序章
帝都、花の都。豊かにして清らかな水が流れ、季節の花々が咲き誇り、芸術の粋をこらしたフランコルム古帝国の首都は、帝国人であれば一度は訪れたいと願う幻想の街であった。
しかし、今やその姿は昔。煙たなびく夜空に革命旗が翻り、辻という辻に何らかの咎によって私刑に処せられた貴賤問わぬ死体が野放図に吊され、街路を流血が彩る街は混沌と死の坩堝と化していた。
「殿下! お逃げを! 陛下は既に宮城を脱しました!」
その中で辛うじて秩序を保っていたヴェルセーヌ宮の一角に、悲鳴のような声を上げながら侍従が駆け込んだ。
「父上が!?」
金の巻き毛も麗しい美青年が部屋の隅で同世代の儚げで愛らしい女性を抱きながら、遠くから響く蛮声に脅えて縮こまっている。
侍従は部屋の扉を雑に開いたことを詫びる暇も惜しいと思ったのか、彼の肩を取って無理矢理に立ち上がらせようと試みる。
「お急ぎを! 時間がありません! 逆徒共がすぐそこまで迫っております!」
「まさか、まさか父上は一番に逃げ出したのか!? 皇帝たる者が城を捨てて!?」
「陛下の意志ではございません! 一時的な措置にございます!!」
だが、ここは安全なはずだと青年は塀を指さした。あそこには峻険なる山間の国から雇われた伝統と格式ある傭兵団が陣を敷いて守っており、ただ武器を持っただけの賊徒に負けるはずがない。
だが、侍従は力なく首を振った。
「国民に刃を向けるわけにはいかないという陛下のご命令に従った結果、彼等は悉く討ち取られてございます」
「ば、馬鹿な! 皇帝の盾だぞ! 蜂起した者達はそれを、それを殺したというのか!!」
信じられぬと目を見開く二人に頷いて、少壮の侍従は再び肩を強く握った。
「故に脱せねばなりませぬ。北園のウィッセラウス門にヴィーゼルヌ城伯が手勢と馬車を用意してお待ちです」
「あり得ぬ、皇帝の兵を殺す? それでは、それでは反乱……」
「いいえ、陛下、違います」
何が違うというのだと問い返されて、侍従は重々しく、そして苦々しげに告げた。
「これは、革命です。革命が起こったのです」
「ありえない……古帝国……1200年の歴史を民が、庇護されてきた民自らが終わらせようというのか」
信じられぬ事態に青年、古帝国の皇太子フランツェルスは肩を掴まれて尚も膝から崩れ落ちそうになった。
帝国は、貴族は臣民に尽くしたはずだ。ここ数年で二割は税を軽減し、三部会の要請に応えて貴族と聖職者への課税を認め、炊き出しを始めに無数の奉仕を行い、更には憲法を作ることまでも呑み、帝室は常に清貧を良しとして民に寄り添ってきたつもりだ。
それが、それがたった幾つかの〝些細な事件〟と意図的に広められた、三文新聞のくだらない醜聞によって崩れようというのか。
世界が揺るぐような感覚に襲われたフランツェルスであったが、それは錯覚ではなかった。
砲声だ。今までは疎らに攻撃祈祷の音や銃声が響いていたが、砲が鳴り響くことはなかった。
都市防衛に必要ではあるが、悪戯に民を刺激しないよう郊外の連隊にのみ配備されていた砲が市内に入ってきているということは、鎮護の軍までもが襲われたということであろうか。いやさ、軍までもが革命に呼応しというのか。諸所より響く悲鳴は、遂にそれが帝城の門に向けられてしまったということか。
続く砲声、選りすぐりの才と大変な集中が必要な弊害、また連綿と続く抗祈祷戦の発達によって廃れた大規模攻撃祈祷に成り代わり、戦場の主役に躍り出た兵器の音色は何とも怖ろしく、軍団の長という役割を兼任する皇太子として軍事演習に参加したこともあるフランツェルスが何度聞いても好きになれなかった音。
それが遠慮もなく撒き散らされている。
「フランツェルス様……」
「だ、大丈夫だシオレーネ、君は、君は僕が守る」
愛しい婚約者の肩を抱き、今にも折れそうな心を何とか保つことに注力した王太子。
まだ自分には守るべき者がいると萎えそうになる足に拍車を叩き込み、震える手を沈めてなけなしの勇気を振り絞ったフランツェルスであったが、それも廊下を騒がしく踏みしめる音が響いて消え失せた。
