歩兵と共に斬り込んで乱戦を生き抜いてきたのがお父様でしてよ」
しかし、行って良しと言われたからには使えるようになったのですわねと微笑まれ、ナブリオの背筋が粟立った。
これは良くない兆候だ。短い付き合いでも分かるが、この女は今、戦場でやっていた笑い方をしている。
「市街戦の心得も仕込まれたでしょうし、存分に働いてくれることを期待しますわ」
「いや、待ってください。市街戦? それは……」
「最悪、帝都が戦場になることもあり得ますわね、今の状況だと」
おいおい聞いてねぇぞ、そう思えど行って守れと言われればやるのが軍人の仕事であるがため、逃げ場などない新任大佐は早速胃が痛くなってきていた。思えば胃癌は家系の病であるので、あまり酷使したくないのであるが、もしかしたら自分は弾丸よりも胃の腑の病で死ぬ方が早いのではないかと思わずにいられないナブリオであった。
「明日からは新聞に注目して動くようにしないと死にますわよ。毎朝わたくしのところに帝都で刊行されている新聞は全て届きますから、読みにいらっしゃいな。大佐なんて給料安いから自分で新聞を買い集めるのは辛いでしょう?」
「……御意に」
「まぁ、気楽に務めなさいな。さて、わたくし、ちょっと抗議の手紙を諸所に出さないと行けなくなったので、部隊の掌握を任せますわよ」
階級では並んでも先任と後任、貴族と平民の差があるため、さも当然のように配下として扱われてもナブリオは何も言わなかった。まだ自分には彼女の方が下だと言い切れるだけの実績も自負もない。
それに、大佐の財布が厳しいのは事実だ。兵卒よりは貰っているが、出費がそれより嵩むため佐官の方が兵卒より酷い物を食っていることなど珍しくもない程度に。
なので情報が何よりも戦場を差配することを知っているナブリオとしては、自分の懐を痛めずに世情を知られるのは有り難い誘いであった。幾ら一枚一枚が大した値段ではないとはいえ、全てを集めると凄まじい額になるのだから。
もうけもうけと思いながら天幕に戻った彼であるが、その考えはすぐ改められることとなる。
日ごとに軍人令嬢の顔付きが厳しくなっていくから、朝に天幕を訪ねるのが憂鬱になったからだ。
「キュリストンが解任されましたわ……」
「はっ!? 三部会で決まった大蔵大臣が!?」
まず三日目に大蔵大臣、財務卿とも呼ばれるジャック・キュリストンが罷免された。彼は日々逼迫していく国庫と膨大な借財に追われる帝室を何とかするべく、三部会が半年がかりで議論した上、やっと皆が納得する人選ということで選び出された平民議員出身の財務卿であり貴賤問わずに人望が篤かった。
中間搾取が罷り通っていた上に〝絞れば絞りだけ偉い〟とされて憎まれていた徴税請負人制度を改革して平民への負担を軽減し、軽率に増税すればいいだろうと思っていた貴族財務官を窘めて戦費を国債発行という形の借り入れで賄い民への負担を最低限にした功績は誰もが知るところだ。
だが、皇帝に捧ぐ報告書と銘打った報告書をパンフレットとして配ったことを原因に、枢密院から罷免を言い渡されてしまったのが昨日のこと。
それは専ら貴族官僚達が自らの放蕩、そして組織的無能をすっぱ抜かれたに等しい内容であったため、怒った官僚達の手で追放されたに等しい。
「わたくしはっ、サロンで、夜会でっ、口を酸っぱくしてキュリストン卿だけは何があっても大事にしろと言って回ったのに! それに後任の財務卿も決めずに追い出すなんて!! ナブリオ! 擲弾を!!」
「流石に財務省を爆破するのは拙いかと……」
「じゃあ鋭剣を二本持って来なさい! 全員撫で斬りにするのにそれくらいは要りますわ!!」
「どうか落ち着いてくださいラインランテ大佐!!」
衝動的に省庁へ吶喊して馬鹿を皆殺しにしたいと騒ぎ出すニュースが後を絶たない。キュリストンの罷免はデモの回数を三倍にするほど民衆から非難されたし、後任の財務卿が三部会に問うこともせず貴族官僚出身者に決まった時は再びヴェルセーヌ宮が包囲された。
その上、辛うじて国民生活を成り立たせていた〝最高価格制度〟が撤廃されたのはキュリストン罷免の七日後だ。国外輸出を制限すると同時に公認商人制度の軽減税率によって辛うじて麦を平民に安定供給させていた法の撤廃は、明らかに一部の商人と貴族の癒着に他ならず、一ヶ月で軍の出動を伴うほどの商館襲撃が相次ぐ事態に発展した。
それから乱発される命令は酷い物ばかりで、軍人の恩赦俸給引き下げだの要塞建築に伴う増税だのガンメルゼフィーアから言わせれば時勢を読んでいない〝悪手〟の連発ばかりで、連日令嬢に鋭剣を抜かせて大暴れさせたという。
しかも、性質が悪いのはどれも三流紙ではあるものの、帝室のセンセーショナルなスキャンダルを流しはじめたことだ。
まるで火に油を注ぐように徹底的に帝室が叩かれ〝新婚約者に莫大な金額の首飾りか!?〟や〝オーハン二重帝国国境から撤兵! 新婚約者への贔屓か!?〟などの見出しはお上品な方。
それこそ自分を引き合いに〝皇太子は寝室から出ることを拒んだ! 新婚約者との相性問題か〟などと取り立たされた時は、もう自分で弾薬庫から擲弾を取りだしてカイゼリンに跨がろうとするガンメルゼフィーアを止めるのにナブリオとイレーヌ、そして当直立哨の四人がかりで挑まなければならないほどであった。
そして遂に断頭台の紐が斬り落とされる。
「ああ、もう、国家反逆罪でわたくしが殺されても構わないから、ヴェルセーヌ宮に押し込んで奸臣を皆殺しにしていた方がよかったですわね……」
これまでの〝自称改正案〟を全て取り下げろと突き上げた三部会の強制閉会が宣言されたのである…………。
終わりの始まり。