よもや、よもや愚昧な、少し先も見据えているか怪しい革命を企てている者達が踏み入ってきたとでもいうのか。
「馬鹿な! せめて門は半刻保たせるとダッセンフルト男爵は言ったというのに!」
いざという時は帝室の壁となって死ぬことが役割でもある侍従は、自分一人で何秒稼げるか怪しいものだと思いつつも、何代も従僕として仕えてきた使命感によって護剣を抜いた。
そして、か弱き未来の皇太子妃を抱きしめる皇太子を背に庇って、乱入してこようとしてくる闖入者に備えて構えを取る。
しかして、扉を乱雑に蹴り開いたのは、野卑な木靴ではなく血濡れの長靴であった。
「なっ!? あ、貴女は! 貴女様は……」
「礼儀破り、抜剣の上での宮中参内はこの際お許しあそばせ。そしてお久しぶり、ご機嫌麗しゅう陛下とご婚約者様」
「ガンメルゼフィーア公爵令嬢!?」
かつては鏡面の如く磨き上げられていたであろう長靴の主人は、背の高い麗しい令嬢であった。
歳の頃は20と少しといったところか。灰銀色の髪を丁寧に編み上げて背の高い軍帽に収め、古帝国の国色たる青に東方鎮護軍の所属を意味する銀の飾りを付けた姿は、そこら辺の将校が裸足で抜け出す伊達な姿であり、酷くつり目がちで勝ち気な灰色の瞳が煌々と燃える松明の如くギラついている。
しかし、その美貌は怖ろしく血濡れていた。高い鼻も、花びらの花弁を思わせる唇も、貴族的に面長な顔立ちも全て。
「ち、血塗れですぞ公爵令嬢様!? 何が、何があられたのですか!?」
「ああ、ご心配なく、全て返り血ですので」
右手に持ち肩に添えた鋭剣が挑発的に輝いた。この大量の血を浴びた女は、ちょっと小雨に降られたくらいで何のこともないと言うように笑った。
獰猛な笑みであった。怖ろしく長い犬歯が唇の間からぞろりと溢れる様は、見る者に根源的な恐怖を与える。
「が、ガンメルゼフィーア……」
「お久しぶりですわね、殿下。たしか……ああ、そうですわね」
彼女はラインランテ公爵家の一粒種にして公爵令嬢、ガンメルゼフィーア・レイテ・エーリカ・ゲルトルート・エルヴィーナ・ドゥ・ライランテ。数多の称号と異名を戴く灰色頭の片外套と肋骨服の騎兵将校軍服が嫌に似合う美姫は、数年前までもう一つの役割と立場を持っていた。
「殿下がわたくしとの婚約を解消なさった時以来ですわね。お変わりないようでなにより」
そう、彼女はフランツェルスの元婚約者。歴史に名高き古帝国の皇太子妃にして国母となるはずだったのだ。
その運命は彼女の顔を見て顔を蒼白にしているシオレーネによって奪われ、同時に自ら引き起こした〝一房断髪事件〟によって婚約を解消したこともあって、今は国元に帰って好きにしているはずだった。
「き、君が、君が何故ここに……」
「あら、わたくし、これでも青い血が流れる帝室の藩屏にございましてよ? 国難とあらば配下を率い、剣を抜いて、砲を放ち、夷狄を打ち払う。お忘れですか? 〝先陣を住処とせよ〟がラインランテの家訓でしてよ」
「ま、待て! 砲を放ち!? 君は、君は何をした!?」
貴族として至極当たり前の文言を並び立てるガンメルゼフィーアであったが、その言葉は皇太子にとって簡単に容れられるものではなかった。
「この姿をご覧になってもお分かりになられない? 相変わらず〝可愛らしい〟お方」
きゃらきゃらと血染めの顔で笑う彼女をフランツェルスは信じられない生物を見る目で見た。
よもや、この女は砲を放ったというのか。父が手を出すことを禁じ、傭兵達がその命令に殉じて殺された市民相手に。
「あんなものは熱気に当てられた烏合の衆。指揮統制は疎か、死ぬまで戦う大義も覚悟もない。釘と鉛玉を詰めた砲を放てば容易いものですわ。素敵ですわよね、言葉が通じない連中にも12ポンド砲は通じるのですから」
「君は自分がっ、何をしたか分かっているのか!?」
「ええ、十全に、完全に、無欠に理解しておりますわ殿下。陛下のおわす宮中を騒がせ、踏みにじろうとしている〝自称革命家〟の愚か者共を我が第51半旅団が掃き清めただけですわ」
からりと笑う女に遂に王太子の限界が来たのか、その胸ぐらが掴み上げられた。
笑っていても笑っていない目が、何をすると窮屈な軍服で押しつけて尚も豊かな膨らみを見せる双丘の襟首を引っ掴む手を冷たく見下ろす。
「臣民は陛下の赤子だ! それをあろうことか砲で薙ぎ払っただと!? 貴様、正気か!!」
「貴公より幾分か冷静にして正気でございますわ殿下。いいですか、武器を持ち、道々で手当たり次第に殺しまくり、宮中にまで踏み入ろうとする者共は臣民ではなく〝反逆者〟と定義されるのですわ。それを粉砕して帝室を守らないで何が貴族でしょう?」
その反論は的を射ているだけに感情論以外での返答が難しく、フランツェルスは思わず後ずさった。その様をくだらない物でも見るような目で見たガンメルゼフィーアは、仮にも自らが仕えている人間が触れていた場所にする行為とは思えない手付きで襟元を払う。
そして、肘に鋭剣を挟んで血糊を拭えば、刃を持ってその柄を彼に向けたではないか。
「お取りくださいまし、殿下」
「な、何を……」
「反徒は蹴散らしましたが、まぁ熱しやすい連中ですので、またぞろ押し寄せて来るでしょう。我が半旅団は急いで駆けつけてきたこともあって、一個大隊規模しか追従できておりませんわ」
また直ぐに押し寄せて来るという言葉に婚約者の顔色が更に悪くなったが、そんなことを無視しして公爵令嬢は告げる。
「ですが、半刻耐えれば残りの二個大隊が、北部のピエルモン監獄を守っていた第39半旅団と80半旅団の半分ずつ、まぁ五個大隊は連れてくるでしょう」
「監獄の兵を引き抜いたというのか!?」
「あそこは政治犯ではなく平民向けの監獄。大した部隊も差し向けられてはおりませんわ。私の名を持って死守命令を出したので、兵達は大人しく従うでしょう。あそこは叔父様の領地から抽出された軍が守っておりますしね」
それで、その軍を持って何をするのだと問われ、令嬢は面白い冗談を訊いたとばかりに腹を抱く。
「陛下をヴェルセーヌ宮にお連れ戻しくださいな。さもなくば民心はより一層離れ、諸侯からの信も喪いましょう。さすれば、今度こそ本当に我が麗しの古帝国は終わりでしょうね」
国がなくなれば民も終わる。違いまして? そう問われ、フランツェルスは柄を取るべきか悩んだ。
だが、苦悩も僅かな間だった。彼が為政者として腹を括ったのではない。
ここで迷えば不適格としてこの手で殺すぞと脅しつけるような目で威圧され、ふるふると手を伸ばしたのだ。
そして、彼は悟る。三年前のあの日、彼女に婚約破棄を申しつけたのは正しかったのかもしれないと。
喩え別れ際に義理として髪を一房要求されて「可愛い所もあるではないか」と許したところ、即座に隠し持っていた懐剣を抜剣して前髪を切り散らされようと。彼女の代わりに見初めたシオレーネが弱小貴族の私生児であったことで国論が割れようと。
そして、革命の憂き目に遭いかけていても。
この女の夫になるよりはずっとずっとマシだったのかもしれないと剣を取る。
「結構ですわ。では、陛下をお迎えに上がりましょう。侍従、陛下はどこの離宮に向かわれたので?」
「に、西のバルバラ宮です……市街より最も離れておりますれば……」
「チッ、また守りづらい所を……侍従武官は何をしていたのでしょうね。是非その顔と才覚を拝謁したいものですわ」
そして、自分の手で叩き斬ってやると言わんばかりに彼女は腰に手を当てて憤った。
「イレール!」
「御側に」
そして戦場であっても能く響き渡るだろう凜とした声を張り上げると、扉の前に待機させていた配下に声をかけた。
「予備の鋭剣!」
「こちらに」
自分が腰に佩いていた鋭剣を恭しく捧げ持った東方系と思しき、彫りの深い老軍人はそれだけではなく、鞄も小脇に抱えていた。
「それと殿下に軍馬と軍装を! 五分でお召し替えをお済ませさせなさい!」
「はっ! 殿下、ご無礼をお許しあれ!!」
「なっ!? き、着替え!?」
「夜着のまま殿下を連れ出す訳にも参りませんでしょう。バルバラ宮まで市街を突っ切らねばならない上、夜はまだ冷えますわ。第一、貴方は名目上でも大陸軍の元帥、戦陣に立つならそれらしいお召し物をしていただかなければ」
迅速に、と配下に言い付け、新しい鋭剣を帯びた公爵令嬢は右手の人差し指と中指を首元に添える古式の敬礼を行い――命令があれば、自分の首でも掻き斬ってみせるという忠節を示す仕草が元となった――踵を返した。
震えながらも、国を守らねばならない立場であることを思い返したフランツェルスは、しかし疑問に思って問うた。
「ガンメルゼフィーア……君はなぜ危険を賭してまで来た。君は……僕を……なんだ、馬鹿にしていただろう?」
「担ぐ物は軽い方がいいにしても、担ぐ物がなくなった時に人はどうなると思いまして?」
何だって? と聞かれ、令嬢は大笑と共に獣になると答えた。
「革命なんて百年は早いのですわ! 民が字を読めるでもなく! 美辞麗句に騙されないだけの知恵も与えられておらず! まして共和制! その最終的に責任が帰結するところが誰かも知らない!!」
「責任の帰結……?」
「失敗したら民自体が悪いことになる政体に、政の何たるかを教えられてもいない者達が耐えられるとお思いで?」
いえ、絶対に受け容れられない。またぞろ暴れて、自分達が自分達の責任で選んだ為政者をつるし上げて「自分達は被害者だ」なんて悦に入るに決まってますわと腹を抱えて革命家を嘲笑する軍人令嬢。
「良くも悪くも、連中もお可愛らしいのですわ。人間なんてものを信じているのですから共和制という夢を見る」
革命なんて、共和制なんてまだ早い。人間が理想でないのに、その理想でない者達が寄り集まってどうやって理想国家なんてものを建築しようというのか。
況してや、周辺諸国が黙っていまい。
民が皇帝の首を落とすなど、そんな事態が自国に波及したらと必ず考える。
そして、革命の衝撃で体制が碌に整わないうちに叩き潰しに掛かるだろう。さすれば、古帝国1200年の地は刈り取り自由の狩り場になってしまう。
それだけは、それだけは護国を担う者として避けなければならない。喩え自分の主君に無理矢理鋭剣を握らせるような暴挙に走ろうと。
「だから、その甘い夢を粉砕してまいりましょう。まだ熟れていない果実を無理に囓ろうとしている者達の顎を蹴飛ばすのですわ。まだ民達には帝国が、皇帝陛下の御威光が本当に必要だと思い出させてくださいまし。これは一種の治療ですわ殿下」
どうか、責任をお果たしください。そう告げられ、脅えていた男の目付きが変わった。
「……わ、分かった。民に刃を向けるのは不本意だが、それが民のためになるのならばやろう。民を斬ったと誹られても、帝国の未来のため斬ったと胸を張ろう。皇太子として、それくらいはやらなければならないはずだ」
臆病ながら決意に満ちた目で鋭剣を握り、用意される着替えを黙って受け容れようとする皇太子にガンメルゼフィーアは令嬢としてではなく、軍人として口笛を一つ吹いて軽口を叩いた。
「なんだ、ちゃんとチンコついてるじゃないですの殿下。どうしてその男ぶりを婚約者だった時に見せてくれなかったのかしら」
「チッ、チン!? しゅ、淑女がなんてことを!!」
「あはははははは! 下らない夜だと思いましたけど、存外収穫はありましたわね!! さぁ、私自慢の竜騎兵中隊が護衛を務めますわ。道中の安全は小官にお任せあれ」
「あ、ああ……し、しかし君、そんなことを言う気質だったかい……?」
「軍人なんて大なり小なりそんなもんですわ! レオナール! わたくしの馬を! 騎兵中隊、15分で出ましてよ!! 夢見がちな阿呆を蹴散らす準備をすませなさいな!!」
控えていたまた別の士官に怒鳴りつけながら雄々しく配下に檄を飛ばす彼女はガンメルゼフィーア。
後に革命軍、そして古帝国の権威を崩そうと戦争を起こした諸帝国から軍人令嬢と恐れられる帥のカリスマにして戦略の天才が革命の夜を叩き割るべく、軍靴の音も高らかに血濡れの靴跡を刻み始めた…………。
意外と好評だったのと遠藤海成先生がガンメルゼフィーアを描いてくださったので嬉しさのあまり続くことになりました。
イラストは作者Twitter(いいかい、君はXなんて洒落た物ではないんだ)にて見ることができます。
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